第101話:橙一朗の護符

 立ち上がりかけていた沙希さきが再び着座、優季奈ゆきなに目で一人で行ってと告げる。



「副理事長、何でしょうか」



 鞍崎慶憲くらさきよしのりをはじめ、大人たちとは今日が初対面となる。沙希は堂々としたものだ。物怖ものおじ一つ見せず、鞍崎慶憲を真っすぐ見つめて理由を尋ねる。



路川みちかわ君も感づいているだろうが、優季奈はともかく、織斗おりと少年に対しては互いの意見が交わることはないだろう。行きたい。行かせたくない。どちらの言い分もわかるし、妥協点が見出みいだせない」



 沙希は小さくうなづく。こうなることははなから承知していた。


 どちらかが折れるとかの問題ではなくなっている。生きて帰れる保証のない死地に快く送り出す親がどこの世界にいるというのか。沙希が母親の立場だったとしても確実に反対する。


 そういう意味でも、二人の両親は良識人なのだ。ここまで沙希の思考は一瞬だった。



「だからこそ、別次元の説得材料が必要になる。そうおっしゃりたいのですか」



 鞍崎慶憲が意外な目を向けてきている。


 頭の中に置いている沙希の成績を呼び出す。数学と英語だけが図抜けている。ここまでの全ての試験において満点を取っている。それ以外の教科は平均点を上回る程度で、学年成績は中の上、あるいは上の下といったところか。



「頭の回転が速くて何よりだ。私としては、それを成績にも反映してもらいたいところだが、今は置いておこう。そのとおりだ。綿々と続く路川家の歴史、その中にこそ手がかりがあるのではないかと私は想う」



 沙希も全く同感だ。鞍崎慶憲が言ったとおり、初代こと路川季堯すえたかから始まる壮大な路川家の歴史は一つの絵巻物語でもあり、沙希の知らないことばかりだ。


 祖母の佳那葉かなは、祖父の橙一朗とういちろうも知りうる全てを優季奈と織斗に語って聞かせてはいないだろう。いまだに隠された部分にこそ鍵となる材料があるに違いない。



「奇遇です。私もそのように考えていました。ただし、私の口から語れる内容は全て優季奈と風向君に伝えています。これ以上の内容となると」



 沙希はややうつむき加減だ。力になれない自分自身が歯痒はがゆい。祖父からもらった護符を知らず知らずのうちに力強く握り締めている。



≪儂が以前に渡した護符ごふがあるじゃろ。あれを持っていくのじゃ。本当に困ったことになり、儂の助けが必要になったら念じるのじゃぞ≫



 祖父の言葉が想い出される。まさしく、今がその時ではないのか。



「路川さん、今日が初対面でしたね。しかしながら、以前にお逢いしたような気がします。残念ながら、場所までは想い出せないのですが」



 利孝としたかが沙希の顔を見つめながら、落ち着いた口調で語りかけてくる。



「これは面白いな。路川君、利孝君はね、私の大学時代の同期でもあり、いろいろと特技を持っている。その一つに、一度見た顔は絶対に忘れない、というものがある。彼は鞍崎凪柚なゆとして現れた優季奈を一目見て本人だと見破った。それは奥方も同じだったがね」



 初耳だとばかりに、美那子みなこ光彰みつあきが興味深げな視線を向けてきている。利孝はいささか面映おもはゆいのか、抗議の視線を鞍崎慶憲に送っている。



「慶憲君、それは言わぬが花というものでしょう。まあ、言ってしまったものは仕方ありませんが。そういうわけで、路川沙希さん、あなたとは初対面ではありません」



 柔らかながらに確信めいた笑みを向けてくる利孝に沙希は戸惑うしかない。全く記憶にない。思案顔になった沙希が遠くを見つめるように視線を上に傾ける。



(ここ最近のことではなさそうね。それなら私だって覚えているもの。もっと昔、恐らくは記憶にも残らないほどの幼少の頃)



 そこまでさかのぼるとなるとお手上げだ。記憶にないことを想い出すなど不可能だ。無意識のうちに必要以上に護符を握る手に力が入っていたようだ。



≪沙希、随分と困っているようじゃな。やはり予想どおりの展開になっておるか≫



 突然、沙希の脳裏に橙一朗の声が響いてくる。あまりの驚きに、沙希はたまらず声を上げていた。



「お祖父じいちゃん、どうして。私、念じてもいないのに」



 全員の視線が一斉いっせいに沙希に注がれる。その勢いは痛いほどだ。



≪そんな大声を出さずともよいわ。あれほど強く護符を握り続ければ、念じているも当然じゃ。沙希や、いささか冷静さを欠いておるな≫



 常に冷静さを保つのは難しい。沙希は大きくため息をつくと、まずは視線の主たちに向けて口を開く。



「すみません。突然、祖父の声が頭の中に響き渡ったので、驚いて声を上げてしまいました」



 軽く頭を下げて、手に握った護符を皆の前に出す。祖父からもらったものだと簡単に添えた。



「祖父の橙一朗は古神道こしんとう陰陽道おんみょうどうの使い手です。この護符も祖父が作ったもので、強く念じれば祖父と会話ができるようになっています。私にはその仕組みまでは理解できませんが」



