第106話:優季奈の過去に遡る

 美那子みなこ光彰みつあき鞍崎慶憲くらさきよしのりの三人は不思議な感覚に包まれている。


 当たり前の日常からあまりにもかけ離れている。優季奈ゆきなの蘇りは、たとえ一年という条件付きでも信じがたい。それをも上回る出来事が目の前で起こっている。



「これは現実なのか。私は夢でも見ているのだろうか。



 護符から指を離した鞍崎慶憲がひとごとつぶやく。



≪貴女の兄上にお伝えくだされ。これは決して夢などではないと。今から優季奈さんの話を進めたいのじゃが、よろしいかな≫



 美那子にそでを引かれた鞍崎慶憲が我に返り、視線を横に向ける。



「優季奈の話をするって」



 優季奈には聞かせたくないのか、小声でささやく。鞍崎慶憲も迷いなく再び護符に指を戻す。



≪優季奈さんが三歳を迎える年の三月春、神月代櫻じんげつだいざくらは例年よりもかなり早い満開を迎えておった。ご夫妻はまだ幼い優季奈さんを連れて花見に訪れましたな≫



 そのとおりだ。路川橙一朗みちかわとういちろうがなぜ知っているのかなど、もはや些末さまつな問題だ。美那子と光彰が小さくうなづく。



≪ご夫妻もまた優季奈さんの三歳の誕生日に訪れようと考えておった。四季とはわからぬものでな。神月代櫻がいつ満開を迎えるかなど誰にも予測できぬ。あなた方がその日に花見に訪れたのは、前々からの予定ではない。急な決定じゃった≫



 間違いはない。平日ながら偶然に偶然が重なった。光彰はなぜかその一日だけ有給が取得できたし、美那子もまた優季奈の子育て以外の用事が全てなくなっていた。



≪ご夫妻は偶然の賜物たまものとお考えになったじゃろう。しかしながら、偶然などないのじゃよ。全ては必然、女神のご意思によるものじゃった≫



 即座に美那子が言葉を返す。口調には多分に怒りがこもっている。



≪何を言っているのか全く理解できません。私たちがあの日、花見に行ったのはたまたまではなく、必然だったと言うのですか。しかも女神の意思って、私たちを馬鹿にしているのですか≫



 さすがにあまりに馬鹿げた話に冷静さを保つのが難しい。それは光彰も同様だ。



≪路川さん、いったい何の話をしているのですか。優季奈が蘇ったことに、まさかその女神とやらが関与していると言うのではないでしょうね≫



 橙一朗は黙ったまま反論さえしない。二人の気が済むまで待つつもりなのだ。


 腹にたままったものは全てき出す。それが済まない限り、冷静さを取り戻せないし、次の段階にも進めない。



≪私にも理解し難い話だが、路川さんにお尋ねしたい。よろしいだろうか≫



 鞍崎慶憲の問いに橙一朗は了承の返事を送った。



≪今の内容からすると、優季奈が蘇った出来事には様々なものが関与しているようだ。女神もその一つなのだろう。では、なぜ美那子たち親子三人が神月代櫻の花見に訪れる日が必然だったのか。突然決まったにもかかわらずだ≫



 橙一朗は口をはさまない。無言のままで、どうぞ続けてくださいとばかりに先を促してくる。



≪これは美那子から聞いた話だが、優季奈が急に高熱を出すようになったのは三歳になってからだ。すなわち、この花見を境に優季奈に症状が現れたということだ。路川さん、ぜひとも具体的な説明をしてもらえるだろうか≫



 鞍崎慶憲は利孝としたかが認めるほどの切れ者でもある。伊達だてに織斗たちが通う響凛きょうりん学園高等学校の副理事長を務めているわけではない。



≪兄さんの言うとおりよ。あの花見をきっかけに優季奈の身体に異常が出始めた。今の今まで因果関係などないと単純に想っていたけど、よくよく考えればあれがきっかけとしか考えられないわ≫



