第105話:橙一朗と佐倉家の三人

 光が消え去り、沙希さきがゆっくりと沙織さおりの手を離す。心配そうに沙織を見つめ、横にいる織斗おりとに視線を移す。



風向かざむかい君、今は大事を取って」



 それだけで十分だ。織斗は利孝としたかにひと声かけ、もう大丈夫だと言い張る沙織を強引に隣の部屋まで連れて行く。



「お母さん、無理しないで少し休んでいて。あとはお父さんに任せればいいから」



 ベッドに沙織を横たわらせ、出て行こうとする織斗に言葉をかける。



「織斗は知って」



 知っていようかいまいがどちらでもよい。そして織斗は知らないだろう。母としての直感がそう告げている。



「落ち着いたら戻るわ。お父さんに心配しないように伝えて」



 織斗が何かを聞きたそうにしている。


 沙織自身、全く消化できない事柄を口にするわけにもいかない。



「織斗、幽世かくりよに行きたいという意思は、優季奈ゆきなさんをただ想ってのことだけなの」



 織斗は意外そうな顔を一瞬だけ見せ、そうだと力強くうなづく。



「他に理由なんてないよ。お母さん、俺はもう二度とあの時のような後悔をしたくないんだ。優季奈ちゃんの寿命は有限、だから今できることは全てしておきたい。それだけだよ」



 沙織はわずかにみを見せる。



「優季奈さんをそこまで想っているのね。いいわ。行きなさい」



 沙織はすぐさま身体を反転する。これで織斗からは表情がうかがえなくなった。



「えっ、お母さん、それって」



 言葉の意図を確かめようと尋ねる織斗に沙織からの返答はない。



(これって許しが出たってことなのか、それとも)



 どうやら沙織は振り返るつもりはないらしい。さとった織斗もこれ以上尋ねてもむだだと理解する。



「お父さんに伝えておくから。じゃあ、俺は戻るね」



 返答はないだろう。織斗が扉に手をかけたところで背中に声がかかる。



「織斗、優季奈さんを最後まで大切にするのよ」



 織斗はいぶかしく感じながらも、即答で返す。



「最後まで。もちろんだよ。心配しなくていいよ、お母さん」



 扉を開けて織斗が出ていく。




 戻ってきた織斗に利孝よりも早く、美那子みなこがすかさず尋ねてくる。



「織斗君、沙織さんの具合は」



 キッチンに立つ優季奈に少しばかり目を向ける。表情から心配してくれていることがわかる。織斗は大丈夫だとばかりに首を縦に振る。



「はい、大丈夫です。少し落ち着いたら戻ってきます。ご心配をおかけしました」



 頭を下げる織斗に、今度は光彰みつあきが問いかける。



「織斗君、何があったのか聞いても。いや、これは利孝さんになのかもしれないが」



 当然、織斗には答えられない。


 代わって利孝が光彰に応じるため、離していた手を再び護符の上に置いた。



路川みちかわさん、ここまでの内容を織斗は知っているのでしょうか。恐らくは知らないのでしょうね。こうして私たちだけに聞かせているのですから≫



 至極妥当な考察だ。織斗だけではない。佐倉さくら家の二人や鞍崎慶憲くらさきよしのりにさえ聞かせていない。配慮してくれていると善意にとらえていいだろう。



≪ご明察通りですじゃ。いずれ知ることにはなるじゃろうが。奥様には申し訳ないことをしてしまった。おびいたしますじゃ。貴男もお疲れのことじゃろう。意外に精神力を使うものでな。優季奈さんのご両親にはわしからお話した方がよさそうじゃ≫



 話はまとまった。


 謝罪の言葉も聞けたし、利孝は護符から手を離すと、そのまま美那子と光彰のちょうど中間に置き直す。



「美那子さん、光彰さん、この護符の上に手を置いてください。先ほどの私たちのように」



 二人に向けた視線を、一人け者状態になっている鞍崎慶憲に転じる。



「慶憲君、君も一緒に聞いた方がいい」



 真剣そのものの利孝の表情を見た鞍崎慶憲は言葉を返すことなく素直に頷く。護符を動かそうとする光彰を制して立ち上がる。



「私がそちらに移動しよう。どのような手品かは知らないが、人ならざる者の声を聞くとしようか」



 護符に触れていた沙織と利孝に何が起きていたのか、三人ともに説明を受けていない。いなくても察することは容易だ。沙織の反応を見ても十分だろう。それに利孝は、聞いた方がいいと言ったのだ。



