第096話:術の行使までの猶予期間

 沙希さきの疑問に応えるのは橙一朗とういちろうではなく、路川季堯みちかわすえたかより言葉を受けた佳那葉かなはだ。


 季堯の声はもちろん橙一朗にも届いている。



「沙希の不安はよくわかるわ。この秘術は理論的に可能でも、まだ一度も試していない。いきなりの実践で上手くいくのか。ましてや、沙希の大切な友人がその対象だものね」



 沙希が言葉をはさもうとしたところで、佳那葉が唇に手を添えて制する。


 沙希はこらえると、佳那葉に、それから優季奈ゆきな織斗おりと、最後にゆっくりと橙一朗に視線を動かした。



「橙一朗さんの力を疑うものじゃないわ。私が路川家として保証してもいい。橙一朗さんが先々代路川家当主に選ばれたのは、何も陰陽師おんみょうじとしての力が強かったから、ということではないの」



 路川家に陰陽師の血が入ったのは、早宮埜さくやが都から派遣された陰陽師の男と結ばれたからだ。


 そのはるか以前より、路川家は朔玖良さくら神社宮司ぐうじを代々務めてきた。


 初代の季堯を筆頭に、宮司には等しく神々と繋がるための力が備わっていた。いや、逆だろう。その力があったからこそ、当主として路川家をべられたのであり、朔玖良神社宮司になり得たのだ。



「陰陽師ではない。歴史的にもっと古くから日本にあるとしたら、神道しんとう系の力ですか」



 優季奈がふとらした言葉に橙一朗は驚きを隠せない。優季奈の知識量は、沙希や綾乃は以前の会話から、佳那葉も沙希から伝え聞いている。さすがに神道という言葉が出てくるとは想わなかったのだろう。



「お嬢ちゃんは物知りじゃな。わし本来の力は神道の流れをむ。路川家代々がそうじゃったように、儂も古神道こしんとうの術師なのじゃよ」



 優季奈が小さく首をかしげながら問い返す。



「古神道が胎動たいどうし始めたのって、幕末以降じゃなかったですか」



 橙一朗がたまらず相好を崩している。優季奈の疑問が嬉しいのだろう。



「そうじゃな。古神道という言葉には幾つかの意味があり、お嬢ちゃんの言ったこともまた正しい。ただし、儂らにとっての古神道とは、外来宗教の影響を受ける以前から存在するものじゃ。純神道、原始神道とも言われておるの」



 優季奈は律儀りちぎかばんからノートとペンを取り出し、橙一朗の語る内容を逐一記している。



「純神道、原始神道ですか。知りませんでした。勉強になります」



 二人のやり取りを、佳那葉は微笑ほほえましく、織斗をはじめとする四人は半ばあきまなこで見つめている。



「お祖父じいちゃん、古神道の術師って具体的にはどんな力を持っているの。陰陽師とどう違うの」



 問うてきた沙希をはじめ、ここにいる皆に対して橙一朗が簡易な説明を行う。



「陰陽道は中国の春秋戦国時代に生まれた陰陽説と五行説が結びついた思想に基づいておる。そこに日本独自の思想が組み合わさってできたものじゃ。対する古神道は純粋な日本古来の思想に基づく。その対象は森羅万象、神世かみよと神々もその範疇はんちゅうじゃ」



 誰もが等しく首を傾げている。分からなくて当然だろう。時代の変遷へんせんによって全てが変わっていく。



 橙一朗が言うところの、古神道は幕末以降に意味が後付けされたものも多く、後世において仏教、儒教、道教といった日本古来ではない思想の影響も受けている。


 陰陽道も一切合切いっさいがっさいなくなったわけではないものの、明治政府の天社てんしゃ禁止令によって迷信と位置づけられ、廃絶に追い込まれている。



「ここで詳しく語っても時間が勿体もったいないだけじゃ。今から儂が述べる事柄のみ覚えておけばよかろうて。儂らが神々と繋がっていられるのは古神道あってこそであり、神世かみよたる現世うつしよ幽世かくりよ、現世で神々が存在する神代かみよなど、あらゆるものが古神道と密接に結びついておるのじゃよ」



