第107話:二つの恩寵

 舞い散る花びらを割って一人の女性が前方から近づいてくる。不謹慎ながら、遠目で見ても悲痛な面持ちが美しさを引き立てている。



「すみません、不躾ぶしつけながら悲鳴が聞こえました。何かあったのでしょうか。私にお手伝いできることがあればおっしゃってください」



 光彰みつあきに急に声をかけられ、驚いたのだろう。蒼ざめた顔がやや引きり気味だ。


 親切な申し出に対して、女性が頭を下げてくる。



「子供が、私たちの子供が、突然目の前から消えてしまったんです」



 女性の視線が神月代櫻じんげつだいざくらそば、花びらの絨毯じゅうたんの上で遊んでいる優季奈ゆきなに向けられる。



「ちょうど、あちらのお嬢さんと同じぐらいなんです」



 光彰は即座に一緒に探すことを決断、美那子みなこうなづいてみせる。美那子もまた頷き返す。



「お母さんは優季奈を頼んだよ」



 すぐさま二人は神月代櫻の周囲を歩きながら、注意深く観察していく。道すがら、ちょうど半周したところで夫と落ち合う段になっているとも聞いた。


 半周するのにかかる時間はわずかに数十秒足らずだ。それほどの短時間にも関わらず、女性が探している子供は見つからない。


 半周し終えるまで、二人で隈なく目を走らせた。見落としなどなかったはずだ。


 何よりも問題がある。神月代櫻の根元からおよそ半径三メートル、そこが限界だった。内側には決して足を踏み入れられない。



(ひょっとしたら、こちらの女性も同じかもしれない。まるでえがかれた円の上を強制的に歩かされているみたいだ。中に入れたら、もう少し調べられるのに)



 このような状況下だ。美那子に任せているとはいえ、優季奈が心配になってくる。


 半周歩いたところで光彰は丁重に女性に別れを告げ、急いで元いた場所まで戻ってくる。美那子が尋ねかけてくる。



「どうだった。見つかったの」



 光彰は力なく首を横に振るだけだ。



「まるで神隠しにでもあったみたいじゃないか。もしも優季奈がそんなことになったら、私たちも今の女性のようになるのは間違いない」



 神妙な顔つきの二人が見つめる先、大人しくなった優季奈は頭上から降り注ぐ花びらのなすがままだ。



 一枚の花びらがひらひらと落ちてくる。


 優季奈の髪に柔らかく触れ、見事に静止した。そこにるのが自然だと主張しているようでもある。


 左こめかみ上部、花びらは髪飾りと化して溶け込んでいる。



 この時、今しがたの女性の騒動もあって、美那子も光彰も間違いなく動揺していた。だからこそ、二人は気付けなかったし、知るよしさえなかった。



 優季奈は全く動いていない。それどころか呼吸さえ止まっているという事実に。



 優季奈がいる位置こそが問題だった。



 身体がどこに在るのか。


 神月代櫻の結界内、すなわち禁足地きんそくち内に入り込んでいる。そこは幽世かくりよへと誘う入口、死者しか入ることが許されていない領域でもある。


 美那子も光彰も決して近づけない場所だった。




「よくぞここまで来ましたね。わたくしの可愛い子供よ。心待ちにしていましたよ」



 優季奈の背後、この世のものとは想えないほどに美しい女性が立っている。むしろ浮かび上がっている、といった方が相応ふさわしいだろう。



「よき両親のもとに生まれましたね。わたくしは嬉しいですよ。こうして貴女がわたくしのもとへ帰ってきてくれたのですから」



 背筋が寒くなるような妖艶ようえんな笑みが浮かんでいる。



「尽きた命は神月代櫻のかてとなり、やがて美しく咲き誇る。貴女は神月代櫻のふところいだかれながら時を過ごし、今一度のしょうを得るでしょう」



 誰が聞いても意味不明の内容だ。無論、誰に聞かせているわけでもない。


 その証拠に優季奈の両親はもちろん、神月代櫻の傍に集う大勢の花見客たちに、女性の姿は一切見えていない。


 禁足地の内と外では時の歩みが大きく異なる。さらには女性の周囲にはかすみがかり、舞い落ちる花びらと相まって視界を完全にさまたげている。



わたくしの可愛い子供よ、貴女は神月代櫻に選ばれたのです。今から与えるわたくし恩寵おんちょうをもってしても、貴女の寿命は十五歳を直前に尽き果てます。それがわたくしの主神が創り出した命の摂理なのです」