 大人五人が五人とも強い関心をもって護符を凝視している。



「陰陽道と言えば賀茂忠行かものただゆき保憲やすのり親子や安倍晴明あべのせいめい蘆屋道満あしやどうまんといった人物を想い浮かべますが、路川さんのお祖父様はいずこかの系譜に連なる陰陽師なのですか」



 四人の名前を列挙して沙織さおりが尋ねかける。


 沙希はもちろんのこと、護符の向こう側で橙一朗も驚きと喜びの入り混じった表情を浮かべている。沙希の場合は安堵感の方が強いかもしれない。与太話よたばなしだと一蹴いっしゅうされてもおかしくないからだ。



「陰陽師について、お詳しいのですか。祖父がどの系譜かは知りませんが、仰っている陰陽師で間違いはありません」



 今度は利孝が尋ねる番だ。



「私は古神道や陰陽師に明るくないのですが、織斗や優季奈さんが言っていた幽世かくりよでしたか。そこに行くためには、古神道や陰陽師の力が必要なのですね」



 沙希は迷わず頷く。



「はい。幽世に下るために必要なのは古神道の力です」



 橙一朗が行使する秘術はまさしく古神道の力から成り立っている。



「生ける玉と死せる玉、二つの玉に生きた人間の命の火を封じるのでしたね。そして、死せる玉を心臓に埋めこむことで疑似的な死者になれると」



 沙希は利孝の、沙織の目を見て、瞬時に悟った。二人ともこの話を全く信じていない。無理もない。信じろという方が間違っている。


 しかも、大人としてこれまでに培ってきた経験や知識が頭から否定してくる。いかに柔軟な思考を有していようとも、あまりに常識からかけ離れすぎている。


 これ以上、沙希にできることはない。だから迷わず助けを求める。



≪ねえ、お祖父ちゃん、何とかできないの。お二人とも明らかに信じていないのがわかるもの。もう私にできることなんて≫



 認めるのは業腹ごうはらで、忸怩じくじたる想いだ。



≪仕方あるまい。大人なら、親なら当然のことじゃろうて。わしが代わろう。どこまで説得できるかはわからぬがな。護符をまずは風向君のご両親に手渡すのじゃ≫



 沙希が問いかける。



≪渡してどうするの。渡すだけでいいの。それでお祖父ちゃんの声が届くの≫



 三つの問いに一つずつ応える。



≪手渡したら、護符の中心に触れてもらうのじゃ。指一本置くだけでよいぞ。置いたら、儂がよいと言うまで決して離さぬように。準備ができたら、儂の方から直接お二人の脳裏に語りかける。儂の声はお二人にしか聞こえぬ。誤って他人に聞かれる心配もない≫



 沙希は頭の中で反芻はんすうし、沙織と利孝に護符をゆっくりと差し出す。そして、祖父の言葉をそのまま伝えた。



 沙織と利孝、二人の反応は一緒だ。面白いおもちゃでも見つけたかのような目になっている。



「祖父なら私の知らないことも知っているはずです。ぜひ話を聞いてください。そのうえで少しでも信じてもらえると嬉しいです。よろしくお願いいたします」



 沙希が頭を下げる。その様を沙織と利孝は感慨深げに見つめている。



「路川さん、頭を上げてください。むしろ、私たちの方が頭を下げるべきでしょう。織斗や優季奈さんのために、そこまでしてくれているのですからね」



 利孝の言葉を受けて、頭を上げた沙希はゆるやかに首を横に振った。



「優季奈も風向君も大切な仲間ですから。綾乃も汐音も入れて、私たち五人は一蓮托生いちれんたくしょうです」



 清々すがすがしく言い切る沙希を、沙織も利孝もまぶしそうに見つめている。



「あまりお待たせしてもいけないわね。いったいどうなるのか、とても楽しみだわ。早速触れてみるわね」



 沙織は手渡された護符中央部に躊躇ためらいなく指を添えた。利孝も沙織を真似て同じ行動を取る。



 指先にかすかな熱を感じる。そう想った直後、二人の脳裏に橙一朗の言葉が鮮明に響き渡った。



≪風向殿、お初にお目にかかります。沙希の祖父で路川橙一朗と申す者です。儂の声が聞こえているなら、心の中で返答していただけまいか≫

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