誰よりも幸せになれない

増田朋美

誰よりも幸せになれない

11月というのに、暑くてまだ半袖でも良いくらいの天気であった。そんなことがつづくから、体調を崩してしまう人が続出している。そんななかで、人は映画やテレビといった非現実に目を向けるようになるのだろう。それはそれで良いのだけど、現実から逃げるだけというのはなにも良いものを産まない。

その日、須藤聰ことブッチャーは、昼食の用意がしていないことに驚いた。いつもなら、食べられないくらい大量に食べ物がおいてあるはずなのだが、今日は一つもない。はあ、姉ちゃんまたなにかあったなと、ブッチャーは、普段なかなか立ち入らない姉の有紀の部屋に行ってみた。

「おい姉ちゃん。またなにかあったのか。暴れる前に理由を話してくれよ。」

ブッチャーはそう言いながら姉の部屋のドアを開けた。姉の部屋は、なんとも言えない異臭が充満していた。虫が入るからとか言って姉は部屋の窓を開けようとしない。そう言うところが、障害者と健常者の違いかもしれなかった。壁は何度もなぐった痕で穴が大量に空いていた。壁を張り替えようと提案したこともあるが、それを有紀が受け入れないので、張り替えたことはない。

「姉ちゃん。俺にご飯を作らない理由を話してくれないかな。俺、姉ちゃんのことが心配だから、理由を知りたいんだよ。」

ブッチャーは、支援員さんに教わった言い方で言った。こういうときは、姉を責めるような言い方や、自傷行為を辞めるように促すような言い方はしてはいけない。それよりもブッチャーが知りたいんだよ、という言い方にしたほうが、被害は少なくて済む。

「姉ちゃん、俺は別に姉ちゃんが悪いとかそういうことを言っているわけじゃないんだよ。ただ、姉ちゃんがお昼を作らない理由を知りたいの。幸いカップラーメンもあるし、お昼には不自由しないから、大丈夫だけどね。」

ブッチャーはできるだけ優しくいった。

「だから俺は姉ちゃんがどうしてそんな ふうに布団に寝転がったままで、ご飯の支度をしないのか知りたいんだよ。姉ちゃんが、そうなっちまうのは、ただごとではないもの。」

できるだけ苛立ったり、怒ったりしないつもりで、ブッチャーは姉に伝えたつもりであったが、だんだんに姉が何も答えないのを見て、嫌になってくる自分がいるのを感じた。普通の家庭だったら、こうして極端に塞ぎこんだり、話をしなかったり、ましてや暴れてものを壊すこともない。そういう事なく、何なりと言いたいことが言える家庭だったら良いのだが、姉はそうではなかったのだろう。だから、今、こうして布団に横になったまま、何も話さないのだ。

「じゃあ、姉ちゃん。俺、一回部屋を出るけどさ、くれぐれもものを壊したりはしないでくれよな。俺、敵わないから。そうなると。」

できる限りのつもりで明るくそういったのであるが、果たして姉に伝わっているかどうか不明であった。

ブッチャーがなんとなく姉の部屋にあったゴミ箱を見ると、ビリビリに破られていた一枚の白い封筒があった。それにはとてもきれいな字で、須藤有紀様と書いてある。ブッチャーはもしかしたらこの封筒が姉が塞ぎ込んでしまっている原因だったのではないかと勘づき、急いで、ゴミ箱からビリビリに破れた便箋を取り出した。幸い姉の有紀はずっとないていて、ブッチャーがしたことを止める気力もないようだった。ブッチャーは、急いで封筒と便箋を持ち出して、居間に戻った。

とりあえず、姉がビリビリに破った便箋と封筒をセロハンテープで張り合わせてみると、差出人は、富士市の吉原というところに住んでいる戸狩寿美という男性からであった。なんとも男女の区別をつけにくい名前だが、筆跡から見て、男性のものであった。ちゃんと宛先は須藤有紀様となっている。便箋も姉が破ってしまったので、内容はうまくつかめないところがあったので、ブッチャーはそれを書き写す形で、内容を把握しようと試みた。

「前略、須藤有紀様。突然お手紙を差し出してしまってすみません。」

ブッチャーは、書き写しながら、声に出して読んだ。

「妻の戸狩里美が、11月2日に自殺しました。葬儀は、11月5日に行うことにしましたので、よろしければ、妻を送って上げてください、、、。は、これはどういう手紙なんだ?」

ブッチャーは読みながらびっくりしてしまった。こんな手紙を姉がもらうとは思わなかったのだ。それに、葬儀に出てくれというのはどういうことなのだろう?

