第06話 翳り


 さらさらと地上へ降り注ぐ雨音が鏡の泉に小さな波紋を幾つも描き出す。泉に浮かべられた白や赤、青、緑の睡蓮の花をゆらゆらと揺らす。

 その前に膝を付いて頭を垂れていたサクルはやおら足許に置かれた短剣を拾い上げた。金剛石の散りばめられた青銅の短剣だ。サクルはその短剣を鞘から引き抜き、己の人差し指にあてがった。少しずつ力を込めてゆくと、、と音を立てて弾力のある肉が裂け、その裂け目から真朱まそほの雫が溢れ出す。遅れてじんわりとした熱が指先から渡る。

 サクルはその手を泉の水面みなもへ翳した。水面は雨粒で激しく揺らいでいる。サクルはその中へ己の血を垂らした。指の表面を伝った雫は泉の中に鉄錆の花弁はなを咲かせ、雨粒とともに波紋を広げる。真朱まそほ花弁はなは次第に水の中へと溶けてゆき、馴染んで消えた。

 

白鏡しろかがみ様」

 

 背後より鳴らされたのは近衛のマージドの聲である。サクルはふらつきながらも立ち上がると、濡れて己の頬に張り付いた砂色の髪を払った。その貌の右半分はくろの布で覆い隠され、左半分には小皺の寄った温容な貌が覗かれている。その中で幽光ゆうこうをともしているのは金剛石の眼である。

 サクルがおもむろに振り返ると、白の宮へ続く柱廊に、マージドの姿がある。剃髪で赤銅の露わにされた頭から頚に掛けて鷹紋様の白い墨を入れている、三十半ばの男だ。襟元に緑の刺繍を施した白の衣と灰白かいはくの鎧を筋骨隆々な肉体に纏い、その腰に金剛石を散りばめた湾刀を携えている。マージドはまた低い聲を鳴らした。

「早く身體をお拭き下さい。お風邪を召されます」

理解わかっている」

 サクルはすたすたと柱廊へ歩行あるき寄った。その脚は痩せ細り、歩行くのもやっとな様相を帯びている。マージドは駆け寄ると、サクルの肩を抱いて支えた。サクルは上背があり支え辛いが、マージドは彼を決して離さない。サクルはマージドを制して己の力で立つと、静かに語を落とす。

「ご苦労。ラーミウからの連絡は来たか」

はい、文が。現在いまのところ、民への影響は見られていないもよう」

「左様か」

 短く応じると、サクルは白の宮へ向けて歩行き始めた。マージドも彼の後へ続く。柱廊を往来していた宮女たちは彼等を認めると、急ぎ端へ寄って跪いた。彼女たちはみな、白の衣の襟元に白い刺繍を施す白鏡の宮女である。

 サクルは彼女たちへ覚らせぬよう、確かな足取りで進む。だが矢庭に、サクルの視界が昏くなり大きく歪んだ。その傍らでマージドが目を見開き、聲を張った。

「白鏡様!」

 マージドに受け止められ、サクルはようやく己が仆れそうになったことを解した。周囲の宮女たちは騒然として、医官を呼べと叫んでいる。サクルは重い頭を手で抑えながら手を上げ、彼女たちを制した。

「問題ない」

「ですが、白鏡様」

「室へ向かう。そなただけ付いて参れ」

 サクルが云い放つと、マージドは口を噤んだ。玄の布に覆われていない左眼が鈍い白銀の光を放つ。その金剛石の瞬きはこの帝国の主たる者の輝き。マージドは小さく一礼すると、黙して彼に従った。宮女たちもまた、気遣わしげにサクルを見るが、口を閉ざし彼等が白の宮へ戻ってゆくのを見届けた。

 サクルは今にも仆れそうになるのを堪えながら、長い長い柱廊の先の突き当たりまで進んだ。ようやく虹鷹の紋様の描かれた白い戸の前へ辿り着くと、マージドが戸を開けてサクルを誘う。

 其処は白鏡の室である。全てを白に染め上げた室だ。石壁を白塗りの大布で覆い、床には白の絨毯を敷き詰めている。寝具も卓子に飾られた睡蓮の生け花も白。サクルは寝台の前へ進むと、矢庭に膝を折って坐りこんだ。

 はっとしたマージドは駆け寄るとサクルの傍らで屈み、手を差し伸べた。

「白鏡様、どうぞ私にお掴まりください」

あゝ、済まない」

 サクルはマージドの手を掴むと、突として呻き、貌を押さえて蹲った。激しい痛みが全身を駆け巡り、サクルは床に仆れ込む。びくびくと小さく身體を痙攣させて、音にならぬ悲鳴を上げた。マージドは貌を青褪めさせてサクルへ聲を掛ける。

「白鏡様、白鏡様!しっかり!」

 だが返って来るのは呻き聲ばかり。マージドは戸の方へ振り返って聲を張った。

「誰か!誰か医官を!」

「マージド!」

 それを遮蔽るようにサクルが掠れた聲を轟かす。マージドの袖の裾を強く握り、引き寄せている。その手は痩せ細り、骨の形がありありと映し出している。マージドは血の気の失せた面持ちをしてサクルの口許へ耳を寄せた。サクルは痛みで震える聲を鳴らした。

 

医官では如何しようもない……のは、そなたも知っているだろう」

 

「ですが……」

「大事無い。――、決して屈してはならぬのだ」

 サクルの片方の金剛石が爛々と燃やされる。痛みを堪えて噛み締めすぎた所為か、紫になった乾いた唇から一筋の血が流されている。息は荒く、時おりひゅうひゅうという厭な音が立てられ、マージドは苦しげに貌を歪める。

「白鏡様……」

「新たな白鏡が生まれていないということは……だ。必ずや、あの者は戻って来る。ラーミウが連れて戻って来る」

 それは切なる願いだ。マージドは黙して頷き、サクルを抱き上げて寝台へ寝かせた。そのかんもサクルは苦悶の音を立て、マージドの腕に爪を立てた。その指は枯れ木のようで、力を込めたとしてもマージドの屈強な腕に痕跡あとすら付けられない。マージドは寝台の傍らで片膝を付いて跪くと、静かに聲を鳴らした。

「白鏡様、どうぞお休み下さい。本日のお務めも終いましたし、あとは臣下の者へお任せ下さい」

あゝ、何時も済まない」

 返された語は弱々しく、マージドの貌を一層曇らせる。深く頭を垂れ、聲が震えるのを堪えながら言葉を絞り出す。

いえ、私どもは白鏡様の照らす光で生きているのですから」

 だが、今度は返答はない。マージドは立ち上がってサクルを見ると、サクルは何時の間にか寝息を立てていた。玄の布に隠されていない貌の左側は頬が痩け、土気た色に染まっている。白鏡は既にもう何年も身體を

 マージドは己の手を強く握りしめると、立ったまま深く頭を垂れた。暫しの間マージドはそうしていたが、ようやく面を上げると音を立てぬようにして室を出た。

 サクルひとりが残された室内には、外から鳴らされる雨音以外の音は鳴らされない。その音はまるで虹鷹の哭く聲のようだ。サクルはうっすらと白銀の眼を開くと、窓穴から除かれる鈍色の昊と、その向こうで瞬き始めている夜の星星を見た。

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