第095話:橙一朗の秘術と二つの玉

 呆然ぼうぜんとしたままの優季奈ゆきなに、佳那葉かなはが優しく声をかける。



風向かざむかいさんが一度死んだ事実は、優季奈さんの胸の内にしっかり仕舞っておきなさい。誰にも話してはだめよ。もちろん、風向さんにもね」



 なぜ話してはいけないのか。疑問の表情が顔に出ていたのだろう。



「風向さん自身、この事実を知らないわ。しかも、優季奈さんとは決定的な差異がある」



 どこまでの範囲で優季奈に話すべきか悩ましい。優季奈もまた差異がどこにあるか、気づいたのだろう。



気遣きづっていただいてありがとうございます。佳那葉さんのお身体が大変な状況なのに、私って自分のことばかり」



 佳那葉はわずかに苦笑を浮かべ、優季奈の目をじっと見つめた。その奥にひそんでいる何かを見つけ出すかのようにのぞきこんでいる。



(このは自分ではなく、他人のために心を動かせる。それはとても素晴らしいことよ。でも、少し哀しいわね)



幽世かくりよに下るための方法は、夫が詳しく説明してくれるわ。あまり待たせてもよくないわね」



 小さくうなづいた優季奈が先に立ち上がる。



「佳那葉さん、私の手につかまってください。力はないけど、少しぐらいなら支えられます」



 優季奈の優しさが嬉しい。佳那葉は差し出された手を取った。



◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



「お祖父ちゃん、本当に死ななければならないの。それだと意味がないじゃない。まさかとは想うけど、幽世に下って、新たな命をもらう、なんて馬鹿げた話じゃないでしょうね」



 あまりの理不尽さに沙希さきの怒りが爆発しかけている。自然と口調もきつくなっている。


 横にいる綾乃あやのがうろたえながら、二人のやり取りを見守っている。幼馴染おさななじみ汐音しおんは、沙希の性格をよく知っているだけはある。



「沙希、ちょっと落ち着けよ。それに橙一朗とういちろうさんに怒りをぶつけるのは筋違いだろ。橙一朗さんは事実を語ってくれているだけなんだからさ」



 なおも納得できない沙希が汐音にも食ってかかろうとしたその時、音もなく本襖ほんぶすまが開き、優季奈に手を引かれた佳那葉が入ってくる。



「沙希、汐音君の言うとおりよ。少し冷静になりなさい。詳しい話はこれからなのでしょう」



 佳那葉は柔らかく沙希をたしなめつつ、視線を橙一朗に移す。


 咳払せきばらい一つ、小さく頷く。佳那葉の言葉に対する肯定だ。



「沙希の気持ちもわからんでもないがの。神々の摂理せつりはの、およそ理解に苦しむものじゃ。一つ一つ真に受けておったら、それこそ身が持たんわ」



 橙一朗がぼやいている。


 あっさり無視した沙希が、驚きをもって佳那葉を見つめている。



「お祖母ばあちゃん、寝てなくて大丈夫なの。無理しないでよ」



 優季奈にいざなわれた佳那葉は、分厚ぶあつい座布団に腰を下ろすと、ひと息ついて沙希に応える。



「これが私の櫻守さくらもりとして最後の務めになりそうね。だからこそ、多少無理をしてでもね」



 佳那葉の瞳には強い光が宿っている。沙希は十二分に知っている。こうなった時の佳那葉は誰にも止められない。だからこそ心配だった。



(櫻守の最後の務め、お祖母ちゃん、優季奈と風向君を本気で幽世に下らせるつもりなんだ。それって本当によいことなの。私にはわからない)



 沙希の想いは、葛藤は、佳那葉にしっかり伝わっている。



「沙希は沙希の考えを大切にしなさい。橙一朗さんは反対のようだけど、沙希が櫻守を継ぐならなおさらよ」



 佳那葉の言葉で決心がついたのだろう。沙希が真剣な面持ちで問いかける。



「優季奈、風向君、二人そろって幽世に下る。これって本当によいことなの。絶対になすべきことなの。私にはわからない」



 優季奈と織斗よりも早く、最初に綾乃あやのが口を開く。



「沙希、今さら何を言ってるのよ。沙希だって、優季奈の延命に繋がるならって喜んでいたじゃない。それに沙希自身の好奇心を満たすことだってできるでしょ」



 沙希の視線が綾乃に向けられる。



「綾乃は諸手もろてげて賛成なのね。幽世に下ることで、もしかしたら風向君の命が永遠に失われるかもしれないのよ。それに優季奈の延命の確約だってないの。それなのに、綾乃は」



 腕組みをしたまま思案していた汐音がおもむろに言葉を発する。



「沙希はさ、ここにいるみんなの想いを全てみ取ったうえで疑問を投げかけているんだろ。いつも損な役回りをおのずと引き受ける。沙希らしいよ。俺はそんな沙希が好きだけどさ、本音はどうなんだよ」



 まさしく全員の視線が汐音に突き刺さる。そこには面白いほどにいろいろな感情が詰まっている。


 最も面食らっているのは、言われた本人の沙希だったりする。



「な、な、何よ、汐音、いきなり変なこと言わないでよね。ほら、優季奈なんか完全に誤解しているし、綾乃がにらんでいるわよ。私、知らないからね。ちょっと、お祖父じいちゃん、何でそんなにやにやしているのよ。私と汐音はそんな関係じゃないんだから」