 ここに集った皆は少なからず知識欲や好奇心に飢えていながら、何を優先すべきかで判断を誤る者は一人としていない。沙希は割り切りながらも、一つだけ橙一朗に質問を返す。



「じゃあ、路川家が神月代櫻じんげつだいざくらを守り続けてきたことも古神道と繋がりがあるのね。だって神月代櫻は神の御座みくらであって、そこには木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様が御座おわすのでしょう」



 橙一朗が満足そうにうなづいている。



「沙希の言うとおりじゃ。さすが儂の孫娘じゃな。路川家が何故なにゆえ木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様を殊更ことさらにお守りしてきたかは知らぬがの」



 あえてとぼけたのか、あるいは本当に知らないのか。橙一朗の表情からは全く読み取れない。視線を傾けた先、佳那葉もまた同じだ。


 沙希はわざと大きなため息をつく。



「いいわよ。私が櫻守さくらもりになって調べれば済む話だし。それよりも、幽世に下るための具体的な手順や準備期間を教えてよ。私たちはまだ高校生で学校もあるから」



 橙一朗と佳那葉が顔を見合わせている。二人の意識の向こうには黒猫が、路川季堯がいる。佳那葉の頷きを待って、橙一朗が口を開く。



「準備に最低一週間は必要じゃな。最短なら次の新月じゃが難しかろう。命にも関わる一大事じゃからの。二人だけの一存で決めるわけにもいかぬ。ご両親をはじめ、よくよく話をしてから改めて意思を聞こう。しかるに術の行使は、これより二度目の新月の夜じゃ」



 沙希をはじめ、皆が頭の中でカレンダーを急ぎめくっている。


 次の新月はおよそ二週間後だ。その次の新月はおよそ三十日後となる。都合、四十五日程度ある。


 ちょうどその頃には一学期の期末試験も終わっている。響凛きょうりん学園高等学校は、実質的には夏休みに入っているも同然だ。



「最終決断を下す前に一つだけ言っておこう。幽世かくりよ現世うつしよとでは時の流れが異なっておる。済まぬな。明確な答えをあげられぬ。何しろ、路川家の歴史において初めて挑む術なのじゃ」



 冷静さを保って汐音が口を開く。



「橙一朗さん、幽世での一時間が、現世では数日、数週間というこもある。また、その逆もあり得るということですね。後者だといいんですが、言葉尻からとらえると前者の可能性が高い」


 最後は疑問形で尋ねる。汐音の真剣な表情を前に、橙一朗が頷いてみせる。



「そもそも、幽世では時の概念がないと儂は想っておる。それにじゃ。幽世から戻ったとして、その影響が現世にまで及ぶことだって考えられるのじゃよ」



 橙一朗は、暗に非常に危険度が高いと告げている。だからこそ、よくよく考え、相談したうえで決断しろと言っているのだ。



「他に何か聞きたいことはあるかの」



 織斗がようやく言葉を発する。



「決断を下す以外に、私は何をしておけばいいですか。事前準備が必要なのですよね」



 橙一朗が即座に答え、織斗から優季奈へと視線を動かす。



精進潔斎しょうじんけっさいじゃ。術の行使までの八日間、必ず守るのじゃ。お嬢ちゃんも同様じゃよ」



≪初代様、幽世と現世、二世ふたよの時の流れはさほどに大きく異なっているのでしょうか。初代様ならば、ご存じのはずですね≫



 沙希のひざの上で気持ちよさそうに身体を丸めていた黒猫が立ち上がるなり、いきなり長卓の上に飛び乗る。



「あっ、ネロ助、危ないじゃないの。早く下りてきなさい」



 沙希の言葉は聞こえていても、そのつもりは毛頭ない。


 天井を見上げ、澄んだ鳴き声を放つ。広がった音が天井とぶつかり、反響を起こす。


 この空間一体は橙一朗の反閇へんばいの儀によって既に清められている。鳴き声がもたらす音は路川季堯の言霊ことだまであり、術の発動でもある。


 清浄空間において、黒猫から路川季堯の身体がおぼろとなって浮かび上がる。



早宮埜さくや、橙一朗、久しいな」



 二人がそろって頭を下げる。清浄空間で動いているのは季堯、佳那葉、橙一朗のみだ。沙希たちは、まるで時が止まったかのごとく微動だにしない。



「幽世の摂理は私も詳しくはないが、一度下った私の体感では幽世の一日は、現世の一月ひとつき相当だ。神々の試練がいかなるものかはわからぬ。現世での相応の時を失うであろうな」



