第110話:顕現の時

 橙一朗とういちろうは内心で笑みを浮かべている。


 これで二人の女神の話が円滑に進められるだろう。もちろん、これまで以上に理解しがたい内容になるのは自明の理だ。


 それを差し置いても、優季奈ゆきな織斗おりと、この二人のつながりに何らかの意図が隠されているところまで思考が及んでいる。


 橙一朗にしてみれば、驚嘆きょうたんに値する出来事だ。佳那葉かなはも、さらには路川季堯みちかわすえたかまでもが同じ心境でいる。



≪申し訳ないのじゃが、皆様にこれらの御方のご尊顔そんがんをお見せするわけにはいかず、わしの言葉のみでご容赦いただきたい≫



 顔など見なくても問題はない。聞きたいのはこの女性たちが誰で、どんな目的があるのかだ。


 利孝としたかが四人の顔を見回し、同意が取れたとばかりに言葉を続ける。



≪それで結構です≫



 いよいよだ。ここまで長い時間をかけてきたのは、あくまでも準備のためであり、ようやく本題に入る準備が整った。



≪皆様の覚悟、しかと見せてもらいましたでな。儂も嘘偽うそいつわりなく語りましょう≫



 大人たちの顔に緊張が走る。大きく息をむ音も聞こえてくる。



≪まずは、幼き優季奈さんの後ろにお立ちであった女神様、その御名は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様ですじゃ。儂ら路川家が先祖代々にわたって手厚くおまつりしてきた女神様でもあられる≫



 沙織が口を開く。この分野は沙織の独壇場だ。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、美の女神、安産の女神、そして桜を象徴する女神様ですね。富士山本宮浅間大社ふじさんほんぐうせんげんたいしゃをはじめとする浅間神社に祀られていると記憶していますが、路川家代々もその家系なのでしょうか≫



 橙一朗が感嘆の声を上げそうになっている。彼ら五人を前にして、驚かされることばかりだ。まさか目の前に木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめについて語れる者がいるとは予想外の嬉しさだ。



≪奥方はお詳しいのですな。左様さようですじゃ。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様こそが幼かった優季奈さんを神月代櫻じんげつだいざくらにお呼びになられた。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様にはえておられた。優季奈さんの寿命がな≫



 大きな音を立てて椅子が後ろに倒れる。



「ふざけたことを言わないで」



 護符から手を離すなり、勢いよく立ち上がった美那子みなこが怒りに任せて手刀しゅとうを叩き込む。椅子が倒れた時以上の大音たいおんが響き、頑丈がんじょう長卓ちょうたくが割れんばかりに震えている。



「お母さん」



 キッチンにいる優季奈が不安そうに母の後ろ姿を見つめている。


 綾乃あやのが両肩に軽く手を置き、振り返った優季奈に首を横に振ってみせる。口を差しはさむな。黙って見ていなさい、ということだ。



 四人ともが一瞬呆気あっけに取られたものの、美那子の気持ちは痛いほどにわかる。


 意味不明な女神の話に加え、優季奈の寿命が定められていたなどと言われれば、誰しもが立腹りっぷくして当然だろう。



「美那子、落ち着け。椅子を戻して座るんだ」



 兄の声を聞いても冷静にはなれない。先ほどまでは自らの実体験による記憶だったこともあり、何とか落ち着いていられた。



「兄さんはこんな馬鹿げた話を鵜呑いのみにするというの。女神に呼ばれただなんて、いい加減にしてほしいわ」



 美那子の声はさらに大きくなっていく。手刀はなおも長卓にめり込んだままだ。


 声は護符を通じたものではない。直接口にしている。優季奈たちに筒抜つつぬけ状態なのは言うまでもない。



「しかも、優季奈の」


「美那子」



 鞍崎慶憲くらさきよしのりの静かな一喝いっかつによって美那子の言葉は封じられる。



「優季奈に聞かせるべきではない」



 美那子にだけ聞こえるほどの小さな声でたしなめる。


 優季奈はこの事実を知っているかもしれない。恐らく知っているだろう。それでもここであえて聞かせる必要は皆無だ。



「私も神話の女神が現れたなど眉唾まゆつばものだと想う。それでも、実際に優季奈は生き返った。まぎれもない事実だ。人知を超えた力が働いたということにほかならない」



 鞍崎慶憲は護符に手を置いたまま言葉を発している。橙一朗にも、この場にいる全ての者にも聞かせている。


 そのまま顔だけを後方のキッチンへ向ける。


 視線の先にいるのは優季奈だ。すぐ後ろには、肩に両手を置いたままの綾乃もいる。



(まるで姉妹のようだな)



