第2話 紀州藩宝刀、豊後国行平
日本堤にひとしきり血風が吹いた。
山田浅右衛門に斬りかかった武士らは、一人残らず土手道の泥土の上に屍となって転がっていた。土手道に鮮血の赫い澪が幾筋も流れ、酸鼻を極める光景を呈した。
吉原通いの飄客は、あまりのおぞましさに誰一人近寄らない。皆、土手道を逃げるように退散した。
「ほほほ。いい天気だのに、血のお湿りとは……」
つぶし島田に髪を結った女が、血の匂いに酔ったごとく嬌声をあげた。
女は元吉原の花魁玉菊ことお菊である。今では、山田浅右衛門の隠れ営む妓楼「童子切屋」の女将として、遊女屋を采配している。
お菊が嫣然と頬笑みながら、小走りで浅右衛門に近寄り、両の掌に懐紙をひろげた。浅右衛門の太刀が懐紙の上に横たえられるや、お菊が平然と血塗れた太刀をすっと拭い取った。
さすがに武家の娘であった。
お菊は少女の頃、割腹して自死を遂げた父親を、自らの手で介錯したという無惨な過去があり、以来、心の奥底に空虚な風が吹きやまない。
すでに息絶えた武士らは、全員、首を斬られていた。しかも、ことごとく首の皮一枚を残して、無念そうに虚空を睨んでいる。将軍家御試御用役として、罪人の首や生き胴を数限りなく斬撃してきた浅右衛門ならではの神技であった。
「ふふっ。伊達殿から拝領した備前長船もなかなかの切れ味よ」
浅右衛門は刀剣以外、興味がない。春の陽光に刃こぼれ一つなく輝く長船の刀身を昏い眼差しでしげしげと見つめて鞘に納めた。
すると、思いも寄らぬことが起きた。
生き残り、独り日本堤に佇立する初老の武士が、あろうことか土手道に平伏し、戦場鍛えの声を響かせたのである。
「おそれながら、貴殿は首切り浅右衛門殿と拝察つかまつる。ご無礼の段、平に平にご容赦くだされ。拙者は紀州藩家老、安藤直次と申す者」
安藤直次といえば、紀州藩の大立者で、田辺城を与る城主のはず。それが家臣を率いて、こんなところで、浅右衛門を待ち伏せするとは、余程の事情あってのことか。
無言の浅右衛門に代わり、お菊がきっとなって責める。
「わが旦那様をかような天下の往来で、昼日中から襲うとは、紀州藩家老というても許せませぬ。まして、若きご家来衆を無惨な姿にさせ給うた罪咎、いかばかりか。武士として、いさぎよくこの場で、腹を召されませ」
「これは、これは、お内儀殿であられるか。仰せ、ごもっともなれど、この老いぼれ、いまだ腹かっさばくわけにはまいらぬ仔細がござる。此度、まっこと不躾ながら、わが家臣の命と引き換えに、真剣では将軍家指南役の柳生をしのいで江戸随一と聞く浅右衛門の力量を試させていただいた。ぜひ、ぜひともその事の次第をお聞きくだされいっ」
お菊が美しい朱唇を歪めて駁す。
「では、それを聞いた後、お話次第では、旦那様があなた様の首を刎ねても、よろしゅうございますか」
「おおっ、この命、煮るなり焼くなり浅右衛門殿のご存念にお任せいたす。わが身、すでに捨てておりますれば」
その三日後、山田浅右衛門の姿は、江戸城南四里の池上本門寺にあった。
山門をくぐると、金襴の袈裟を身にまとった門主自らが浅右衛門を広大な庭園をのぞむ
歩きがてら門主が話かけてきた。
「この庭は、さる戦国の世に小堀遠州の造園した松涛園。風趣なかなかのものでありましょう。これから向かう四阿の名は、月見酒には格好の亭で、松月亭と申す」
「………」
「ふふっ。左様な話、聞く耳持たぬご様子。そんなことより、なぜ、安藤直次様が当山をそこもととのご面談の場としたのか。それを聞きたいと顔に書いてござる」
「………」
「当山は日蓮上人が入滅された霊場でござってな。紀州和歌山藩の菩提寺。藩主の徳川頼宜公、また、頼宜公ご正室であられる八十姫様も日蓮宗のご熱心な信徒であらせられます」
「と言うても、事の仔細が分かるはずもございますまい。とりあえず、当山が日蓮宗大本山であることを頭に入れておいてくだされ」
「………」
やがて四阿の松月亭へと近づくと、安藤直次が、
「ご足労、まっこと痛み入り申す」
と浅右衛門に深々と頭を垂れた。
その直後、直次が手に提げた太刀を鞘走らせ、大声を放った。
「御覧あれ。これが、紀州徳川家伝来の太刀、豊後国行平でござる。貴殿にお預けすべく持参つかまつった」
春の陽を浴びて、行平の刀身が眩しく輝いた。
豊後国行平といえば、後鳥羽上皇の御番鍛冶として知られる名工の作である。紀州徳川家の宝刀として知られる名刀を一介の素浪人に預ける、しかも、家老直々にというからには余程の重大事が
にしても、辞儀もそこそこに、のっけから太刀を抜いて見せるのも、作法上いかがなものかと思い、浅右衛門は内心苦笑せざるを得ない。
「やれやれ、また面倒なことに。なれど、豊後国行平は使ってみたい」
浅右衛門は腹の中で独りごちた。
再度、申しておくが、浅右衛門は刀剣、しかも名刀にしか興味がない。その双眸に、安藤直次が掲げる行平の煌めきを受けて、浅右衛門の昏い眸の奥が妖しく光った。
――つづく
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