「慶憲君、私の椅子を使うといい。私は向こうの部屋に行っているから」



 言い残して、利孝が沙織の寝ている部屋に入っていく。後ろ姿が少しばかり寂しそうに見えたのは錯覚だっただろうか。



「お父さん、お母さんは落ち着いたら戻ってくるって」



 先んじて鞍崎慶憲が口を開く。



「織斗少年、野暮やぼなことを言うではない。利孝君ときたらいつまでも」



 慌てて利孝が鞍崎慶憲の口を封じる。



「こらこらこら、子供の前で余計なことは言わないの」



 誰もが話を聞きたそうにしている。興味津々の目が痛いほどに突き刺さってくる。利孝はいささか居心地が悪そうに、そのまま隣の部屋に消えていった。



「兄さん、ほら、早く座って」



 美那子に促されて慶憲が腰を下ろす。



「後でその話、聞かせてね」



 何を言っているんだ、この妹はという目で美那子をにらむも、全く効果なしだ。



「知りたいなら、直接奥方に聞けばいいだろう。私が話せることなど何もないぞ」



 即座に切り捨てる。



「聞けるわけないでしょ。女はね、いくつになっても恋バナが好きなのよ」



 あきれてものも言えないとはこのことか。


 鞍崎慶憲はげんなりした表情を浮かべ、美那子の横にいる光彰に視線を向けてみる。そこには全く同じ顔をした光彰がいる。



「この護符の上に手を置けばいいのね。時間がもったいないわ。早速始めましょうよ」



 この切り替えの早さが美那子の良いところでもあり、悪いところでもある。慶憲と光彰は同時に大きなため息をつき、美那子の言うがままに護符に手を振れた。



 前触れもなく、頭の中に音が飛びこんでくる。



≪はじめまして。優季奈さんのご両親と叔父上おじうえ殿ですな。儂は沙希の祖父で路川橙一朗とういちろうと申します≫



 三者三様ながら、一様に驚嘆きょうたんの表情を浮かべている。それでも辛うじて冷静さを保てたのは精神的な強さと言えるだろう。



≪さすがは空手全日本選手権三連覇のご兄妹ですな。妹君の夫殿も商社マンとして鍛え抜かれておられる。その落ち着きぶり、実に見事ですじゃ≫



 橙一朗は素直にめている。それを真に受けないのがこの三人だ。順応が早い者から応じていく。



≪沙希君の叔父上殿と申されたか。私や美那子のことを知っているようですが、それはさておき、このやりとりはいったい何なのですか。常軌をいっしている。とはいえ、優季奈のこともある≫



 声に出さずに心の中で言葉をみ上げている。伊達に沙織と利孝の様子を観察していたわけではない。この声は美那子にも光彰にも通じている。



≪兄の言うとおりです。路川さんは私たちに何を聞かせるおつもりなのですか≫



 優季奈のことだとはわかっていても、疑問しか浮かばない。およその話は優季奈本人から聞いている。それ以上に深い内容があるとでもいうのだろうか。



≪優季奈と織斗君のこの先について、どうやら路川さんはご存じのようだ。親としてただ望むのは、一年とは言わず、もっと優季奈に生きていてほしい。それが叶う方法があるとでも≫



 橙一朗はますますこの三人が気に入ってきた。


 幾度かこの方法で他者に語りかけたことがある橙一朗の経験から言えば、間違いなく冷静ではいられない。恐慌きょうこう状態におちいり、その時点で会話が終わってしまう。


 それが先ほどの沙織と利孝に続き、この三人も驚きは隠せないものの落ち着きをもって応じている。



 これなら話も早いだろう。


 橙一朗は三人との会話を一瞬切り、自分のいる場所に意識を戻す。



「優季奈さんの真実はもちろん、この方々には織斗君のことも話そうと想う。初代様の御力についても触れておこうかと。いかがであろうか」



 佳那葉かなはと初代こと路川季堯すえたかへの問いかけだ。



「よいのではありませんか。どちらかと言えば、優季奈さんの母上を説得することが重要でしょう。そのためには織斗君の秘密を打ち明ける必要があります。優季奈さんも知っていることですしね」



 佳那葉から賛意を得られた橙一朗が小さく頷く。次に視線を黒猫に動かす。



≪私の力について、どこまで触れるかは橙一朗に任せよう。そなたなら余計なことは言うまい。幽世には私が同行することも伝えてよい≫



 お墨つきが得られたことで橙一朗は再び護符の向こう側、三人に意識を戻した。

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