第12話 夜の民(参)


 さわさわと穏やかな風が砂の地に吹き渡った。揺らいだ椰子の葉の隙間から星星の光が差し込み、砂土に小さな光の粒を落とす。だがヤトと呼ばれた男の真玄の髪はその光をすべて取り込んで瞬きすらしない。周囲でヤトの黒の眼を見た盗賊の者たちは語を失って、ただただ怯えている。その貌は蒼白で、今にも卒倒しそうである。

 その眼窩に潜む深淵は光のみならず音も奪ったようだ。砂地の村は静けさの中に下ろされている。

 その静寂を破ったのはナジュムだ。彼は小さく嘆息すると、やおら杖を付いてヤトの方へ歩行いた。村の者みなの視線の中、ナジュムはヤトの眼前に立って静かに言葉を落とした。

 

其方そちらから人のあるところへ訪れるとは思ってもいなかった」

 

「御前が奇妙にもぞろぞろ他者ひとを引く連れていたからな、先に見物へ来たのですよ」

 細い眼を一層細めてヤトはからからと嗤った。音を立てて「それらしく」しているが、表情だけでは笑っているのか怒っているのかも判ぜない。眉ひとつ動かすことなくナジュムは懐よりあの「鏡」の黒石を取り出すと、そっとヤトへ差し出して続けた。

「左様か。だが丁度良い。この者らを連れて行きたい」

 ナジュムの三白の眼がラーミウとシハーブへ向けられる。ヤトは「ほう」と語を零すと矢庭にラーミウへ詰め寄った。細長い眼窩から覗かれる深淵に、ラーミウは呼吸をするのも忘れた。己までも中へ溶けて消え入りそうなほどに深い、深い闇なのだ。ヤトは口端を持ち上げて云った。

 

「へえ……宮の男……然も、これまたを連れて来ましたね」

 

 その聲でラーミウはようやく我に返り、息をすることを思い出した。あまりに突然に外気が肺を渡った故激しく咳き込んだ。されどそれでも強く外気を肺へ、そして脳へ送り込み、ラーミウはようやく停まった思考を働かせるに至った。

(これが、夜の民。僕の求めるものを知る者)

 ラーミウは胸を押さえながらまたヤトを見上げると、ヤトは詰まらないものを見るような、表情いろのない貌を向けていた。ヤトはふとラーミウの後方へ眼を向けると小さく語を落とした。

「もうひとりは御前か。御前も久しいですね。滅多に貌を出さぬではないですか」

「そりゃ悪かったね。誰が行くか、あんな所」

 ラーミウの後方で応じたのはシハーブだ。砂除け布を頭から下ろし、形の良い不機嫌面を見せている。彼らは貌馴染みのようで、ヤトは愉快そうにシハーブの傍に寄り、その頬を抓って揶揄っている。ナジュムはラーミウを庇う様に寄ると、やや強い語調でヤトへ問うた。

「で、良いのか」

 ヤトは暫しラーミウを見詰めると、小さく嘆息を零し、ナジュムの持つ「鏡」の黒石を奪い取った。

 

「ま、いいだろう。許可する」

 

「感謝する」

 ナジュムは手を合わせて頭を垂れた。その眼前でヤトは己の手の上に黒石を乗せ、もう片方の手を翳す。すると、その黒石はぐずりと溶け、大きく揺らいだ。ヤトの手もどろりと溶け、その黒石と混ざり合う。ゆらゆらと混ざり合ったものは大きく揺れ、不意に動きを留めた。ヤトはやおらラーミウを見ると静かに聲を鳴らす。

「これを肌身離さず持て。器を失いたくなくば、決して手放すなよ」

 ヤトの手と黒石は白星の光を弾き、目映く輝く三枚の「鏡」となっていた。ラーミウはヤトからその「鏡」を受け取ると、内心で独り言ちた。

(だから、「鏡」と呼ぶのか)