 多方面から感情を向けられることに慣れていない沙希があたふたしている。



「沙希ちゃん、可愛い」



 優季奈は相変わらずだ。


 織斗が不思議そうに沙希を見つめながら、綾乃と汐音に思いをせる。少なからず織斗には綾乃に対する後ろめたさがある。だからと言って、綾乃が汐音とつき合えばよいかというと、そういう問題でもない。



(人の感情って本当に難しいな。俺だって、優季奈ちゃんの全てを知っているなんて言えないし、優季奈ちゃんの気持ちに応えられていないのかもしれない)



 優季奈の横顔に視線を移した織斗は、先ほどの沙希の言葉を反芻はんすうする。



(俺もよいことなのか、なすべきことなのか、なんてわからないよ。でも、それしかないんだったら、やるしかないんだ。やりたいんだ)



「橙一朗さん、そろそろ本題に入りましょうか」



 佳那葉の一言で場の雰囲気が一気に変わる。



「そうじゃな。もう少し沙希の可愛い顔を見ていたかったのじゃが。いつまでも待たせるわけにもいかんの」



 どことなく飄々ひょうひょうとした橙一朗の口調に、これまでのようなおだやかさはない。皆がそれを察している。



「大前提として、二人は既に幽世に下るための資格を有しておる。詳しくは語らぬがの」



 橙一朗の視線が確認のために佳那葉に向けられる。佳那葉は静かに頷くだけだ。


 どこからともなく現れた黒猫が、正座している沙希の膝の上に乗ってくる。



「あら、ネロ助、珍しいわね。いつもはお祖母ちゃんと一緒なのに、今日は私なのね」


 黒猫の背を優しくでる沙希はご機嫌だ。



「えっ、ネロ助って、その黒猫の名前なのよね」



 綾乃がすかさず突っ込んでくる。沙希は平然と受け流して応える。



「そうよ。と言っても、私だけの呼び名だけどね。お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも、守り神様って呼んでいるわ」



 どことなく威厳を感じさせる黒猫には、守り神様の方が相応ふさわしいような気がする。



≪橙一朗、早く進めよ。少々退屈しておる≫



 黒猫の中の路川季堯みちかわすえたかかしてくる。橙一朗は苦笑しつつも、言われるがままにすぐさま口を開く。



「幽世の扉を開くために、生者は必ず死者になる必要がある。汐音君が言ったとおりじゃ。その方法は唯一じゃ」



 橙一朗は上着としてまとっている羽織はおり胸内むなうちから、二つの玉を取り出す。


 直径がおよそ十センチメートル、やや白みがかっているものの透明度の高い玉だ。



「生ける玉、死せる玉じゃ。儂の秘術をもって、二人の命の火をこの二つに封じ、死せる玉を心臓に埋めこむ。それによって疑似的死者となるのじゃ」



 皆が一様に生ける玉と死せる玉を凝視している。


 ここまでの話そのものが突拍子とっぴょうしもないものだった。今の橙一朗の言葉はさらに上回る。



「生ける玉には命のほぼ全てを、死せる玉には命のごく一部のみを封じる。死せる玉に封じられた命の火は、幽世に住まう者には見抜けぬ。見抜けるのは、幽世を統治される神々のみじゃ」



 橙一朗が言葉を発する度に、加速度的に奇想天外な話になっていく。これには沙希でさえついていけない。



「ちょっと、お祖父ちゃん、何を言っているのか全くわからないわ。もっと分かりやすく説明してよ」



 沙希の抗議を軽く受け流して、橙一朗が話をさらに進めていく。



「さて、櫻姫さくらひめの話に戻ろうかの。延命のための方法を知った櫻姫じゃが、結果的に一人で幽世に下ることになった。なぜなら、櫻姫から方法を伝えられた想い人は、あまりの恐ろしさから逃げ出してしまったからじゃ。そもそも、想い人には幽世に下る資格がなかったのじゃ。当然の結果じゃな」



 櫻姫の想い人は、織斗と違って、ける者ではなかった。神月代櫻の結界内に立ち入る資格がなかったのだ。櫻姫を想うあまり、勇気をふるって立ち入ったとしたら、十中八九その場で命を失っていただろう。



「先ほども言ったとおり、これはあくまで伝承じゃ。じゃが、間違いないところじゃろう。儂らの先祖が幽世に下る方法を一度でも成していたら、確実に文書が残されている。それがないのじゃよ」



 沙希が大きく息をみこむ。



「お祖父ちゃん、それじゃあ今回の優季奈と風向君が正真正銘、初めてになるということよね。お祖父ちゃんの力を疑いたくはないけど、本当に、本当に大丈夫なのね」



 沙希の不安な気持ちは痛いほどにわかる。


 これまでの路川家の長い歴史の中で、初めて試す秘術となる。成功する確率はどれほどなのか。失敗したらどうなるのか。あまりに未知すぎる。



≪早宮埜、孫娘を安心させてやるがよい。橙一朗はただの陰陽師ではない。路川家歴代最強の術師の一人だ。私が保証しよう。それに何のために私がいると想っているのだ≫

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