 優季奈の反応を待たずに視線を戻した鞍崎慶憲が橙一朗に尋ねる。



≪路川さん、あまりに荒唐無稽こうとうむけいな話だ。女神などこの世にいない。あくまで書物の中のみの存在だ。見せてもらった映像も作り物かと想ってしまう≫



 失礼は承知のうえで、あえて強い口調にしている。


 鞍崎慶憲は橙一朗に突き付けている。こちらが十分に納得できるだけの明白な証拠を出せと。



≪もとよりそのつもりですじゃ。少し長話になりますが、これを話さずしては何も始まりません。路川家そのものの歴史を聞いていただけますかな≫



 いなおうもない。聞かざるを得ない。今は判断材料がとぼしすぎる。これを聞いて、最終結論を出せばよい。



≪どうぞ進めてください≫



 鞍崎慶憲が全員の意思を代表して応じた。




 およそ一時間はかかっただろう。相当に端折はしょった末の結果だ。



≪路川さん、路川家の歴史が壮大だということはわかりました。神月代櫻が植わっている一帯をべていたこともです。そのうえで全く理解できないことがあります≫



 言葉を発したのは利孝だ。彼を含めた五人の聡明さは理解している。だからこそ、当たり前のようにこの質問が来ることは理解している。


 橙一朗は最後まで聞く必要もなかった。



≪儂が語った初代様のことですな≫



 歴史に明るくなくとも、昔の人々の生活は神、とりわけ土着神どちゃくしんと密接な関係があり、今とは比べようもないほどに信仰心も厚かったことぐらい知っている。


 また、神との対話や交流をすべく、様々な技術や宗教も生み出された。すなわち古神道こしんとう、神道、陰陽道おんみょうどうといったたぐいのものだ。



≪そういった歴史を考慮したとしても、路川季堯すえたかという方は千年以上も生き続けている。魂を黒猫の中に移したのでしたね。女神の話以上に信憑性しんぴょうせいに欠ける内容です≫



 還魂かんこんの秘術といったか。黒猫の体内で未来永劫の生を維持しているなどとよくも言えたものだ。



 橙一朗の意識がまたもや途切れ、居宅きょたくに戻る。橙一朗と佳那葉が見つめる先、黒猫の眼が金色に輝いている。いよいよ顕現けんげんの時を迎える。



≪初代様、儂が場を作りますでな。整い次第、お願いいたしますじゃ≫



 一度のまばたきをもって了承の合図を送り、佳那葉のひざから再び長卓に上に飛び上がる。



 橙一朗はいっそう強く護符に念を送り込み、顕現のための場を展開した。



界神籬かいひもろぎ



 言霊ことだまと共に護符から四方に柔らかな光が走り、それはおよそ一メートルの正円状に広がっていった。


 五人が五人とも、いきなりの出来事に面食らったか、護符から指を離してしまっている。


 何も問題はなかった。路川季堯の力は路川家最強であり、随一でもある。護符などを通じなくとも、対象者の脳裏に言霊を刻み込める。



≪お初にお目にかかる。朔玖良さくら神社初代宮司にして路川季堯と申す≫



 正円内に浮かび上がる人物を前に、誰もが茫然自失ぼうぜんじしつの表情を浮かべている。


 それはキッチンで事の成り行きを見守っていた優季奈や綾乃、織斗、汐音しおん、それに沙希さきも同様だった。


 その中で唯一、沙希の反応だけが異なっている。



「そんな、嘘。ネロ助が、初代様って。えっ、いったいどういうこと」



 冷静沈着な沙希もさすがに狼狽ろうばいしている。優季奈や綾乃が心配して声をかけているものの、聞こえていないのか、全く反応できない。



 佳那葉の影響を大きく受けているからなのか、あるいは櫻守さくらもりを継ごうという自身の強い意思からなのか、いずれにせよ沙希にのみ路川季堯を通して、ネロ助の姿が見えていた。



≪沙希、早宮埜さくやの孫娘、ようやくこの姿でそなたの前に立つことができた。改めて、そなたが名付けたネロ助こと路川季堯だ。はじめまして≫



 百面相のごとく、豊かに表情を変えていく沙希をさも愉快そうに、そして愛情をもって見つめる季堯だった。

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