第103話:遠い記憶の中に映るもの

 橙一朗とういちろうの投げかけた言葉が脳裏を駆け巡っている。忘れていた記憶がまさに意識の表面に出てきたのだ。


 本当に忘れていたのだろうか。無意識下で自らの意思をもって封じていたのではないか。沙織さおり利孝としたかも、明らかに苦悩の表情だ。


 常識的に考えればわかる。


 三歳にも満たない子供の姿を両親そろって見失うなどあり得ない。片方が目を離す程度はあるだろう。それも一瞬でしかないととらえるのがごく自然だ。


 多くの兄弟姉妹がいるならまだしも、織斗おりとは一人っ子、恐らくは付きっ切りだったに違いない。



≪あまり想い詰めないでくだされ。この話は絡まった糸を一本一本、丁寧にきほぐさねば理解できるものではないのですじゃ≫



 うつむき加減だった沙織と利孝が同時に顔を上げ、目の前に座る織斗を見つめる。それでいて視線は織斗を通り越した先を見据みすえている。


 織斗もまた先ほどから不安げに両親に視線を置いたままだ。



「風向君、ちょっとこっちに来て」



 沙希さきが静かに立ち上がり、長卓から離れていく。我に返った織斗が促される格好でゆっくりと立ち上がって、沙希の後に続いた。



綾乃あやのちゃん」



 席を立った沙希と織斗の姿を追いつながら優季奈ゆきなつぶやいている。



「心配は要らないわ。沙希のことだもの。きっと何かしらの秘策があるのでしょう。路川みちかわ家にお邪魔した時にも見たでしょう」



 沙希には路川家最強ともいうべき術者の橙一朗と櫻守さくらもり佳那葉かなはがついている。優季奈や綾乃の知らない知識を豊富に持っている。


 今、二人の目の前で繰り広げられている光景もまさしくその一つだろう。



「沙希ちゃんは信頼しているよ。それでも、心配だよ」



 二杯目の紅茶を全てのティーカップに注ぎ終えた綾乃が、こちらに視線を向けてきている汐音しおんを手招きする。



「優季奈、気持ちはわかるけど、私たちではどうにもできないわ。結果を待つしかないわね。真泉まいずみ君が来るから、一緒にお運びをお願いね」



 優季奈が小さくうなづく。


 綾乃の言ったとおりだ。後ろ姿しか見えないものの、織斗の両親の雰囲気がこれまでとは全く違っている。感情に敏感な優季奈だ。表情を見ずとも感じられるのだろう。



「沙希、頼むな」



 汐音が通りすがりに声をかける。二人は幼馴染おさななじみの間柄だ。少なくとも織斗たちよりも路川家の実情を知っている。


 この短い言葉の中に、沙希に対する信頼感がこめられている。



「もちろんよ。汐音は綾乃と優季奈の手伝いをお願いね」



 軽く手を振って、汐音がキッチンへと足早に歩いていく。



「汐音とは本当に仲がいいんだね」



 即答で返す。



「腐れ縁よ。幼稚園からずっと一緒で、しかも女と男、いろいろ言われたわ。だから、疎遠そえんになった時期もあったのよ」



 容易に想像がつく。沙希も汐音も見た目はもちろんのこと、中身も優れているとくれば、周囲が放っておかないだろう。



「昔話をしている場合じゃないわね。風向かざむかい君のご両親には私のお祖父じいちゃんが語りかけているの。あの護符に触れているでしょう」



 沙希が細い指で沙織と利孝の触れている護符を指す。



「そんな力が」



 頷いた沙希が説明を加える。



「お祖父ちゃんは路川家代々の陰陽師おんみょうじの中で最強の部類に入るわ。あの護符には、触れている者と意志を通わせるためのしゅがこめられているのよ」



 織斗に驚きはない。両親の顔色を見れば一目瞭然だ。何よりも路川家にうかがった際に、橙一朗から古神道こしんとう秘術に用いる生ける玉、死せる玉を見せられている。



「それで、橙一朗さんは両親に何を」



 沙希が首を横に振っている。



「私にはわからないわ。知識も経験も全然違うから。でも、風向君のご両親の顔色を見れば、何となく想像がつくというものよね」



 織斗は素直に頷くしかできない。沙希も織斗も知らない、何か核心めいたことを語っているのかもしれない。



≪お二人には、いやな記憶を想い出させてしまって申し訳ないのじゃが、そこにこそ重要な秘密があるでな。順を追って説明したいのじゃが、よろしいかな≫



 先に反応したのは沙織だ。



≪ぜひ聞かせてください。あの時のことは織斗にも話したことがありません。路川さんがどうしてご存じだったのかも気になります≫



 横で利孝も同感だとばかりに首を縦に振っている。



≪なぜ知っていたかは簡単じゃよ。その場で見ていたからじゃ。儂ではなく、妻で櫻守の佳那葉が、じゃがな≫



 櫻守がどういったものかについて軽く触れてから、橙一朗がさらに言葉を続ける。




≪例年になく早い満開を迎えた神月代櫻じんげつだいざくらは、その花びらを美しく散らしておった。周囲は花びらの絨毯じゅうたんで満たされ、多くの人々でにぎわっておったの。織斗君はお二人の目の届く範囲で、その上をいしておった≫