ブッチャーは、本人から聞いてみたかったが、それは無理な話なので、戸狩寿美という人を、インターネットで調べてみた。戸狩というのはあまり聞いたことのない名字なので、なにか活動している人であったら、載っているのかもしれない。すると、戸狩さんは、富士市内で、ヒーリングにまつわる活動をしている男性であるとわかった。自宅内でサロンを開いていて、体や心に障害のある人達のケアを行ったり、ワークショップのようなものを行ったりしているらしい。そんな人物がどうして姉のところに、手紙を送ってよこしたのか、ブッチャーはよく分からなかったが、あるサイトで、戸狩里美という名前は無いものの、戸狩寿美さんの奥さんが、外出恐怖症のようなものにかかってしまって引きこもっており、寿美さんはそのために会社をやめたという情報を得ることができた。そういうことならと、ブッチャーはピンときた。

一方製鉄所では、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べさせようと悪戦苦闘していたところであった。用事から帰ってきたジョチさんが、また食べないんですかと、杉ちゃんにいうと、杉ちゃんも暑さのせいか、非常に困ると苛立って言った。その時に、

「すみません。ちょっと相談にのっていただけたいんですけど。」

とブッチャーの声がした。ジョチさんが開いてますよ、どうぞというと、ブッチャーは入らせてもらいますと言って、製鉄所の建物内にはいってきた。その顔があまりに深刻だったので、水穂さんもジョチさんも心配して、とりあえず彼を、食堂へ案内した。

「どうしたんですか?なにか重大なことがあったんでしょうか?」

とジョチさんが聞くと、

「実はですね。今朝なのかいつなのかわかりませんが、こんな手紙がうちに届きました。姉は怒って破ってしまったみたいですが、これでは亡くなられた戸狩里美さんが浮かばれない気がします。俺はどうしたら良いのかわからなくなって、相談にきました。」

ブッチャーはジョチさんに言って先程の手紙を見せた。

「俺、姉にも少し聞いたことがあるんですが、戸狩里美さんと言いますのは、姉の同級生だったそうで、姉の事を事あるごとにいじめたそうです。それで姉は、高校を中退したそうなんですが、その戸狩里美さんが、自殺してしまったというのですから、せめて姉には、お葬式に参加させて上げたいのですがね。」

ジョチさんは手紙の文面を読んで、

「ああ、戸狩寿美さんなら、何度か会ったことがあります。確か、ヒーリングとかカウンセリングなどをやっていらして、多くの人からも慕われる方でした。男性でそういう生き方をする人は、非常に珍しいものですから、僕もお話を伺ったことがあります。確か、親御さん同士の意向で里美さんのところに入婿になったんじゃなかったかな。時々、僕にもクライアントさんをなんとかすることはできるのかもしれないが、里美さんを止めるのは難しいとおっしゃっていたことがありました。」

と、言った。

「そうですか。理事長さんお知り合いだったんですね。それなら、なんで姉のところに手紙なんか送ってよこしたんですかね。姉は今でもそうなんですけど、結婚できなくて働けないことをすごくつらいと言っているんですよね。それなのに戸狩さんは、結婚したので、怒りが湧いてきて、この手紙を破ったのでしょうか?」

ブッチャーがそう言うと、

「そうだねえ。いじめた相手だし、幸せな生活をしていたと言うんだったら、それで怒りが湧いたんじゃないの?」

と、杉ちゃんが言った。

「いじめですか。確かに、やられた方もやる方も行けないと思うんですけどね。今でこそ、いじめで自殺してしまう学生さんが非常に多いので、なんとか対策をとろうということになっているのでしょうが、有紀さんのときはそういう事もシステム的に整ってなかったでしょうし、中途半端で終わってしまったこともあったんでしょうね。」

ジョチさんがそう言うと、

「でも、加害者である戸狩里美さんが、自殺で亡くなったというのが、引っかかりますね。完全に人間性が欠如してしまっていて、いじめをしていたわけではなかったのかもしれませんね。」

水穂さんが小さな声で言った。

「きっと、その戸狩さんと言う人も、有紀さんと同様に幸せになれなかったのでは無いでしょうか。結婚することは親御さんの意向でできたのかもしれませんが、そこから先、幸せになることはできなかったのかもしれません。そうでなければ自殺してしまうことはなかったでしょう。」

