第7話 いつものように
「トール」
「え?」
「たまには私が、君のコーヒーを淹れようか?」
「はっ?」
彼は目をぱちぱちさせて、それから慌てて手を振った。
「と、とんでもないです。何かあったら、呼びますから、いつもの」
トールはどこか不思議そうな目つきで彼のマスターを見た。
「いつものように、していてください」
「そう」
判ったよ、と彼は立ち上がった。
「ああ、アカシのことなんだけれど」
「はい。彼がどうかしましたか」
「君より少し早く戻ってきたんだが、調子が悪いと言うので見ることにした。彼向きの仕事があるようだったら、グレンを起こして任せてやって」
「はい、判りました」
アカシはメンテナンスをしたばかりだったはずだが、何か問題があったのだろう。トールはこくりとうなずいた。
「じゃあ、何かあったら呼んでくれ」
「はい、マスター」
返事をしてトールは、彼の主人を見送った。
「散歩」のあとは――どこかマスターとのやり取りをちぐはぐに感じるときがある。おかしな言い方だが、まるで、語彙選択機能の弱いロイドと話しているかのような。
「明らかにおかしい」と言うのではないが、いくらか違和感がある。
何かが彼の気を逸らしている。そして、逸らしたままなのだ。
だがトールはそれが何なのかとは問わない。これは彼に課されている禁止事項であるかもしれなかったが、ライオットの言うところの「空気を読むこと」にトールが長けていたためかもしれなかった。
だが、半日もすれば、きっといつもと変わらないマスターに戻る。にこにこして、トール、夜中にすまないがコーヒーを――なんて。
自分に可能なマスターの手助けがそれくらいしかないことはいつもトールに歯がゆい思いを起こさせる。だが仕方ない。トールが「最新」だったのはもう六年も前のことだ。
部品を入れ替えたりソフトを新しくしたりすれば、出生ヴァージョンは低くとも「最新鋭」になれる。だがマスターにはその気がない。劣化した部品は入れ替えるけれども、性能を上げることはしない。
だから、トールにはどうしようもない。せいぜい、機会あるごとに頼んでみるくらいだ。少しでも色好い返事がきた試しはないのだが。
〈クレイフィザ〉。彼の仕事場。彼の家。彼の全て。
トールは首を振って、店番に集中することにした。そつのない接客をすること。これだってマスターのためになることだ。
ふと少年ロイドは、椅子の並び位置のバランスが悪いことに気づいた。彼は自然な位置に直そうとそこに近づいて、別のものにも、気づいた。
かがみ込んで、彼はそれを拾う。
トパーズのあしらわれた、ピアスの片割れ。
「――落とし物」
彼はそれをそう認識した。
「散歩」に出る前にはなかった。開店前に清掃をしたときには絶対になかったし、それから客などひとりもこなかった。
いや、きたのだ。
マスターの気を逸らす何か――誰か。
トールはピアスをそっと握った。小さなピアスの針が、ちくりと彼の手のひらを刺した。
(「散歩」の間にお客さんがきてるらしいことは判ってた。コーヒーカップの位置がずれてることがあったから)
彼は過去の出来事を思い出した。
(マスターが淹れて、カップを洗って片付けるまでやったんだろう)
(片付けなら僕にやらせればいいのにと思ったけど、別に気にしなかった)
(同じ人がきているんだろうか)
(僕らを遠ざけてまで、会わせたくない誰か)
誰なのだろうか。いったい、どうして。
その答えをトールが知ることはない。彼のマスターが彼に教えない限りは。
(――防犯カメラ)
ふと、その一語が彼の内に浮かんだ。ここに「誰か」がいたのであれば、カメラはそれを克明に記録しているはずだ。
トールはそれを見ることができる。彼にはそれが許されている。
だが。
マスターが彼に、言わないのであれば。
しゅん、とオートドアが開いた。
「すみません、メンテナンスを頼みたいんですが」
「あっ、はい、いらっしゃいませ」
トールは客に挨拶をし、反射的にピアスをポケットにしまった。
「ミスタ・マードック、お久しぶりです。〈アニエス〉のメンテナンスですね」
見覚えのある顔に応対して、トールは客に椅子を勧めた。
何か引っかかることがあっても、瞬時に切り替えが利くのがロイドのよいところだなと、彼は「思った」。
「定期メンテには少し早いですね。何か不具合でも発生しましたか」
そんなふうに常連の話を聞きながら、彼は日常に戻った。
どうか――いつものように。
変わったことなど、ないふりを。
〈クレイフィザ〉のリンツェロイドは、彼が最新鋭だった日々からずっと変わらぬ笑顔を浮かべた。
―Next Lize-roid is "Daisy".―
クレイフィザ・スタイル ―ある日― 一枝 唯 @y_ichieda
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