 のぞき込むと、己の姿は映し出されるが、輪郭を持たぬ銅鏡だ。ヤトはナジュムから離れると、小さく手を鳴らして云った。

 

「さて諸君。ようこそ、我が夜の地へ」

 

「え?」

 ラーミウは意図せず語を零した。何時の間にか、見知った昊の様相が失われていた。昊は夜の帳がもう一枚下ろされたように真黒の色を塗りこめ、ぽっかりと一か所だけ穴が空けられている。その穴からは群青に浮かぶ白星がうっすらと垣間見えるのだ。周囲を見渡すと、地上と境目のない天幕が点々と設けられ、ヤトと同じ玄の髪と眼を有し黒衣を纏う人人や馬の姿がある。彼らは皆、異なるようで同じで、見分けがつくようでつかない。彼等は口々に女の、男の、若者の、老人の聲を木霊させる。

 

「あれはジャウハラ」

 

の向こうの者」

 

「何故この地に」

 

「恐ろしや、恐ろしや」

 

 ひとりあったかと思えばふたりあり、そうかと思えばひとりある。人数すら定かではない。馬の形をしたものも、ある時には狗の形を取り、ある時は鳥の形を取る。

 己の見ているもののうち、いったい何れが正しい様相なのか。ラーミウはひどく困惑し、吐き気すらあった。そうしている己も己なのか判ぜなくなる程に混とんとした感覚だ。すると、ナジュムがラーミウの肩を叩いた。

 

「気を確固しっかりと保て。気分が悪くなったら鏡を覗き込むんだ」

 

「あ、承知あゝ。わかりました」

 ラーミウは手に握られた銅鏡を覗き込んだ。鏡面には白星が映しだされ、ラーミウの意識を明瞭にさせる。ようやく落ち着きを取り戻したラーミウは小さく嘆息すると、ナジュムを見上げた。

「有り難う御座います」

「否、気にするな。初めて訪れた者であれば皆同じようになる」

「ナジュムもですか?」

あゝ。現在も慣れぬものは慣れぬ」

 ナジュムは眉間に皺を寄せ、蟀谷こめかみを手で押さえている。此処はジャウハラの民の立ち入らぬ場所。ジャウハラの民であれば正気を保ち難い地なのだ。ラーミウは何んとなしにシハーブを見ると、シハーブも貌を顰めて黙していた。やや貌色が悪くもあり、酷く汗を搔いている。ナジュムはシハーブへ寄ると、肩を抱き、静かに尋ねた。

「大丈夫か、シハーブ」

「問題ない。さっさと用事を片付けろ」

 ラーミウは小さく頭を縦に振ると、やおらヤトへ向き直った。ヤトと目が合うと、背筋をのばしたまますっと膝を地に付け、手を合わせて頭を垂れた。

「お招き有り難う御座います。僕は翡翠族ヤシュムのラーミウと申します」

翡翠族ヤシュム……ほう、何時の間にかのか。時が経過ぎるのはあっという間ですね」

 感慨深そうにヤトは顎に手を当てて微笑んでいる。ヤトは鋭い真闇の眼でラーミウはを見据えると、しんとした聲を鳴らして返した。

 

「私は守司ノ夜刀。夜の民の「繋ぎ」です」

 

 ヤトは礼を返すことはない。だがラーミウは気に留めること無く、語を返す。

……ですか?」

「まあ、色々とあるのですよ」

 ヤトはおもむろに後方にある天幕の方を向き、指し示して続ける。

「さて、此処で立ち話もなんですし。私の天幕へ行きましょうか」

 ラーミウが面を上げ彼の指示す方角を見ると、地と一体となっている天幕が客人を招かんとばかりに入り口の垂れ幕を揺らがせていた。まるで巨人の口だ。ヤトがすたすたと其処へ寄って、垂れ幕を引いて開けるのを認めると、ラーミウは黙して頷いた。

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