「そうですよね。俺、姉を見ていてわかるんですが、いじめがあったというのは動かせない事実ですけど、そこから這い上がることができる人とできない人もいるんだと思います。うちの姉はそれができなかったんでしょう。もしかしたら、その戸狩さんと言う人もそうだったのかもしれません。だから俺、お悔やみに行ってみようかと思います。本当は姉が行くべきなのかもしれないですけど。」

ブッチャーは、水穂さんの説明を受けて、なにか決断したように言った。ジョチさんが、戸狩さんという人物は、吉原駅近くにサロンを構えているということを教えてくれた。だいたいこういうサロンを持っている人は、駅の近くに作るという。それは、車に乗れないクライエントさんもいるからだとブッチャーは感じ取った。カレンダーを見てみると、お葬式は、明日、青島町の葬儀センターで行われるようだ。ブッチャーとジョチさんは、二人で行ってみようということにした。

次の日。小園さんの車でジョチさんとブッチャーは、葬儀センターに向かった。紋付羽織袴姿のジョチさんと、とりあえずの喪装として黒の羽織を着たブッチャーは、和服での参列はちょっと変と思われるかもしれなかった。二人が葬儀センターの前で車からおりて、入り口に行ってみると、たくさんの黒い洋服を身に着けた女性たちが、お香典とかお線香を持って待っていた。多分彼女たちは、戸狩寿美さんのクライエントさんだとわかった。

「すみません。」

とジョチさんは、その女性の一人に訪ねた。

「戸狩さんの奥さんのことで少しお尋ねしてもよろしいですか?僕は、戸狩さんとよしみで知り合った曾我と申します。そしてこちらが、奥様の友人だった須藤有紀さんの弟さんで、須藤聰さんです。」

こういうとき、ジョチさんのような有力な人物がいてくれるのはありがたかった。自分の力ではなくても、称号の力でものを言わせることができるようになるからだ。

「戸狩さんの奥さんは、どんな人物だったのでしょうか?具体的にいうと、あなた方に、なにかしていましたか?」

「ええ、とっても優しい人でしたよ。」

と女性の一人が答えた。

「あたし、ご主人の戸狩寿美さんにヒーリングをしてもらってたんですけど、奥さんは、お茶出してくれたり、私の話を聞いてくれたりしました。自分は、何もできないけれど、皆さんの役に立ちたいって、それで頑張ってくれていました。」

「そうですか。奥さんは、なにか働けない事情があったのでしょうか?」

ジョチさんがもう一度聞くと、

「はい。確か、あたしたちと似たような病気があって、働けないって言ってました。なんでも、奥さんは、学生時代のときに、同級生の方に酷いことをしてしまったようで、それで同級生の方が、高校を中退する羽目になり、非常に後悔していたそうです。」

「なんかご主人はそれを本にしたかったようで、その手助けもしてくれと私頼まれたことがありました。」

別のクライエントの女性が言った。

「私、雑誌編集の仕事をしているものですから、そのコネで出版社を紹介してくれないかって、寿美さんに頼まれたことがあるんです。」

「そうなんですね。それで、奥さんは、そのような事を反対していましたか?」

ジョチさんが言うと、

「ええ、それはなかったみたいですけど、、、。でも奥さんは、そうやって同級生の方を陥れた事を、非常に悪いことをしたと言って、泣いていました。私も同じような経験をしたからわかりますよ。この病気になる人はみんなそうだって寿美さんは仰ってましたけどね。」

とはじめのクライエントさんが言った。クライエントさんのカバンに紫色のヘルプマークがついているのを見て、

「ああ、皆さんは、神経性の疼痛を持っているんですね。」

とジョチさんは言った。

「ええ。家では、厄介者扱いしたり、働けないやつは出ていけって言われてしまうんです。だけど、寿美さんの施術を受けると、どうにか痛みが楽になるんです。精神科の先生も同じ薬を出すしかしないし、もう私達は、行く場所が無いんですよ。だから痛みが無かったあの頃が懐かしい。でも、もうこうなってしまった以上、だめだなと思うんです。あたしたちは、人生失格。ここに来るのは本当に楽しみなんですよ。寿美さんが面白い話をしてくれるし、奥さんも、何でも話を聞いてくれたんですから。その奥さんが亡くなられたら、あたし達、どうしたら良いんでしょう。」

