第099話:出逢うはずのなかった掛け替えのない友人

 土曜日の午前九時、鞍崎慶憲くらさきよしのりの自宅に皆が集っている。


 大人たち五人は、それぞれの想いを緊張の面持ちの中に隠している。


 優季奈ゆきな織斗おりと、それに綾乃あやの沙希さき汐音しおんの想いは既に一つに凝縮している。それを今からぶつけ合おうというのだ。



 綾乃と優季奈がキッチンに立って紅茶の用意をしている。


 前回、優季奈の話を聞くために訪れた時と全く同じ光景だ。人数分の茶葉を正しく計量するかたわらで、綾乃が小声で尋ねかける。



「優季奈、ご両親の説得はどうにかできそうなの」



 綾乃は視線を手元に固定したままだ。計量が終わった茶葉をティーポットに入れて、沸騰させたばかりのお湯を静かに注ぎ入れる。ポットの中で茶葉が躍り、も言われぬかぐわしい香りがき立ってくる。



「いい香り。綾乃ちゃん、今日の茶葉は」



 綾乃にも両親の反応は説明済みだ。優季奈もまた風向家同様、日曜の夜以降はこの話題に一切触れていない。


 尋ねられたところで答えようがない。綾乃も察したのだろう。



「ニルギリよ。ニルギリ丘陵で作られる茶葉を総称してこう呼ぶの。意味は現地の言葉で青い山、だから紅茶のブルーマウンテンとも言われるわ」



 なめらかに口をついて出てくる。全て完璧に頭に入っているのだ。優季奈は感心しきりで綾乃に再び尋ねる。



「ニルギリ、紅茶のブルーマウンテン、じゃあとても高価な茶葉なんだね」



 綾乃は緩やかに首を横に振って答える。



「一概には言えないわね。収穫時期などによってもかなり異なってくるし。一つ言えるのは高品質のわりに安価で入手できるといったところかな」



 話をしているうちに蒸らし時間が過ぎていく。優季奈が準備していた人数分のティーカップに手際よくニルギリを注いでいく。五人分が入ったところで優季奈が織斗と汐音に向かって手を振った。



「ねえ、優季奈、ちょっと聞いていいかな」



 足早でこちらに向かってくる織斗と汐音に目を向けたまま、言葉を発する綾乃の横顔に優季奈が視線を傾ける。



「鞍崎さんって、いったいどういう方なの。これだけの茶葉を贅沢にそろえているし、ティーカップでも、ほら」



 綾乃が紅茶を注いだばかりのティーカップを指差す。


 十客全てが世界的に有名なブランド陶器とうきだ。そう言えば、壁掛け振り子時計もイタリア製アンティークだった。


 どこまで話してよいものなのか、優季奈は躊躇ためらっている。許可なく話していいこととそうでないことがある。



叔父おじさん、二十代の後半かな。空手の世界選手権で五連覇して、いろいろな国の選手と交流があるの。今でも指導者として日本と海外を行ったり来たりしているよ。ティーカップはそういった方々からの贈り物みたい」



 優季奈は調べたらすぐにわかる事実だけを伝える。


 これだけでも十分だろう。紅茶はもちろん、有名な陶器にも明るくない優季奈にしてみれば、さらに突っ込んだ質問をされたところで如何いかんともしがたい。



「鞍崎さんは頻繁に海外に行かれているのね。少なくとも、ここにはマイセン、アウガルテン、ロイヤルコペンハーゲンの陶器があるものね」



 横文字を並べられても優季奈にわかるものは一つもない。前者から順にドイツ、オーストリア、デンマークを代表する陶器だ。



「綾乃ちゃんって陶器にも詳しいの」



 優季奈の問いに綾乃がはにかんだ笑みを浮かべている。同性の優季奈でさえ引き込まれそうなほどだ。たとえるなら、大人の美しさと少女の可愛さを併せ持つと言ったところだろうか。



「綾乃ちゃんの可愛さって反則だよね。それは沙希ちゃんにも言えることだよ。二人の間に挟まれる私の身にもなってほしいよ」



 二人きりだからできる会話だ。緊張した場をなごませる意味もある。



「優季奈だって十分に可愛いじゃない。それに、いくら可愛くても、本当に振り向いてほしい人に振り向いてもらえないなら意味もないわ。優季奈はそうじゃないでしょ」



 痛いところを突かれたか。綾乃のこれ以上ないという正論を前に優季奈は言葉を失っている。むしろ自分から墓穴ぼけつを掘ったようなものだ。



「ごめんね、綾乃ちゃん」



 苦笑を浮かべた綾乃は手早く五客のティーカップをトレーに乗せると、優季奈を手招きする。振り向いて、近寄ってきた優季奈に綾乃は両手でほおに触れる。途端に間の抜けた声があがる。



「優季奈、何度か言ったけど、こういう時に謝らないの。わかったわね」



 両の頬を引っ張られながら優季奈が何度も首を縦に振っている。そんな二人の様子を沙希は遠目で眺めながら、微笑と苦笑を同時に浮かべている。



「俺が先に運んでいくよ」



 何やってんだ、この二人はと想いつつも、汐音はその言葉をみ込み、トレーを両手で持って戻っていく。


 こちらを見ている沙希と視線が交差する。汐音もまた苦笑しながら、一度だけうなづいてみせた。


 仕方がないわね、とばかりに立ち上がった沙希が、汐音と入れ替わる形でキッチンに向かっていく。


 キッチンに背を向けて座っている沙織さおり美那子みなこが何事かと振り返る。二人の表情は好対照だった。



「あらあら、いつの間にあんなに」



 綾乃と優季奈、二人を知る沙織が温かく優しい眼差しで見つめている。沙織は互いの想いを知っているだけに、内心では複雑だ。



(本当に不思議なものね。出逢うはずのなかった二人がこうして時を共有している。しかも、二人ともが織斗を好きになってくれるなんて、母として嬉しい反面、少し理解に苦しむところもあるのよね)



