第102話:沙織と利孝の記憶

 脳裏に響いてくる橙一朗とういちろうの声に、さすがの沙織さおり利孝としたかも驚きを禁じ得ない。


 二人がそろって口を開こうとしたところに再び橙一朗の声が飛んでくる。



≪言葉は口にせず、頭に想い描いてくだされ。それでわしには通じますでな。護符に触れている限り、お二人のお考えはお互いに筒抜けとなります。問題はなかろうと推察しますがの、もしも儂にだけ伝えたいなら、護符から手を放してくだされ≫



 沙織と利孝の間に隠し事はない。織斗からも両親の性格などについて事前に聞いている。念のための確認にすぎない。



≪わかりました。その必要はありませんが、お気遣いに感謝いたします。改めて、はじめまして。風向織斗かざむかいおりとの父の利孝です≫



 続けて沙織も挨拶を交わす。


 その間に沙希が取り残された感のある優季奈の両親と叔父に状況を説明している。



≪この度は織斗がお世話になりました。話を聞かされた時は頭がおかしくなったのかとも想いましたが、冗談ではない、真剣さだけはしっかりと伝わってきました≫



 沙織の言葉に橙一朗は、遠く離れた本宅にいながらうなづいいている。


 橙一朗の横には当然のごとく佳那葉かなは、そして路川季堯すえたかこと黒猫のネロ助が佳那葉の膝の上にいて、共に沙織と利孝の声を聞いている。



≪織斗君、儂も初めて話をしました。何ともしっかりした青年ですな。ひとえにご両親の育て方がよかったからでしょう。孫娘の婿むこにほしいぐらいですじゃ≫



 佳那葉がすかさず、何を馬鹿なことを言っているの、と突っ込んでいる。もちろん、その声は沙織と利孝には聞こえない。



≪そのようにおっしゃっていただけて光栄です。ところで、孫娘とはそちらにいらっしゃる沙希さきさんのことですね。綾乃あやのさんや汐音しおん君とはまた違ったおもむきのある聡明そうめいなお嬢さんですね≫



≪そうじゃろう≫



 橙一朗が待ってましたとばかりに、沙織の言葉が終わる前にやや食い気味にかぶせてくる。あまりの勢いに二人とも完全に引き気味だ。



≪何しろ、儂にとって沙希は世界で一番の宝物なのじゃよ。おいそれとは嫁に出せぬと想っていたものの、汐音君はさておき、織斗君のような青年が身近にいるとは何とも誤算じゃ≫



 橙一朗、孫娘を愛するあまり、すっかり残念な馬鹿祖父と化している。沙織と利孝が顔を見合わせて苦笑を浮かべている。


 沙希と汐音が幼馴染おさななじみだということは織斗から聞いて知っている。そして、沙希には汐音でも織斗でもない、意中の同級生がいるという事実もだ。


 そのことを橙一朗が知っているかいなかはわからない。迂闊うかつな発言は控えるべきだ。瞬時に判断を下した利孝が言葉を選びつつ話しかける。



≪幼馴染だからといって恋仲になるかは二人の想い次第なのでしょう。先ほども申したとおり、聡明な沙希さんは確固たる意志を持った女性です。きっと素敵な伴侶を自身で選ぶでしょう≫



 何度も佳那葉と路川季堯から突っ込みが入りつつ、橙一朗は利孝の言葉を胸の内で噛み締めている。



≪橙一朗さん、この方の仰るとおりですよ。沙希が誰と結ばれるかは、私たちが決めるのではなく、沙希自らが決めるのです。私たちはやきもきしながら、沙希を信じてその日が訪れるのを待つだけです≫



 佳那葉の言葉はまさに正論だ。橙一朗もその程度のことなど当然わかっている。



≪言われずともじゃ。それでも心配でならぬ。沙希は向こう見ずなところがあるでな。櫻守さくらもりになるなどと言い出したのもまさにじゃよ≫



 外から路川家に入ってきた橙一朗は、元来から路川家にいる佳那葉や季堯とは根本的に考え方が異なる。


 脈々と受け継がれる血の系譜けいふ、それは伝統と言い換えてもいいだろう。橙一朗はそれを壊す側、対する佳那葉や季堯は守る側だ。


 伝統はただ守ればよいというものでもない。時代に即した変革も必要だ。なまじ歴史があるがゆえ、それも容易ではない。



早宮埜さくやも橙一朗も孫娘の話は後日とせよ。今は語るべき大切なことがあるであろう。何よりも向こうにいる者たちに力を示すのであれば、私も出ねばなるまい≫



 佳那葉と橙一朗が同時に息をむ。


 出るということは、すなわち顕現けんげんだ。還魂かんこんの秘術をもって黒猫の体内で生を維持している季堯にとって、人であった時の姿をさらすのは命懸けとも言えよう。



≪論より証拠であろう。わずかな時間であれば顕現もできるであろう≫



 思わず出かけていた、危険では、という言葉を呑み込む。誰よりも路川季堯は理解している。



神月代櫻じんげつだいざくらそばとは異なるものの、かの者たちがいる場所はかすかながら木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の神気しんきが感じられる。佐倉優季奈さくらゆきなのお陰であろう≫



 なるほどとばかりに橙一朗がひざを打っている。



≪道理でお互いの声がよく響くはずじゃ。あの娘、優季奈さんと縁の深い家だったからこそ木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の神気が浸透したわけじゃな≫



 ネロ助が長卓ちょうたくに飛び上がり、橙一朗の護符にゆっくりと近寄っていく。右前脚をわずかに伸ばし、護符に触れる。



≪顕現できるのはせいぜい一分といったところであろう。橙一朗があの話を終えたら出るとしよう≫


 金色の瞳に見つめられた佳那葉と橙一朗が同時に頷いた。




≪いや、申し訳ござらん。沙希の話をしている場合ではありませんでしたな。早速じゃが本題に入りますぞ≫



 これまでのようなおだやかで柔らかな語り口ではなくなっている。そこには確かに張り詰めたような緊張感が漂っている。



≪まずは、お二人に想い出してもらわねばなりませぬな。織斗君を初めて神月代櫻の傍に連れて行った、あの日のことを≫



 沙織と利孝の二人から明らかに動揺の色がうかがえる。遠く離れた場所にいる橙一朗たちにもはっきりと感じ取れるほどだ。



≪どうやら、お二人とも覚えていらっしゃるようじゃな。あれは織斗君が三歳の誕生日を迎える直前じゃったか。お二人は短時間ではあるものの、織斗君の姿を完全に見失いましたな≫



 それは沙織と利孝だけの秘密だ。第三者が知り得る情報では決してない。それなのに沙希の祖父である路川橙一朗は、さも目の前で見たかのごとく語っている。



 沙織も利孝も得体のしれない不気味さを前に、冷や汗が流れるのを止められなかった。

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