と、また別のクライエントさんが言った。確かに、この障害は必ずどこかの体の一部が痛いと訴えるものであった。多かれ少なかれ、みんな自分のせいで発症したと考えている。それで自分のせいで、相手を傷つけてしまったという経験をしていて、それを責め続けるあまり体に痛みを感じている人が多いという。まだ原因はわからないけど、彼女たちはそんな理由があることは確かだった。だから、寿美さんのようなヒーラーが必要とされるのだ。

「それでは、戸狩里美さんも、線維筋痛症にかかっていたのですか?」

ブッチャーはおそるおそる、クライエントさんに聞いた。

「ええ、あたしたちよりずっとひどかったんじゃないかな。でも、里美さん、ピアヘルパーの資格を持っていたんですよ。それだからあたしたちの話を聞くこともできた。だけどそれは、自分のためにやってるんじゃなくて、誰かに謝ろうとしてやってるんじゃないかって感じられるところは確かにありました。あたし、細かいところがすぐに気になってしまう性格なので、里美さんが、そういう事をしているんだなと言うことは、なんとなくわかりました。」

とクライエントさんの一人が、そう言ってくれた。

「そうなんですか。わかりました。それでは、自殺した理由や、原因になることについて、あなた方が知っていることはありませんか?僕らは悪用することはしませんので、お話して頂きたいのですが。」

ジョチさんがそう言うと、クライエントさんたちは、なにか気にするような目つきになったが、でも、話そうと思ってくれたらしい。一人のクライエントさんがこんな話をした。

「ええ。里美さんは、一生懸命私達の話しを聞いてくれたんですけど、ある時、急に仏門に入るんだと言い出したことがありました。自分は、酷く傷つけてしまった人がいて、その人には、どうしても謝罪ができないので、自分は仏門にはいって、謝って暮らしたいって。私は、里美さんの冗談だとしか思わなかったんですけど、まさかこういう形になってしまうなんて。」

「そうなんですね。それが、自殺することを予告していたんでしょうか?」

ジョチさんがそうきくと、クライエントさんたちは、ええそうですねといった。

「それで、その傷つけた人物の名前などは話さなかったのでしょうか?」

ジョチさんがまた聞くと、

「ええ、何も言われませんでした。あたしたちは、里美さんを応援しているからねって話したんですけど、なにかつらいことを考えているんだなってことは、わかりましたけどね。」

クライエントさんが小さな声でそう言ってくれた。

「そうだったんですか。それではとても後悔していたんでしょうか。実は、里美さんが傷つけたというのはおそらくうちの姉だと思うんですよ。姉は、高校生時代、戸狩里美さんという人にことごとくいじめられたそうなんです。俺は詳しく知らなかったのですが、かなり辛かったようで。実は俺の姉も、統合失調症で、ずっと家にいるような状態でしてね。多分、里美さんと変わらないと思うんですがね。」

ブッチャーは勇気を出してクライエントさんたちに言ってみた。クライエントさんたちは、なるほどという顔をして、ブッチャーとジョチさんを見た。

「そうだったんですね。きっと里美さん、あなたのことを申し訳なかったと思ってると思います。そうでなければ、この病気にかかることも無いし、あたしたちの話を聞いてくれることもしなかったと思うわ。」

「ホントなら、あたしたちで、里美さんとあなたのお姉さんをあわせてあげてお互いにごめんなさいって、謝らせてあげたいわね。」

「きっと里美さんのご主人もそれを望んでいたと思うわ。なんかあたしたちは里美さんに、家の中のこととか自分がされてきたことばかり話していたけど、一番癒やされたかったのは、里美さんだったのかな?」

クライエントさんたちは、そう口々に言った。

「そうなんですか。わかりました。きっとそれができていたら、里美さんは自殺しなかったと思います。そして、一緒に生きようという気もできたのではないかなと思います。でもできなかったことを責めてはいけないのは、皆さんもよくご存知のはず。それなら、里美さんを笑顔で送ってあげましょう。」

ジョチさんはそう言ってクライエントさんたちと一緒に葬儀センターに入るように促した。ブッチャーもそれに続いた。そうやって、はいっていくクライエントさんを眺めながら、里美さんのことを姉が許してあげるのが一番の供養なのではないかとブッチャーは思ったのだった。人間だから、どうしても変えられない諍いはあると思うけど、、、それを許すことが大事なのかもしれないと思いながら。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰よりも幸せになれない 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る