「沙織さん、あの彼女は」


 美那子も光彰みつあきも優季奈から話は聞かされているものの、綾乃とは今日が初対面だ。


 優季奈いわく、才色兼備の姉のような存在にして、掛け替えのない親友とのことだった。


 優季奈の頬を引っ張りながらも、そこには確かに愛情がこもっている。美那子にも感じ取れていた。



鷹科たかしな綾乃さん、こちらの汐音君と並ぶ響凛きょうりん学園高等学校が誇る秀才なの。織斗を入学以来支えてくれているわ。私が心から感謝している二人なの。ね、汐音君」



 大人五人、それぞれの前にティーカップを置き終えた汐音が大袈裟おおげさに手を振っている。



「いえ、俺は感謝されるようなことは何も。織斗は親友ですから」



 照れ隠しもあるのだろう。手にしたトレーを団扇うちわ代わりにしてあおぎ、足早にキッチンに戻っていく。



「綾乃さんに汐音君、そして織斗君。優季奈に友人ができるなんて想像もできませんでした」



 美那子が感慨深げに想いを吐露とろしている。本来なら出逢うはずのなかった、だからこそできるはずのなかった友人たちだ。


 沙織と美那子の会話を利孝としたか、光彰、鞍崎慶憲の男三人が黙したまま聞き入っている。想いは等しく同じだろう。



 汐音と入れ替わりでキッチンに入った沙希は、成り行き任せとばかりにあえて綾乃と優季奈の好きなようにさせている。そこにやってきた汐音が声をかける。



「なあ、沙希、放っておいていいのか。沙希なら止められるだろ」



 沙希は平然と首を横に振って、汐音に視線を向ける。



「いいのよ。じゃれ合いみたいなものだから。気になるなら、汐音が止めに入ったら」



 音がするぐらい激しく首を横に振る。



「沙希、俺を殺すつもりか」



 沙希はわずかに口角こうかくを上げて軽く受け流す。



「それもいいんじゃない。好きな綾乃の手にかかるなら、ね」



 この小悪魔が、という言葉が想わず出かけたものの何とか踏みとどまる。汐音はひと言だけ返した。



「参った」



 こちらはこちらでまさしくじゃれ合いだったりする。沙希と汐音の平常運転であり、汐音が沙希に勝てる道理などない。



「綾乃、優季奈、それぐらいにしておけば。汐音が心配しているわよ」



 あえて余計なひと言をつけ加える沙希だった。



「そうね。そろそろ頃合いね。風向君、紅茶のお運びをお願いね」



 優季奈の頬から両手を離した綾乃が残りのティーカップをトレーに乗せていく。



 織斗もまた綾乃と優季奈の関係をよく知っている。だからこそ何も言わずに終わるのを待っていた。



「ありがとう、鷹科さん。持っていくよ」



 トレーを両手で持った織斗が綾乃を見てから、頬をさすっている優季奈に視線を移す。気づいた優季奈が恥ずかしそうにしている。織斗は苦笑を浮かべて背を向ける。



「行こう、汐音」



 キッチンには綾乃、優季奈、沙希の疑似的な三姉妹が残っている。



「ニルギリはストレートはもちろん、ミルクティーでもレモンティーでも美味しいのよ。優季奈、冷蔵庫にレモンはあるかな」



 早速、優季奈が冷蔵庫を開けて、レモンがあるか確認している。



「私も手伝うわ。砂糖が要るでしょう。特に優季奈と汐音は」



 よくわかっている。綾乃も頷いている。



「綾乃ちゃん、あったよ。私がスライスするよ」



 これで役割分担できた。綾乃はミルク、優季奈はレモン、沙希は砂糖をそれぞれ準備する。三人がキッチンにいても狭さを感じさせない。



「広々として羨ましいわね。鞍崎さんって副理事長なのよね。かなり稼いでいるのかしらね」



 下世話な話だ。沙希ならではの着眼点とでも言うべきか。路川家本家の維持費がいかほどかかっているのか。台所事情を知るだけに気になるのだ。



「沙希ちゃんは気になるの」



 優季奈がレモンをスライスしながら尋ねてくる。



「そうね。これほどの規模の自宅を維持するには相応のお金が必要になるだろうし、今日初めてお邪魔したばかりだから何とも言えないんだけど、奥さんやお子さんはいらっしゃらないのかな。気配が感じられないのよ」



 さすがに沙希は鋭い。綾乃とは視点が違うのだろう。


 優季奈は当然ながらその辺の事情は知っている。沙希の問いとはいえ、答えるつもりはない。



「叔父さんに聞いてみたら」



 わずかに優季奈の口調に変化が見られる。それをわざわざ指摘する沙希ではない。



「機会があればね。それ以上にもっと大切なことがあるわ。優季奈、心の準備はできているわね。私も綾乃もできる限りの助力はするわ。優季奈の未来がかかっているものね」



 淡々と言葉をつむぐ沙希の平常心が優季奈にはうらやましい。



「当然よ。私だって、まだまだこの先も優季奈と一緒の時間を過ごしたいから」



 優季奈は泣きそうになるところを必死にこらえ、これほどまでに自分のことを想ってくれている綾乃と沙希に出逢えたことに心から感謝するのだった。

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