第104話:織斗が消え去った真実

 橙一朗とういちろうが護符の先にいる沙織さおり利孝としたかの表情をうかがいつつ、まずはここまでと判断する。


 再び静かにしゅを唱え、二人の記憶の映像を解除する。



≪いやな記憶を想い出させてしまいましたな。おびいたしますじゃ≫



 二人は同時に逆回りに歩み始め、念入りに確認しながら神月代櫻じんげつだいざくらの周囲を半周したところ合流、それでも織斗おりとは見つからない。


 あり得ないとは想いつつ、お互いに見落としがあるかもしれない。再び半周して元の位置まで戻ってきたのだ。



≪そこで織斗君を見つけられた。消えせた場所と全く同じところじゃった。花びらに埋もれるかのように眠っておった≫



 二人はうなづくと、沙織が先んじて口を開く。



≪そのとおりです。慌てて抱きかかえ、二人で異常がないか確かめました≫



 着ていた衣服には地面をいずった際の、花びらをなすりつけた際のよごれしかなかった。あからさまな外傷も見当たらない。呼吸も正常だった。


 沙織にも利孝にも、ただすこやかに眠っているようにしか見えなかった。



≪異常は見られませんでしたな。それもそのはずじゃ。織斗君は傷一つ負っておらぬ。しかしながら≫



 さすがにこの先は言いよどんでしまう。告げる必要があるとはいえ、二人が受ける衝撃は計り知れない。親として受け入れ難いだろう。


 実のところ、佳那葉かなはの記憶には織斗が消えたところが映し出されているわけではない。櫻守さくらもりとして見守っていたのは、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめに呼ばれた優季奈ゆきなだったからだ。



≪ここから先、お二人にとっては聞きたくもない内容になるのは間違いないでしょう。事実を事実として伝えますでな。どうか覚悟を決めてくだされ≫



 時として事実は何よりも残酷だ。大人であっても精神的に壊れることさえある。それは百も承知、事実に向き合うか、目をそむけるかは聞いた者次第だ。


 橙一朗が護符を通じて二人の目を深くのぞき込む。



≪聞かせてください。あの時、織斗に何が起こったのか。私たちは知る必要があります≫



 利孝に続いて沙織もまた決意を言葉にする。



≪覚悟は決めています。たとえ何があったとしても、それが事実なら受け入れます≫



 橙一朗は改めて実感している。忌避きひ躊躇ちゅうちょがあって当然のところ、この二人からはそういった感情が窺えない。


 強い精神力の持ち主なのか、あるいは無頓着むとんちゃくなのか。どう考えても後者はあり得ない。



≪お二人は強いですな。一人の人として尊敬しますじゃ。ならば、わしも単刀直入に申し上げるといたしましょう≫



◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



 沙織と利孝の視線が花見客たちの方にわずかにれた刹那せつな、一陣の風が吹き抜ける。


 それは確かに人ならざるものの意思を強く感じさせるような出来事だった。



 大地に降り積もった無数の花びらが舞い上がり、辺り一面を覆い尽くしていく。とりわけ織斗の周囲を情愛をもって満たしていった。



 沙織と利孝が無意識のうちに手で目を覆った時には、織斗の姿は神月代櫻の結界内、すなわち禁足地きんそくち内に引き込まれていた。



わらわの姿を見られるわけにはいかないのよ」



 聞いた百人が百人そろってひざまずきたくなるような威厳のある、それでいて美しく心地よい声音こわねだ。



 声の主たる妙齢の女性がたおやかにひざを折り、既に息絶えている織斗の小さな手をすくい取る。



「因果は巡るのでしょうね。あの娘は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめに呼ばれ、そなたはわらわに呼ばれた。あの時と違っているのは、そなたはわらわのもとまで確かにやって来たこと。ならば、わらわも誠意をもって応えねばなりません」



 自らの両手で包み込んだ織斗の手に向かって軽く息を吹きかける。



いとしき子よ、わらわの世界へいざないましょう」



 再び大地の花びらが舞い上がる。静かに音もなく二人を覆っていく。


 大気の流れの中をおだやかに漂いながら二人の姿を隠すと、ゆっくりと大地に降り戻った。




 女性に抱えられたままの小さな織斗は異界に下りてきていた。俗にいう死後の世界、すなわち幽世かくりよと呼ばれる。



「小さな心臓、それでも魂の欠片かけらだけははっきりとえるわ。この子は、どうかしらね」



 女性は一人思案しあんしている。



 幽世かくりよにおいて明確に人の形をまとっている。


 周囲には様々な気配があるものの、どれもおぼろのように定かではない。何かがこすれるような音、引きずるような音、きしんでいるような音など、多種多様な音がかなでられている。


