第2話 優しい手
「乃亜!」
名を呼ばれるも、それが自分の名だとは思えず身構えてしまう。が、目の前にいる女性は目を真っ赤にして、寝ている私に覆いかぶさってきた。
「ああ、よかった! 目を覚ましてくれたのね! どうなることかと思って心配でっ、あああ、生きててくれてありがとう~!」
人目もはばからず泣きじゃくりながら叫ぶ。こんな風に心配してもらえて、乃亜さんは幸せね、と私は思った。
しかし……
困ったことに、周りの人間が皆一様に自分を『乃亜』と呼ぶことに疑問を覚えずにはいられなかった。顔が似ているのだろうか? と考えるも、どうも目覚めてから目にする人たちの外見が自分のよく知る人間と著しく違っているのだ。髪の色は皆、黒。瞳も似たような黒。そういう一族の方なのかもしれないけれど。
「記憶が変って本当なの? 私が誰かはわかるの?」
そう訊ねられ、答える。
「あの、皆さんが『乃亜さん』と仰っている方は、私と似た姿なのでしょうか? 申し上げにくいのですが、私は乃亜さんではありませんの」
至極丁寧に言ったにも拘らず、なにか異質なものを見るような視線を向けられる。
「先生……?」
呼ばれ、彼女の後ろで腕を組んでいる白い服の男性が溜息をつく。先生、と呼ばれているので、多分医者なのだろう。
「事件の後遺症だとは思うのですがね。一時的に記憶が曖昧になったり、すっぽりとその時のことだけを忘れてしまうという例は今までも見てきたのですが……このように、別の誰かの記憶を、というのは」
「ない、と?」
「いや、あるいは……、」
「あるいは?」
「元々、乃亜ちゃんが多重人格であったとするならば、話は別です」
「ええっ? じゃ、今の人格は私が知る乃亜ではなく……、」
「本人は『リーシャ』と名乗ってます」
女性が絶望的な顔で私を見た。
「そんな……、」
私はなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ここでも、求められているのは私ではないのだ、と知る。もう、居場所などどこにもないのかもしれない。
私が俯いていると、女性が私の手をそっと握った。
「ごめん、ごめんね、乃亜。お母さん、あんたが誰だって構わないよ。多重人格で、今の乃亜が、私の知ってる乃亜じゃないとしたって、うん、構わない。だってこうして生きててくれたんだもん。あんな目に遭って、つらかったよね、痛かったよね。もう大丈夫。お母さんがついてるから。もう、大丈夫だから」
それは、私に向けられた言葉ではない。そう、頭ではわかっている。わかっているのに……私は、とめどなく流れる涙をどうすることも出来ず、温かくて、優しいその手に、ゆるぎない母の愛を感じ子供のように泣いてしまったのだ。
そんな私を、優しく撫でつけるその優しい手を、私は一生忘れないだろう、と思った。
「先生、傷の具合はどうなんですっ?」
「あ、ええ。手術に問題はありません。十日もすれば退院出来ますよ」
「そうですか。ありがとうございます!」
「水城さん、別室で少しお話を。その間に乃亜ちゃんは傷口の消毒と、
「……せい、しき?」
しゃくり上げながら繰り返すと、
「体を清潔な状態にするために、蒸しタオルで拭くんですよ」
と、水色の服の女性が教えてくれた。
「せっかくの可愛い顔も、台無しですからね。きれいに洗いましょうね」
そんな風に言われ、恥ずかしげもなく泣いてしまったことを後悔する。
乃亜さんの母親、医師の男性がいなくなると、水色の服の女性が忙しなく清拭とやらの準備を始めた。見ると、胸のところに札がついているのが分かる。そして、それは見たこともない文字であるにもかかわらず、何故か読めるのだ。
「斎藤様……と仰るのですね」
「様、って! さん、でいいのよ。ええ、あなたを担当してる、看護師の斎藤です」
そう言ってにっこりと笑う。看護師、というのか。
「じゃ、まず傷口の消毒をしますね。痛いと思うけど、少し我慢してね」
手際よく包帯を外し、ガーゼをめくる。そこには、生々しい傷跡が残っていた。
傷?
