第108話:二人の女神の思惑とは

 静まり返った部屋で聞こえてくるのは、ここにいる者たちの息づかいだけだ。


 今しがた橙一朗とういちろうから聞かされた、いや脳裏に直接刻まれた映像があまりに鮮明すぎて、到底作りものとは想えない。とりわけ、実際その場にいた美那子みなこ光彰みつあきはなおさらだろう。



 鞍崎慶憲くらさきよしのりが妹に問いかける。



「美那子、今見せられた映像だが、本当にこのとおりだったのか」



 美那子は視線を落としたまま小さくうなづく。心なしか顔色が悪い。続けて、光彰にも同じ問いを投げかける。



「記憶が定かでない部分もありますが、おおむねこのとおりです。それで想い出したことがあります」



 何だとばかりに美那子もようやく顔を上げ、光彰に視線を向ける。



「いなくなった子供を探す女性がいましたね。あの時はしっかり顔を見たはずなのです。印象にも残っています。ですが、この映像もそうでしたが、きりがかかったように顔が見えないのです。それに優季奈がいた位置も気になります」



 光彰の言うとおりだ。


 美那子もすれ違いざまに女性の顔を見ている。りんとした美しさを持つ女性だと感じていた。にも関わらず、映像の中では顔がぼやけてしまって判別できなくなっている。



「そうか。光彰君もか。実は私もそうだ。焦点が光彰君と美那子、それに優季奈ゆきなの三人のみに当たっている。それ以外の人物はおぼろだった」



 キッチンに立ったままの優季奈が口を差しはさもうとしたところを綾乃あやのが制する。



「まだだめよ。全ての疑問が出そろうまで待つのよ。それに聞かずとも、優季奈のいた位置は見当がついているでしょ」



 優季奈が首を縦に振り、綾乃を見つめる。



「そんな心配そうな顔をしないの。禁足地内きんそくちないにいたから。それがどうだと言うの」



 不思議そうな顔をしている優季奈に、綾乃はただ小さなみを返すだけだ。



「今の状況を見ればわかるでしょ。禁足地内がどういった場所なのか。そこで優季奈がどうなったか。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの名前を出したところで誰も信じないわ」



 常識の範疇はんちゅうでは綾乃の言うとおりだ。


 大人に比べ、また同年齢の者と比べても柔軟な思考の持ち主だと綾乃は想っている。そんな綾乃でも、沙希さきからこれら一連の話を聞かされた時には、にわかに信じられなかったのだ。



「無理もないわよ。消化するまで時間がかかるわ。それに優季奈のご両親も鞍崎さんも超常現象をの当たりにしている。に落ちないことも多いでしょうけど、何とかなるわよ」



 超常現象が何を指すかは明らかだ。説明の必要もない。



(沙希は具体的には触れなかったけど。優季奈が死んだのは一度ではない。二度よね。禁足地内に招かれているのだから。それを聞かされたご両親がどんな反応を示すのか。怖いわね)



 綾乃が難しい顔を浮かべている。小首をわずかにかしげたさまはまるで絵画のようだ。



「綾乃ちゃん、綾乃ちゃん」



 反応がない。優季奈はもう一度名前を呼ぼうとして想い出した。



(そうだ、綾乃ちゃんって思考に没頭すると反応がなくなるんだった)