 三人の目が優季奈と織斗に注がれる。そこには三者三様の感情がひそんでいる。えていたなら、優季奈も織斗も敏感に察していただろう。



「初代様、術は必ずや成功させてみせますがの。そこから先の責任は一切持てませぬ。本当にこの若者たちを幽世に下らせるおつもりですかの」



 橙一朗は最後まで反対の立場を貫くようだ。



「橙一朗、そなたが反対する気持ちもわかるが、決めるのは我らではない。この二人の意思が強ければ、幽世に下るであろう。我らはその手助けをするのみだ。それに私が二人の先導役を務めるつもりだ」



 佳那葉にも橙一朗にも意外だったようだ。



「初代様が先導役をお務めに。二人にとって何よりも心強いでしょう。初代様は、いえ、何でもございません」



 佳那葉が言いたかったことは季堯に伝わっている。



「案ずるな。必ず戻ってくる。それとも、早宮埜は私にそのまま幽世に残ってほしかったか」



 もちろん本気ではない。冗談で言っている。



「滅相もございません。冗談でもそういったことを口にしないでください」



 珍しく佳那葉が怒りの感情を表に出している。



「済まぬ。そなたの気遣きづかいに感謝する。そろそろ限界だな。私は戻る。くれぐれも、この者たちを頼んだぞ」



 季堯が二人に微笑み、朧の姿が徐々に薄まっていく。やがて何事もなかったかのように消え去った。



「少し疲れたわね。私は先に失礼するわね。今日は泊っていかれるでしょう。ゆっくりなさってね」



 退出しようと立ち上がる佳那葉のもとへ、沙希と綾乃あやの、優季奈がすかさずけ寄って、左右から佳那葉の手を取る。



「まあまあ、綾乃さんに優季奈さんまで。世話をかけるわね。ありがとう」



 綾乃も優季奈も大きく首を横に振って、沙希と共に佳那葉を支えながら部屋から出て行く。


 橙一朗をはじめとする男性陣は、その様子を黙ったまま見守っている。



「いや、ちょっと恥ずかしいよな。男とか女とか関係なくさ、こういう時に咄嗟とっさに行動できる三人に頭が上がらないよ。沙希は分かっていたけど、鷹科さんも佐倉さんもすごいよな」



 橙一朗はひたすらに苦笑している。路川家での苦労がしのばれるというものだ。



「俺も敗北感を味わっているよ。優季奈ちゃんに先を越されて、立つタイミングを失ってしまったなんて恥ずかしい限りだよ」



 男三人が深いため息をついている。



「そうじゃ、青年よ、もう一つだけ忠告じゃ。先ほど精進潔斎と言ったがの、あのお嬢ちゃんに決して触れてはならぬぞ。まあ、触れたくてたまらないじゃろうがな。辛抱せよ」



 豪快に笑い飛ばす橙一朗に、織斗は恨めしそうな目を向け、その横では汐音が必死に笑いをみ殺している。



「さて、儂ら男性陣は女性陣の爪のあかせんじて飲む、じゃないがの、夕飯の支度したくでもしようかの」



 織斗と汐音が不安げに立ち上がった橙一朗を見上げている。



「何じゃ、その顔は。こう見えて、儂は料理が得意なんじゃぞ。二人にもしっかり働いてもらうからの」



 部屋から出て行く橙一朗の後を追って織斗も汐音も慌てて立ち上がる。




 そして、それから一時間後のことだ。



「三人ともそこに正座しなさい」



 台所の様子をのぞき込んだ沙希に、男性陣三人がこっぴどくしかられたのは言うまでもないだろう。

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