どうして?
これは、刺された傷……?
「これって、」
私は斎藤さんに訪ねた。
お茶を飲んで倒れた後、刺された? それで、どこか遠くの医者に連れてこられたのだろうか? 誰に?
「痛かったわよねぇ。急に知らない男に刺されて。あ、でも犯人はもう捕まってるからね、大丈夫よ!」
「刺された……」
「マーメイドテイルのファンを名乗ってるらしいけど、まだ詳しいことはわからないんですって」
「ま-めいど……ている?」
聞いたことのない言葉。
「もしかして、マーメイドテイルのことも覚えてない? アイドルだったってことも?」
「あいどる?」
「……そっかぁ。そうよね、思い出したくないわよね、こんな怖い思いして。でも……そっかぁ。これから、って時に。お母さん、悲しんじゃうわね」
「え?」
あの人を悲しませる?
それは、いや!
本能的に、そう思ってしまう。
あんなに優しい人を、悲しませるようなことは……。
「さ、これで消毒はおしまい。じゃ、体を拭きますね。上、脱ごうか」
そう言って着ていた服を脱がされる。
「……えっ?」
私は、そこにあるべきものがなくなっていることに、今やっと気づいた。
「あ、あのっ、え?」
混乱する。どうして? という思い。とてもきれいな形をしている。けど、でも、どうしてこんなっ、
「胸が、縮んでいるのですがっ!」
私の精一杯の叫びを聞き、斎藤さんはこともなげにこう言った。
「一週間何も食べてないもんね」
しかし、私は思う。
そういう問題ではない、と。
根本的に違う。違うのだ。
「髪、解くわよ」
後ろで束ねていたらしき髪を斎藤さんが解く。
「えっ? ええっ? どうしてっ」
髪が、黒かった。
ふにゃりとした癖のある黒髪。まっすぐで明るい栗色の髪はどこにもない。
「どういう……ことですの?」
驚く私に、斎藤さんが手鏡を差し出した。
「お顔の色は少し良くなってきましたね」
鏡を覗くと、見たこともない顔がそこに映る。勝ち気そうな強い瞳の色は、エメラルドグリーンではなく、黒に近いこげ茶。今まで見ていた人たちに近い。鏡を見ているはずなのに、何故か引き込まれそうになる魅力のあるその顔は、これは、私の顔なの?
「さ、体、拭きましょうね」
そう言って斎藤さんが私の体を蒸しタオルで綺麗にしていく。腕も、足も、無駄な脂肪は一つもないのに細すぎず筋肉質。触れられれば感覚があるのだから、これもきっと、私の体。ということは、やっぱりこれが、私。今の、私。
どうしてこんなことになったのかは全くわからない。ただ、わかったことがある。
ここは、私が知る世界ではないという事。
見たこともないものは、どうやら治療に使う道具のようなのだけれど、ピカピカと光っている。聞いたこともない、ピッという不思議な音を発していた。
私は、意識だけが自分で、けれど体は別の誰かであると理解する。おかしいけれど、そうとしか考えられないから。
さっきの女性は、この体……乃亜さんの母親。彼女が待っていたのは、私ではなく、娘である乃亜さんの目覚めだった。
「一体どうすれば……」
乃亜さんがどうなってしまったのか、私にはわからない。そして私は、これからどうすればいいのかも、わからなかった。
「ついでにトイレ、行く?」
斎藤さんに促され、用を足す。使い方まで全部教えてもらって。
『終わったら、ここを押してね』
そう言われたボタンを押すと、
「ひゃぁぁぁっ!」
初めて、ウォシュレットなるものを知る。
なんてすごい世界なのか……。
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