 優季奈は綾乃の美少女ぜんとした姿に見惚みとれながらも、両親と叔父おじに想いをせた。




 護符から手を離さず、鞍崎慶憲が口を開く。



路川みちかわさん、見せてもらった映像は確かに美那子と光彰君の記憶のようだ。今さらこれを見せて、どうしようというのです≫



 詰問きつもん調になっている。怒りも含まれている。苛立いらだってきているのが傍目はためでもわかるほどだ。



≪鞍崎さん、今しばらくはご辛抱しんぼういただけまいか。おっしゃるとおり、お見せしたものはお二人の記憶から読み取ったものじゃ≫



 橙一朗がいったん言葉を切る。


 ここまではあくまで準備段階にすぎない。いよいよ見せるべきものを見せる時だ。


 三人に告げる、見せる前に佳那葉かなは路川季堯みちかわすえたかと詰めの話をしなければならない。



≪少しばかり時間を頂戴してもよろしいじゃろうか≫



 唐突な中断の申し出に、三人ともが意表を突かれたか。一瞬返答に困ってしまう。最初に立ち直ったのは美那子だ。



≪私は構いません。気持ちも整理もしたいし≫



 美那子の視線が兄と夫に向けられる。二人共に同意の頷きをもって返す。



≪それでは、この護符を沙希に渡してくださらぬか。用意ができましたら、沙希から声をかけさせますでな≫


≪了解した。沙希君に渡しておきましょう≫



 鞍崎慶憲が早々に護符から指を離す。美那子と光彰も後に続く。




 意識を戻した橙一朗は数回大きく息をつくと、額に浮かんでいる玉のような汗をタオルでぬぐった。



「さすがにこれほどの長時間となるとこたえるの。わしおとろえたものじゃ」



 本気とも冗談とも取れる愚痴ぐちこぼしつつ、佳那葉が入れてくれた濃い緑茶を美味しそうに飲む。



「やはり疲れた時には緑茶が一番じゃな」



 横で佳那葉が苦笑している。



「簡単にはいかなさそうね。優季奈さんのご両親は最低限で理解できているようですが、娘さんだけでなく、風向さんもからんでくると首を縦に振らないでしょう」



 橙一朗も同じ考えだ。優季奈だけの話なら簡単に済んでいるだろう。



せるしかあるまい。早宮埜さくやの記憶にある真実を。両親がどこまで信じるかはわからぬが、この二人は異なる女神に呼ばれ、出逢うべくして出逢ったのだ。女神の思惑は具体的にお聞きするしかないが、ある程度の予測ならできるであろうな≫



 路川季堯みちかわすえたかだからこそ予測できるのであって、佳那葉も橙一朗もその域には及んでいない。二人共に怪訝けげんな表情を浮かべたままだ。



佐倉さくら優季奈を呼ばれたのは木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様だ。疑う者はおるまい。では、風向かざむかい織斗はどうだ。そなたらは、いかなる女神を想像する≫



 佳那葉と橙一朗が顔を見合わせ、頷き合っている。一致しているのだろう。



≪初代様が仰ったように、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様よりも上位におわし、より死期の近い風向さんを幽世かくりよに呼べる女神様となると、伊邪那美命いざなみのみこと様しか考えられません≫



 長卓ちょうたくの上で身体を伸ばしていた黒猫がゆっくりと立ち上がる。金色の瞳が輝いている。



幽世かくりよべる女神は伊邪那美命いざなみのみこと様しかおられまい。ここで二つの思惑が考えられるわけだが、私は根は一つだと想っておる。そもそも、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様が呼び出し、命を産み落とす唯一無二ゆいいつむにの条件はそなたらも知っておろう。必ず女であることだ。風向織斗はまぎれもなく男、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の摂理から外れておる。これをどうとらえるかだ≫



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ伊邪那美命いざなみのみこと、二人の女神の思惑は別々だと考えるのが自然だろう。路川季堯はそのうえで根は一つだと言う。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様では決して呼べない男の子だからこそ、伊邪那美命いざなみのみこと様がその御力をもって呼び出したということですかの≫



 半信半疑の橙一朗が独り言のごとくつぶやく。佳那葉は思案しているのか無言だ。



早宮埜さくやよ、そなたは佐倉優季奈、風向織斗、いずれからも何かしらの因果を感じると言っておったな。まさしく、そこにこそ伊邪那美命いざなみのみこと様の思惑があるのであろう。これ以上の推論は意味もなかろう。全ては幽世かくりよに下ってからだ≫



 この話はここまでだ。


 佳那葉も橙一朗も、よいところではぐらかされたような気がしないでもない。



≪初代様、では優季奈さんのご両親と叔父上に視せますぞ。佳那葉が櫻守さくらもりとしての目を通して見た真実をそのままに≫



 途中で言葉をさえぎるかのように佳那葉が口を開く。



≪橙一朗さん、風向さんのご両親にも同時に視せた方がよいわ。既に風向さんが禁足地内で死んだという事実はお伝えしている。ならば、優季奈さんと併せて話を進めるのが最善よ≫



 織斗は路川季堯によって、自身が死んだという事実を視せられているものの、記憶の奥底に封印されている。それがけるまでは知らせるべきではない。



≪橙一朗、配慮せよ。記憶は大きな鍵でもあり、女神との約束でもある≫



 橙一朗はぬるくなった緑茶で喉をうるおし、力強く応える。



≪承知いたしましたぞ≫




 美那子と光彰、鞍崎慶憲は綾乃が入れ直してくれた紅茶を無言で飲んでいる。本当は美味しいはずの紅茶も、この状況では無味だ。



 いつの間にか綾乃と優季奈以外の三人もキッチンに集合している。五人がいても十分の広さだ。全員が立ったまま、大人たちの背中を見つめている。



「来たわ。護符を持っていくわ」



 鞍崎慶憲から受け取った護符が沙希の手の中で震えていた。



「何か伝えておきたいことはある」



 視線が優季奈と織斗に注がれる。二人はそろって首を横に振る。


 沙希は頷くと、一人護符を手にして、優季奈と織斗の両親が座っている長卓に向かった。

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