第9話 久遠寺境内に血刀、舞う

 やがて浅右衛門らは、甲府柳町の宿場を経て、見延山久遠寺へと入った。

 久遠寺は言うまでもなく日蓮宗総本山である。

 広大な寺域には多数の堂塔伽藍が建ち並ぶ。紀州徳川家をはじめとする諸国

の大名が帰依する日蓮宗総本山だけに、莫大な寄進が集まるのであろう。


 金襴の袈裟をまとった法主が直々に浅右衛門ら一行を出迎えた。

 お菊が紀州徳川家の家老安藤直次からの紹介状を手渡すや、法主はそれを押しいただき、浅右衛門とお菊におもむろに一揖してから口を開いた。

「数珠丸を取り戻されるお役目の儀、幕府老中の水野勝成様の書状にても伺っておりまする。ご苦労様にございます」

 法主は丸々と肥え太り、顔は脂ぎってぬらぬらしていた。時折、濫りがましい目をお菊の腰の辺りに走らせる。


「色惚けの生臭坊主め。いずれ泡を吹かせてやる」

 お菊は胸のうちでつぶやいた。

 浅右衛門とお菊は本堂へ、留吉らは宿坊へと案内された。諸国から参詣者が多数訪れる久遠寺は、宿坊の数も三十を超える。百人余の人数も難なく受け入れられるのだ。

 本堂で上物の抹茶を喫しながら、浅右衛門は南の方角に目を遣った。

 なるほど鷹取山が見える。そこには波木井三郎の根城たる山砦がある。


「まずは当山にて、旅の疲れを癒していただき、万事はその後かと」

 その法主の言葉を無表情で聞き流し、浅右衛門が訊いた。

「波木井三郎なる者、由緒ある土豪ながら、今では野盗の類と聞くが……?」

「ああ、あれには当山もかねてからホトホトもてあましておりまする。修験の山である鷹取山を占拠し、ばかりか当山参詣者ら旅人を襲って、追剥ぎ働きをなしてございます。清和源氏たる新羅三郎義光の裔なれど、今では匪賊に身を落としておりますれば、いかようにもご処断なされませ」


 お菊が問うた。

「ならば、代官は何をしておる。手勢を差し向けて討伐すればよいではありませぬか」

 法主が贅肉のたっぷりついた頬に、せせら嗤いを浮かべる。

「ところが、とても口では言えぬ事情が……」

 なるほど、波木井三郎は抜け目なく甲府勤番なる代官と裏で結託しておるのであろう。坊主風情が証拠もなく代官の悪口は言えない。

 

 お菊がさらに糺す。

「その波木井なる者が、日蓮上人のご佩刀であった数珠丸をこの寺から盗み取ったとか」

 ここで法主は「それが……」と言いつつ禿頭を掻いた。

「確かに数珠丸は当山の宝物蔵からある日、忽然と消え申した。さりながら、実は波木井三郎が盗んだという確証はとんとござらぬ。ま、当山久遠寺の大檀那であられる紀州大納言様が、ご正室の八十姫様の御病平癒のため、数珠丸の霊力にすがろうというお気持ちのほどはお察しいたしますが、果たして、あの者が必ずや所持しているのかと問われると……」


 しばしの沈黙の後、

「それでは、愚禿は勤行もありますれば、これにて。ごゆるりとなされませ」

 と言い残して、法主が立ち去った後、

「ふむ」

 と浅右衛門は腕を組んだ。

 お菊が不安げな眼差しを鷹取山に向けた。

 しかし、ここまで来れば乗りかかった船である。が……、もしや……。

 つと、浅右衛門が起ち上がった。手に豊後国行平を携えている。

 

 あわててお菊が訊ねる。

「旦那様、何処へゆかれますか」

 浅右衛門は無言で本堂の階段きざはしをおり、境内中央に屹立した枝垂れ桜に対して、矢庭に太刀を鞘走らせた。太い桜の幹が両断され、ザザっと音を立てて崩れ落ちた。

 それを見てお菊がつぶやいた。

「ふふっ。旦那様ほどのお方にも、心の迷いがあるものと見ゆる」


 直後、境内を掃き清めていた坊主らが、浅右衛門の所業を見咎めて叫んだ。

「この狼藉者!素浪人のくせに、当山を侮るか。皆の衆、出合え。お出合い召され」

 その言葉使いからして、武士くずれの飼い犬であう。

 揉め事があった際に、どこの寺でも猛犬まがいの腕利きを飼っていた。

 たちまち浅右衛門の周りを、屈強な坊主どもが取り巻いた。その頭数、ざっと十人。全員、手に五尺余の錫杖を持ち、身のこなし、足運びに隙がない。


 お菊が本堂の回廊に出てきて、坊主どもに忠告する。

「ほほっ。おやめなされ。怪我をしても知りませぬぞ」

 その嘲笑いに激昂した一人の巨漢が、「うおおおーっ」と咆え、浅右衛門に向かって錫杖をぶんと唸らせた。

 刹那、身を躱した浅右衛門が行平を一閃させるや、巨漢の左耳がスパッと落とされた。

 浅右衛門が唇を歪めて虚無の笑いを見せる。

「ふふっ。耳が惜しくない者はかかってまいれ」

 昏い眼差しに狐火のような炎がぽつりと点った。


「ほざくな!」

 かしららしき痩せぎすの悪相坊主が、錫杖を振りかぶった。残りの者がそれにつづく。頭の合図で一斉に叩きのめすという戦法であろう。

「やれいっ!」

 悪相坊主の号令一下、遊環が一斉にけたたましい音を立て、錫杖が唸った。

 回廊で高見の見物を決め込んだお菊の口から、いかにも愉しげな笑みが漏れる。

「ほほっ、ほほっ。耳が、耳が飛ぶ」


 境内に土埃りが舞った。悲痛な呻き声が、血煙りとともに立った。

 寸刻の後、境内には久遠寺の犬どもがことごとく転がっていた。

「仮にも坊主、殺すわけにはゆかぬが、ふふっ、耳はもらった」

 浅右衛門の言うとおり、全員、峰打ちにされていたが、誰も彼もが左耳を失くし、左頬を朱に染めていた。

 騒ぎを聞きつけたのか、法主が泡をくって飛んできた。

「浅右衛門殿、平に平にお許しあれ。貴殿のご身分とお役目を知らぬばかりの者。何卒、お刀をお納めくだされ」


 浅右衛門は家康の愛妾、阿茶の局の甥であり、久遠寺の大檀那紀州徳川家の密命を帯びて江戸から下向してきている。それを知る者は、法主を含む一部の者だけであった。

 お菊が再び愉しげな笑い声を弾けさせた。

「ほほっ、おほほっ。旦那様、迷いが断ち切れまいたか」

 その頃、若衆頭の留吉は、盗っ人の八十吉を連れて宝物蔵の周囲をうろついていた。

 留吉が八十吉に小声で指図する。

「一両日中に、この蔵に忍び込む算段をせよ」

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