第5話 お菊、相討ち死を決意す

「母上!」

 浅右衛門と母絹緒の驚愕の視線が絡み合った次の瞬間、刀を鞘走らせる音がした。

 刹那、

「きええええいーっ」

 と裂帛の気合いを発し、母と乳繰り合っていた男が、全裸で斬撃してきた。


 その男は三年前から浅右衛門の道場に通っている旗本の三男坊であった。のっぺりした役者顔を武器に、御家人らの妻女などを手当たり次第に毒牙にかけているという噂を聞いたことがある。

 浅右衛門はその男の必殺の太刀筋を躱しつつ、逆袈裟に斬り上げた。相手の右脇腹から左肩までが一刀で両断され、ざざっと音を立てて鮮血が飛沫を上げた。寝間に漂う血の匂い。


 男の血飛沫を顔に浴びて、浅右衛門の母がすくっと全裸で立ち上がった。

 そして無表情で告げた。

「この母を斬れ。斬らねば、再び淫蕩の血が騒ぎ、見境なく男と交わるであろう。その先祖伝来の名刀来国俊らいくにとしで淫奔の道を断ち、濫りがましい噂が広がる前に禍根を断つのじゃ」

 一瞬、浅右衛門は狼狽した。女は斬ったことがない。まして、実の母は!

 その迷いを見てか、絹緒は丸髷の髪からこうがいを抜き、おのれの喉頸を突いた。白い首から鮮血が噴き出た。


 それを見て、おのれの逡巡を断ち斬るように、浅右衛門の刃が一閃した。男の首とは異なり、あまりにも手応えがない。刃が肉に喰い込んだという感覚がないのだ。

 ぐにゃりとした気味の悪い感触が刀の柄から掌に伝わった瞬間、丸髷の首が、血の澪を曳いて天井まで吹き飛び、寝間の隅へと転々と転がった。

 その母の血塗れた顔は不思議なことに婉然と頬笑んでいた。

 

 

 浅右衛門の胸に、あの惨劇の日のことが走馬灯のごとく甦り、その無惨な幻影を払うように、再び豊後国行平を水平になぐり、虚空を斬った。

「ほほほ、旦那様。やはり、甲斐へ赴かれますか」

 妓楼奥座敷の唐紙が開き、妻のお菊が浅右衛門の手前に端座する。

 数珠丸の件についてのあらましは、すでにお菊に聞かせてあった。浅右衛門は無言で行平を鞘におさめた。

「何もおっしゃらなくても、行平の切れ味を試してみたい。そう顔に書いてございまする」

「………」

「なれど、女は手にかけたくない。そうでございましょう?斬った感触や手応えがなければ、余計に胸の奥に虚しさがつのるもの。やはり、首切り、試し斬りは男の肉と骨に限りますか?」

「………」


 二人の間に沈黙の静寂しじまがつづいた。

 ややあって、お菊がすくっと立ち上がり、無紋の黒羽織を肩からはらりと落とした。次いで、藤納戸色の小袖の帯をとき、襦袢一枚の姿になって、浅右衛門の膝の上に両脚を開いて跨った。

「旦那様の心の空虚さ、この私めに散じてくだされ」

 お菊がそう呟いて、たわわなおのが乳房を浅右衛門の眼前にあらわにし、薄桃色の乳首を口に含ませた。

「ううっ、ううん」

 お菊が吐息を漏らし、顔を浅右衛門の肩にゆだねた。その女陰は濡れそぼっていた。


 事後、お菊が真剣な眼差しで浅右衛門に告げる。

「差し出がましいことながら、その女剣士とやら、私めが斬っても構いませぬか」

「………!?」

「ふふっ。そのように驚かれますな。私とて、もともとは武家の娘。父から人を斬る極意は伝授されておりまする」

 

 聞けば、お菊は父の井上伝七郎から、どうしても人を斬らねば相ならぬ仕儀に至ったときの心得を口伝で授かっていた。伝七郎は鹿島神道流の遣い手であった。

 それによると、相手と剣をとって対峙したとき、おのが太刀を頭上に大きくふりかぶる。要するに大上段の構えである。次に、目を閉じ、風の音や相手の気配に耳を澄ます。前方から相手がにじり寄り、刃風がした瞬間、おのれの肌にひやりとした刃の感触が伝わる。その刹那、太刀をふり降ろし、相手を両断するという必殺の剣技であった。


 しかしながら、それは相討ちの極意であった。


 お菊が語り終えたとき、浅右衛門ははじめて目を合わせて言った。

「そなた、死ぬと申すか」

「はい。旦那様のお役に立てば、このお菊、本望にございます。吉原の花魁として身を落としておりましたものを、武士の妻として迎えていただき、これに勝る喜びはございませぬ。三献の盃を頂戴したとき、私めは旦那様のために死ぬ、死なねばならぬと心に固く誓いました。今こそ時節到来、そのときにございます」


 浅右衛門が虚空を睨んだ。

 彼岸と現世うつしよ。そのあわいに生きる二人にとって、生死などどうでもよいことであった。

 寸刻の後、浅右衛門が昏い眼をして大儀そうにポツリと言った。

「左様か。死ぬか」

「はい」

「ならば、ともに甲斐へ参るか」

「うれしいっ!」

 お菊が浅右衛門の首根っこに抱きついた。


――つづく

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