第4話 名刀大典太の稀なる霊力

 ところが、結果は散々であった。

 波木井はきい三郎を討ち、日蓮上人の愛刀「数珠丸」奪還をめざして甲斐南巨摩郡に送った剣客十名のうち、生還した者は三名にすぎなかった。しかも、全員、かなりの深手を負い、痛々しい姿で紀州徳川家下屋敷う這うの体でたどり着いたのである。


 腕を落とされて還ってきた一人の武者曰く、

「波木井三郎なる匪賊の砦には、凄腕の女剣士がおり申した。その一人の女に、我等してやられ申した。無念にござる」

 肩と背を割られた武者曰く、

「その女の剣技たるや、太刀の切っ先が地を這ったかと思うと、転瞬、姿を消して斬撃するという妖術のごとし」

 そして、残るもう一人、顔に血だらけの繃帯を巻いて帰還した武者は、不首尾を愧じて下屋敷の庭で自ら腹をかっさばいて果てたという。


 紀伊大納言徳川頼宜の妻たる八十姫やそひめの病平癒のためとはいえ、あたら若い幾人かの命を散らしたことは痛恨の極みであった。

 だが、山賊風情の者に恥辱を蒙ったままで数珠丸の奪還を諦められようか。また、そのような情けなくも不甲斐ないことを主君たる大納言徳川頼宜の耳に入れられるはずもない。

 

 家老の安藤直次は、なんとしても数珠丸を手に入れ、その神妙なる霊力で八十姫の本復を期すため、家臣の命を捨て、さらには紀州徳川家の宝刀豊後国行平と引き換えにする覚悟で、山田浅右衛門に「数珠丸を!」と這いつくばるように悃願してきたのだ。


 さて、ここまで読み進めた読者の方は、本当に刀には霊力が宿っているのであろうか。これは誰しも疑問に思うところであろうが、この当時の人はそうではない。否、厳然と信じられていた。

 山田浅右衛門は、首切り御用を仰せつかっていた当時、天下五剣の一つ、大典太光世おおてんたみつよで罪人を斬ったことがある

 浅右衛門はそのときのことを思い出していた。罪人を三つ重ねて、三つ胴の肉と骨を断ち切ったあの斬れ味、あの心地よさが今も掌と腕に残る。

(大典太光世に関しては、カクヨム拙著『名刀列伝』を読まれたし)


 この大典太光世という業物は、その霊力すこぶる強く、前田利家の愛娘豪姫(秀吉養女)、前田利常の愛娘亀鶴(徳川秀忠養女)二人の病気平癒に霊験あらたかな力を発揮したという。

 しかも、この名刀を秘蔵した前田家の蔵の屋根に止まる鳥は、不可思議なことに、ことごとく雷に打たれたように地に墜ち、その蔵は「鳥とまらずの蔵」と呼ばれたという。斬れ味凄まじい剛刀は、人智を超越した霊力を持つといわれる所以である。


 数珠丸は天下五剣の中でも、日蓮上人の佩刀という由来を持つ。それだけに破邪顕正の由緒ある異色の一振りであると同時に、その神秘性から霊力ある天下の宝刀として仰ぎ見られてきた。

 しかも、紀伊大納言並びにその妻たる八十姫は、二人とも日蓮宗に帰依すること篤く、数珠丸の霊力を信じて疑わない。病臥する八十姫の枕元に数珠丸を置けば、その霊力により病気は必ずや平癒するであろうと思われた。


 無論、山田浅右衛門にとってそのようなことはどうでもよい。

 この男は金や名誉、女といった世俗的欲望はもとより、おのれの命すら眼中になく、あるのは試し斬りという欲望のみ。それも、天下の名刀に限る。

 浅右衛門はおのれの隠れ棲む吉原の妓楼、童子切屋の奥座敷で、安藤直次からあずかった紀州藩の宝刀、豊後国行平の刀身の輝きを肴に酒を呑んでいた。見れば見るほど女の練り絹のような地肌の妖しい煌めきに陶然とする。


 つと浅右衛門が片膝立ちとなり、行平をぶんと横なぐりに振った。転瞬、燕返しに斬り上げる。その動作に一分の隙もなく、行平の刀身は一陣の風を巻き起こした。

「ふふっ」

 ヒユッという澄んだ刃風の音に、思わず笑みが漏れる。

 この刀なら三つ胴はおろか、四つ胴もきれいに断ち斬れよう。まして、数珠丸ならいかばかりの斬れ味か。

「ふふふっ。手に入れたい」


 しかしながら、討つのは数珠丸を見延山久遠寺から盗み取ったという波木井三郎とその手下どもだけではない。紀州藩の手練れをことごとく殺傷したという女剣士とやらも斬らねばならないのだ。

 浅右衛門は豊後国行平を鞘におさめ、腕を組んだ。鬱々とした翳りがその横顔にある。

 次いで、その薄い唇から独白が漏れた。

「男の五体は斬撃に適しておるが、女の柔肌に刃はなじまぬ」


 浅右衛門は過去に一度だけ女を斬ったことがある。

 それは忘れもせぬ、安政四年の蒸し暑い夏の晩であった。千住の小塚原刑場で罪人の首と胴を試し斬りした後、屋敷に帰宅した浅右衛門を待っていたのは、寝間のほうから漏れ聞こえる女の喜悦の声。その声はかすかなだけに、余計に淫靡であった。


「……ん?」

 浅右衛門は眉をひそめ、唐紙からかみをがらりと開けた。

 すると、あろうことか、母親である絹緒が全裸で浅右衛門の弟子と汗みずくになって、ぬらぬらとした蛇のごとく互いの肉体を絡み合わせ、淫らに情を交わしていたのである。

 絹緒は三十路の頃に夫を亡くし、以来、孤閨を守ってきたが、不惑を過ぎた女盛りの頃から酒を覚え、それとともに淫蕩の妖しい性が、熾火のごとく炎をもたげていた。

「母上!」

 その声に絹緒は男から身を離し、驚愕の目を浅右衛門に向けた。

 浅右衛門と絹緒の目が合った。

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