 その時の光景がまざまざと浮かび上がってくる。間違いない。橙一朗の言葉どおりだ。


 神月代櫻のすぐそば、ふかふかに降り積もった花びらの絨毯の上で織斗はたわむれていた。沙織も利孝も片時も目を離さず、愛する息子の姿を見守っていた。



≪織斗君はゆっくりと神月代櫻に近寄っていく≫



 花びらを頭の先から足の先まで、全身に貼り付けながら織斗が這っていく。無論、両親共に視線は織斗のえたままだ。



(わしの力では初代様のようにはいかぬでな。佳那葉の見た記憶をそのままお見せするのが早かろう)



 路川家に座る橙一朗がすぐ横にいる佳那葉に同意を求める。佳那葉の頷きを待って、橙一朗はくちびるを震わせ、静かにしゅを唱えた。



◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



 沙織も利孝も、息子の織斗が可愛くて仕方がない。


 本来、この日に花見に出かける予定はなかった。二日後に迎える織斗の三歳の誕生日に、と考えていたからだ。



「沙織さん、来てよかったね。今年は開花が予想以上に早すぎて、明後日あさってだと散り桜になっていただろうね。それはそれで美しいんだろうけど」



 織斗は降り積もった花びらに包まれるようにして無邪気に遊んでいる。両親はしゃがみ込んで、織斗に目を光らせている。


 花びらの山を両手で叩きながら辺り構わず突き進んでいく姿は、まるで暴れる怪獣だ。見守る二人からは微笑みが絶えない。


 目をわずかに上げて、神月代櫻の反対側に移す。そこにも織斗と同じように花びらの中で遊んでいる子供がいる。



「織斗、止まりなさい。それ以上はだめよ」



 自分を呼び止める母の声が聞こえたのか、織斗はぎこちなく動きを止める。小さな両手は花びらで埋もれている。


 織斗は目を輝かせ、花びらを無造作に鷲掴わしづかみにすると、青空に向かってばらき始めた。



「こら、織斗、よさないか」



 空に舞った花びらが風に流されて飛んでいく。


 神月代櫻の周囲には、ある程度の距離を取って、お弁当を広げながら談笑する多くの花見客がいる。



「す、すみません。うちの子供が」



 利孝が頭を下げている。


 幸いなことに優しい人たちばかりだったのだろう。誰も気を悪くせずに、むしろ織斗に好意的な目を向けてくれている。



「いえいえ、いいんですよ。小さな子供のすることですからね。可愛いですね」



 二人の視線が花見客たちの方にわずかにれた刹那せつなだった。



 一陣の風が吹き抜ける。


 大地に降り積もった無数の花びらが、まるで意思を持ったかのごとく舞い上がり、辺り一面を覆い尽くしていく。



 沙織も利孝も、無意識のうちに手で目をおおっている。花見客たちも同様だった。


 誰もが視界を奪われる中、二人は即座に織斗の様子を確認するため、どうにか薄目うすめを開けた。



「いない。いないわ。織斗」



 沙織の叫び声が耳朶じだを打つ。


 二人が目を離したのは、せいぜい二秒程度といったところだ。その短時間で織斗の姿は忽然こつぜんと消えてしまった。



「織斗、織斗」



 風が収まり、空に舞っていた花びらが再び地上に降りてくる。


 利孝が織斗の名前を大声で呼んで、姿を探すも見つけ出すには至らない。



「どうして、どうして、いったい織斗はどこに。目を離したのはほんの一瞬なのに」



 いつもは冷静沈着な沙織も、さすがに我が子を見失って半狂乱状態だ。



「沙織さん、とにかく落ち着いて。私は左回りに探していくから、沙織さんは右回りに。半周したところで合流しよう」



 何人かの花見客が協力しようと声をかけてくれている。


 利孝も信じられない想いでいっぱいだ。



(まさか誘拐ゆうかい、いやそれはあり得ない。数秒足らずの間に織斗を連れ去るなど到底不可能だ。それに向こう側にいた子供の姿も見えなくなっている。いったい何が起こっているというんだ)



 もはや常識外のことが起こったとしか考えらえない。悲痛な表情の沙織に優しく頷いてみせる。



「沙織さん、必ず二人で織斗を見つけよう。じゃあ行くよ」



 こういった時はじっと立ち止まっているよりも、身体を動かしている方が気もまぎれる。


 二人は強い意思をもって同時に歩み出した。

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