 光彰も首を縦に振って同意を示している。


 橙一朗は三人に冷静さが戻っていることを意識の奥底で感じ取り、一つ目の疑問が出たところでようやく応える。



≪先ほどの織斗君のご両親もじゃが、御三方の理路整然とした思考に感服するばかりじゃ。早速じゃが、先ほどの疑問に対する説明からしていきましょうぞ≫



◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



 優季奈の三歳の誕生日は、まだ一週間以上も先だ。


 例年どおりだと、ちょうど優季奈の誕生日前後に満開を迎えるはずの神月代櫻は、今年は異常に開花が早く、従って満開時期も相当前倒しになっていた。


 幸いなことに急遽予定がなくなった一日を利用して佐倉家の三人は美しく咲き誇る神月代櫻の下に訪れていた。



「優季奈、この樹、すごく大きいでしょ。神月代櫻というのよ。花びらがひらひら落ちてくるね」



 美那子の腕に抱かれた優季奈が小さな両手をいっぱいに伸ばし、落ちてくる花びらをつかもうとばたばたしている。



「優季奈、ちょっと暴れないで」



 腕から落ちそうになる優季奈を慌てて抱きしめる。優季奈はそこから逃げ出そうとさらに小さな身体をよじっている。



「代わるよ。優季奈、こっちにおいで」



 光彰がすかさず優季奈を引き取る。優季奈はなおも両手を振り回し、脱出しようと試みている。



「ほんとにお転婆てんばなんだから。いったい誰に似たのでしょうね」



 光彰は優季奈に視線を落としながら、間違いなくお母さんだよ、という言葉をぐっとみ込む。



「優季奈、下ろしてほしいのかい」



 暴れる子供を抱き続けるのはかなりの重労働だ。万が一にでも落としてしまったら、それこそ取り返しがつかない。


 光彰はそうなる前に口実を見つけ、優季奈を花びらが降り積もった大地の絨毯じゅうたんに優しく下ろした。



「そうやってすぐに甘やかすんだから」



 美那子が不満混じりにつぶやく。



「優季奈は可愛い一人娘なんだから。仕方がないよね」



 堂々と開き直る光彰に、美那子は大きなため息をついている。



「優季奈、楽しそうね。あんなにはしゃいで」



 優季奈は無我夢中で花びらの中をいしながら突き進んでいる。進むたびに小さな花びらが舞い上がる。それが楽しいのだろう。花びらを掴み取ろうと何度も小さな手を伸ばしている。



「そう言えば、反対側にも優季奈と同じぐらいの子供がいたよ。女の子か男の子かはわらかなかったけどね」



 神月代櫻を挟んで反対側、確かに両親に見守られた一人の子供が優季奈と同様、花びらの絨毯の上でたわむれている。



「優季奈の成長が楽しみだわ。これからたくさんの友達もできるだろうし、すこやかに育ってほしいわね」



 光彰がそのとおりだとばかりに頷き、問いかける。



「心身共にね。こんなにも可愛い娘をお嫁に出す日が来るなんて考えたくもないね」



 美那子が心底呆れ返っている。



「もう、何を言っているのよ。まだまだ先の話でしょ。それにずっと独り身でいるわけにもいかないわ。いずれは素敵な人を見つけて、幸せな家庭をきずいてほしいもの。私たちのようにね。もちろん、優季奈次第だけどね」



 光彰がやや遠い目をしている。



「そうだね。優季奈には私たちのように幸せになってほしい。ここで一緒になったのも何かの縁、向こうにいる子供が実は運命の人だったりしてね」



 二人の視線が神月代櫻の向こう側に揺れ動く。


 光彰が大きなため息を吐いている。



「ちょっと、何しんみりしているのよ」



 苦笑する美那子の言葉と共に一陣いちじんの風が吹き抜けていく。


 絨毯に降り積もった花びらが突風にあおられ、意思を持ったかのごとく舞い上がる。



「あなた、優季奈をお願い」



 目をおおった美那子は、風の影響などお構いなしに動き回る優季奈を光彰に託す。


 光彰もまた目を覆いつつ、優季奈を抱き上げようとけ寄る。光彰は手を伸ばしかけたところで静止を余儀よぎなくされてしまった。



(な、何だ、この身体のふるえは。目もかすんでくる)



 光彰をとらえているのは得体えたいの知れない、尋常じんじょうではない恐怖感だ。手を伸ばそうとすればするほど、その感覚が強くなっていく。



「優季奈、だめだ。止まりなさい」



 大声で優季奈の関心をこちらに向けようとする。


 功を奏したのか、優季奈はそこで止まると、這い這いのまま身体の向きを反転、尻もち状態になって両脚を前に投げ出す。


 優季奈が何か言葉を発しているようだ。光彰には全く聴き取れない。


 光彰は一歩踏み出そうとした足を逆に後退させてしまう。逡巡しゅんじゅんする光彰の耳に、神月代櫻の反対側から叫び声が飛び込んできた。美那子も慌てて駆け寄ってくる。



「向こうにいた子供さんに何かあったみたい。優季奈は」



 大丈夫かと尋ねようとしたところで、優季奈の無事な姿が目に入ってくる。


 美那子は安堵あんどの息を吐きながら近づこうとした途端、光彰と同様の現象におちいってしまった。足を前に踏み出したいのにそれができない。意思が勝手に忌避きひしている。



「何よ、これは。どうして」



 空手の修錬を長らく続けてきた美那子だ。この程度なら何でもないとばかりに、強引に足を前進させようとしたところで、光彰が制止する。



「誰かが近付いてくる。お母さんは優季奈から目を離さないように見ていて。私が確かめてくるから」

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