 恐らくは、この女性と会話をすための手段なのだろう。その証拠に女性は相槌あいづちを打ったり、時には返答したりしている。



「そうね。それもよいかもしれない。あるいは、こちらの方がよいかもしれない」



 ささやきは幽世かくりよこごえるような寒さの中でもりんと響き渡っている。



わらわも同感よ。この愛しき子は利発で意思の強さを秘めています。可能性は限りなく高いでしょう。決めました」



 周囲のものたちのざわめきが瞬時に収まる。会話の時間は終わった。



「愛しき子を現世うつしよに戻します。わらわの力をもって、愛しき子の周囲の時を止めているとはいえ、戻った後を考えると早い方がよいでしょう」



 あえて周囲のものたちに言い聞かせているような口調でもある。



 再びのざわめきが起こる。女性は一つ一つに頷き返し、織斗の生気の失せた顔をいつくしみをもって見つめる。



「愛しき子よ、そなたにわらわ恩寵おんちょうを与えます。現世うつしよに戻れば、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめがそなたに新たな生を与えるでしょう。それによりわらわの恩寵も眠りに入ります。次に目覚めるのは」



 全く表情を変えなかった女性が初めて笑みを浮かべる。形容しがたい、凄絶せいぜつなる美とでもいうのか。



 織斗の小さな手を優しく握り、全く理解できない言葉をつぶやく。



 ざらついた音が二つ、女性は軽く頷くとまた異なる言葉を発した。



「よいでしょう。そなたと、それからそなた、私に同行することを許可します」



 凍える世界の中で霧のごとく揺らめく白蒸はくじょうが女性の前後で嬉しそうに漂っている。



 女性のくちびるが震え、理解不能の言霊ことだまつむぎ出されていく。



(頼みましたよ、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ。この愛しき子には期待しているのです)



◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



 橙一朗は佳那葉の記憶と共に、初代こと路川季堯みちかわすえたかから聞いた真実を織り交ぜて見せている。


 女性の姿が明瞭でない理由は至って簡単だ。季堯でさえ、女性の真名まなを口にすることは許されていない。知っていたとしても口にできない以上は姿を他者に示すわけにもいかない。



 織斗が死んだという事実を突きつけられた沙織と利孝はそろって顔面蒼白そうはく、沙織に至っては今にも卒倒しそうだ。



(気の毒じゃが最後まで聞いてもらわねばならぬ。お許しくだされよ)



 橙一朗がさらに話を進めていく。



≪その女性を仮に女神様と呼ぶとしましょう。織斗君は神月代櫻じんげつだいざくらの結界内に入ってしまった。いや、本人の意思ではなく、女神様に招かれたと言った方が正しいじゃろう≫



 利孝が先回りして尋ねる。



≪なぜ織斗はその女神様とやらに招かれたのでしょう。三歳にも満たない子供なのですよ。招くにはもっと相応ふさわしい人がいたのではありませんか≫



 どこまで踏み込んで話すべきか、ここに来て再び躊躇ちゅうちょしてしまう。


 既に二人の心の中にまで土足で踏み入れている。もはや全てを伝えることこそが後顧こうこうれいを排除することにも繋がるだろう。



≪追い打ちをかけるようで心苦しいのじゃが、お二人に黙っている方が罪じゃと判断いたしましたでな≫



 橙一朗が理由をつまびらかにするべく語り始める。



≪女神様が織斗君を選ばれた理由をお伝えしますじゃ。一つ、織斗君の人格がまだ完璧に形成されていない状態じゃった。一つ、織斗君の魂が強く清らかじゃった。そして、最後の一つじゃ≫



 もったいぶっているわけではない。


 最後の言葉を口にした途端、沙織と利孝に最大の衝撃が襲いかかる。さらなる動揺がどのような影響を及ぼすか、予測ができない。



≪幾つかある候補の中で、織斗君こそが最も死に近い存在じゃった。当時の最高の医療に頼ったとしても、織斗君の寿命は、残り一年足らずだったのじゃ≫



 あまりの衝撃的な事実を前に利孝は完全に打ちのめされている。



 沙織の様子がおかしい。


 利孝が慌てて、強く押さえたまま動かない沙織の指を護符から強引に引きがす。



≪すみません。一時中断してください≫



 沙織は過呼吸におちいってしまっている。解放が最優先だ。


 織斗も急いで母親のそばに駆け寄ると同時、沙希が護符を取り上げる。



≪お祖父じいちゃん、どういうことよ。どうしてこんなことに。何かできることはないの≫



 沙希の怒鳴り声が遠くいる橙一朗の耳朶じだを大きく震わせる。



まぬ、沙希。その話は後じゃ。今はしずめる方が重要じゃ。沙希は護符を持ったまま、沙織さんの手を握るのじゃ。儂が術を行使する≫



 橙一朗の術師としての実力は疑っていない。



「風向君、私を信じて、任せて」


「わかった、路川さん」



 短い応答を受けて、沙希は左手で護符を握ったまま、すぐさま沙織に近づくと右手で右手を握り締める。



≪いいわよ、お祖父ちゃん≫



 刹那せつな清浄せいじょうの光が立ち上がり、沙織の身体を優しく包んでいった。

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