第8話 甲斐日川を血の川とす

 浅右衛門ら一行は、笹子峠を越え、鶴瀬の山里に入った。みすぼらしい蓬屋が点在する。行く手には、峻険な甲斐の山々が連なり、断崖のごとく切り立った街道の下には日川にっかわが流れる。

 日川の流れを見おろしながら、浅右衛門は馬上、「これが、お菊から聞いたあの川か」と独りごちた。


 それは、この日川についての逸話である。

 今からおよそ四十年ほど前の天正十年春、武田勝頼はこの地で織田・徳川連合軍に追い詰められていた。このとき、主君勝頼を落ち延びらせるべく、奮戦したのが家臣土屋惣蔵(昌恒)であった。

 惣蔵は、この日川の崖っぷちの狭い道に陣取り、追手の先鋒である織田家重臣滝川一益の軍勢にただ独り敢然と立ち向かう。


 攻め上がって来る敵を弓で射落とし、矢が尽きるや、断崖に這う蔓を手で掴み、もう一方の手に握った太刀で、敵兵を次々に斬っては、崖下に蹴落とした。これが後世に伝えられるところの、「片手千人斬り」である。

 以来、日川は「三日血川」とも呼ばれた。三日間、血染めの川となったのだ。

 この逸話を浅右衛門はお菊から寝物語に聞いていた。

 お菊の生家たる井上家は、庶流ながら武田二十四将の一人、土屋昌続の後胤であり、惣蔵は昌続の実弟にあたる。


 一刻後、浅右衛門率いる破落戸集団は、鶴瀬関所の門をくぐった。しかしながら、関所役人から誰何すいかの声一つとしてなく、無論、悶着もない。役人らはまったくの無表情で浅右衛門らを通行証を改めることもなく通した。

 この役人らの絶無の反応に、お菊は胸騒ぎを覚えた。

 関所を通過し、再び山道に入ったところで、お菊が駕籠の中から浅右衛門に声をかけた。

「旦那様、しばしよろしゅうございますか」


 浅右衛門が馬をとめた。

 お菊が言う。

「先程の役人らの態度。何やら、不審にございます。この先、お気をつけてかかられませ」

「うむ」

 浅右衛門が首肯した刹那、鉄砲の射撃音が鳴り響いた。耳を聾するがごとき一斉射撃であった。


 転瞬、浅右衛門の騎馬がヒヒヒィーンと高く嘶き、横倒しに倒れるや、浅右衛門の五体は地にもんどり打っで転がった。

 それを見て、お菊が叫ぶ。

「旦那様!」

 お菊の前後左右で、破落戸どもがバタバタと斃れた。全員が額を撃ち抜かれていることから察すれば、敵は相当に射撃慣れしていることは瞭然であった。おそらく猟師の類であろうが、いかなる遺恨あってのことか。


 見れば一丁先の山陰に硝煙が立ち込めていた。敵がその辺りの叢林に潜んでいることは明らかであった。

 浅右衛門がすくっと起ち上がった。どうやら銃弾は馬を撃ち殺したものの、浅右衛門自身は無傷であると見えた。

 お菊が安堵しつつ、周囲の悪党どもに命じる。

「皆の者、かかれいっ」

「うおおおおおーっ」

 解き放たれた獣のように、ならず者全員が二尺の長ドスを閃かせて、敵に突進した。


 辺鄙な片田舎の甲斐である。

 相手が持つ鉄砲は所詮、旧式の火縄銃であろう。となれば、どんなに鉄砲操作に手慣れた者でも、次の弾丸装填に二十秒はかかる。一丁先の距離なら、次の射撃にまでには敵の只中に吶喊できるのだ。

 喧嘩慣れした悪党らは、凄まじい怒号をあげて疾駆した。すると、その地獄の羅刹のような咆哮に度肝を抜かれたのか、蓑や熊皮をまとった野卑な群れ十人余が、鉄砲をほっぽり投げて、一目散に崖を下り降り、日川の岸辺めざして逃げ散るではないか。


 やはり地元の猟師であった。

 おそらく遺恨を含んだ小仏の関所役人に頼まれてのことであろう。しかも、鶴瀬の役人とも通じていたのに相違ない。

 まさか危険な崖を下って追撃してくるはずはないと思ったのか、猟師らは跳ぶように眼下の川めざして必死に駆け降りる。

それを「逃がすものか」と、血に飢えた破落戸ら百名余が鬼の形相で追撃した。浅右衛門に頭をおさえられている鬱屈を今こそ一気に爆発させるときであった。

 

 たちまち足の速い先頭の者が最後尾に追いつき、相手の背に長ドスを一閃した。背を割られて断末魔の悲鳴をあげた仲間を見て、「もはやこれまで」と猟師らも腰から山刀を抜いて応戦した。

 そこから先は、阿鼻叫喚の血みどろ地獄である。

 江戸市中で、ゆすりたかり、強盗、強姦、人さらいは無論、金のためなら殺人も厭わない闇の裏社会に棲む者にとって、血に酔うような嬲り殺しはまたとない悦楽であった。日川は四十年前の惨劇「三日血川」の再現となり、陰惨無惨な血染めの川となった。


 その頃、波木井三郎の砦では、お菊配下の遣手婆、萩緒の率いる遊女どもの嬌声と男どもの濁声、そして酒の熟柿臭い匂いに満ち満ちていた。

 男たちは最初の頃こそ、旅芸人に扮した遊女たちの踊りや芸に興じていたものの、酒が入るにつれて、持ち前のゲス根性が露わとなり、夜ともなれば遊女らを手籠めにしてもてあそび、あらん限りの蹂躙、狂態、痴態を繰り広げていた。


――つづく

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