 繊手せんしゅが優季奈の髪に優雅に触れる。



「神月代櫻に愛されし者にわたくし真名まなをもって恩寵を授けます。これにより貴女の身体は作り変えられていきます。再び神月代櫻の懐に戻ってくるその時のために」



 細く美しい指が優季奈の髪に留まっている一枚の花びらを指す。わずかに花びらが跳ね、おもむろに優季奈の髪の中へ消えていく。



「美しき輪廻りんねが貴女に巡らんことを」



 言葉は突然止まってしまう。


 妖艶かつ壮絶な美の表情が一瞬にして崩れ去っていく。



「まさか、まさかこのようなことが。なにゆえにわたくしの領域に、わたくしの許しを得ぬ者がまぎれ込んでいるのです」



 明らかに慌てふためいている。


 その時だ。女性の脳裏に言霊が一気に流れ込んでくる。



≪頼みましたよ、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ。この愛しき子には期待しているのです≫



 ひざから崩れ落ちそうになるところを何とかこらえ、紛れ込んだ一人の子に急ぎ意識を注ぐ。



「無茶をなさるにも程があります。たとえ私の領域といえど、ここでできることには限りがあるのです。それを」



 愚痴ぐちこぼしたところで詮無せんなきことだ。声の主の意思には決して逆らえない。それもまた摂理なのだから。



わたくしの可愛い子供に影響を及ぼすこと必定ひつじょうですが、もはやむをません。恩寵の一部を分け与えるしかすべがありません」



 優季奈に授ける恩寵は膨大な力だ。そのおよそ一割程度をあきらめなければならないだろう。むしろ一割で済むのは幸いだ。



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめには見えている。



「そう、この子供が。だからなのね。わざわざ呼び寄せたのは、まさしくこの時のため。この二人は出逢うべくして出逢った」



 既に準備は整っていた。


 あかしが心臓に刻まれている。



 命の火を吹き込むだけで、その子供は現世うつしよに戻ることができる。


 心臓を動かすための唯一の条件は、その上からもう一つの証を刻み込めばよい。



「全ては手のひらの上ということかもしれませんね。承知いたしました」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが恩寵の力を解放、神月代櫻の花びらと同色の光が心臓部分に溶け込んでいく。



「これでよいでしょう。さあ、現世うつしよに戻るのです」



 美しき手が花びらのように舞い踊る。



「待たせましたね。わたくしの可愛い子供、佐倉さくら優季奈。貴女には寿命が尽きるまで、一切の苦痛を与えずに済むよう配慮するつもりでした。しかしながら、恩寵の全てを授けられなかったがゆえに、貴女の身体を高熱がむしばむことになるでしょう」



 女性が優季奈の後ろ姿に向かって深々と頭を下げている。



「許してとは言いません。貴女にはわたくしを、わたくしたちを恨む権利があります。再び逢うその時にこそ」



 かなしみをたたえた表情で優季奈の背に愛情をもって触れる。



「貴女も現世うつしよに戻りなさい」



 女性の姿が霞みに包まれていく。次第に濃度を増し、静かにその中に溶け去っていった。




 優季奈の身体は未だに動かない。


 それでも何かに押し戻されるかのように、静かに禁足地の内から外へ、幽世かくりよから現世うつしよへ進んでくる。



 現世うつしよに戻った瞬間、優季奈は息を吹き返す。そして火のついたように泣き出した。



 美那子も光彰もようやく正気に戻ったのか、激しく泣いている優季奈を慌てて抱き上げる。



 優季奈の脳裏に決して理解できない言霊が響き、同時に心臓の真上、咲き誇る五枚花弁のあざが刻まれていく。


 神月代櫻の花びらと全く同色、白に淡い石竹色せきちくいろを落とし込んだ美しい痣だ。


 優季奈の胸元で一際ひときわ明るく輝いた後、溶け込むようにして消えていく。



 美那子にも光彰にも感知できないほどの一瞬間での出来事だった。



「優季奈、どうしたの。お母さんとお父さんはここにいるわ。大丈夫よ。優季奈を離したりなんて絶対にしないから」



 二人であやしながら優季奈が泣き止むまで待つ。やがて鳴き声は小さくなり、泣き疲れたのか、優季奈は美那子の両腕に抱かれながら眠ってしまった。



「眠ったね。優季奈に何もなくてよかったよ。先ほどの女性には申し訳ないけどね」



 思案顔を見せる光彰を怪訝けげんに想った美那子が問いかける。



「どうかしたの。何か気になることでもあったの」



 言いあぐねているのか、なかなか光彰が口を開かない。滅多にないことだ。



「うまく言葉にできないんだけどね。あの女性の子供を探している間中、ずっと違和感があったんだ。意思に反して足が前に出ないとか、急に気分がすぐれなくなるとか。それに頭にもやがかかったような感覚もつきまとってね」



 光彰の言わんとしていることが美那子にもわかるような気がする。美那子もまた同じ感覚にとらわれていたからだ。



「ここには長居ながいしたくないわ。優季奈も眠ってしまったし、もう帰りましょう」



 光彰も同感だった。





≪優季奈、貴女は十五歳を迎える前に神月代櫻にかえります。それは決して覆せない、わたくしの恩寵に対するちぎりなのです。貴女の魂は神月代櫻にいだかれ、やがて時が満ちれば、新たな命となって産み落とされるでしょう。その時こそ、再びいとしき者たちと巡り逢えるでしょう。限りある時を大切にしなさい≫

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