第094話:織斗の秘密と幽世に下れる可能性

 どれほどの時間、気を失っていたのだろう。ようやく意識を取り戻した優季奈ゆきなの目がゆっくりと開く。



(私、布団に寝かされている。またみんなに迷惑をかけてしまったんだ。私、何をやっているんだろ)



 部屋は薄暗く、周囲の状況がよくわからない。そんな中、右手に心地よい温もりを感じている。



「よかったわ。目が覚めたのね。心配したのよ」



 佳那葉かなはの声だ。お互いが布団に横になったまま、手を握ってくれている。



「佳那葉さん、ごめんなさい。私、またご迷惑をかけてしまいました」



 わずかに握った手に力がこもる。



「優季奈さんは何も迷惑をかけていないわよ」



 佳那葉には優季奈の心情が手に取るようにわかる。



(心の優しい娘ね。真名まなはその者を表すとはよく言ったものね。好きな人と一緒にいたい気持ちを押し殺してまで)



 橙一朗とういちろうがどこまで話をしたのかはわからない。


 優季奈の反応から、幽世かくりよに下るために織斗おりとは死ななければならない、というところまでは確実に聞いているだろう。



「夫から話を聞いたわね。幽世の摂理せつりは優季奈さんなら知っているでしょう。風向かざむかいさんには死んでもらう必要があるわ。彼はその条件を受け入れたのね」



 小さくうなづく優季奈を、佳那葉は複雑な気持ちで見つめている。どちらの気持ちを優先するかは優季奈次第であり、他人がとやかく言う問題ではない。



「私、どうしていいのかわらかないんです。奇跡は一度きり、二度も起こらない。ずっとそう想っていました。でも、今は」



 目の前にその機会がぶら下がっている。飛びつきたいのに、躊躇ためらう自分も確かにいる。



早宮埜さくや、この娘に聞かせてやるがよかろう。あの風向織斗の真実をな。そなたにもえたのであろう≫



 いつの間にこの部屋に戻ってきていたのか、路川季堯みちかわすえたかの声が心に響いてくる。


 黒猫の姿の彼は、部屋の角に置かれた自分の寝床ねどこで落ち着いている。その瞳だけが暗い部屋内できらめている。



≪過去に何が起こったのかまではわかりませんが、私にもようやく視えました。初代様が言うところの光明が何を意味するのか。だから、同時に二人もの≫



 織斗に何が起こったのか、知るのは路川季堯のみだ。


 佳那葉になら、正確なところを語ってもいいだろう。


 佳那葉は路川家の櫻守さくらもりとして十分すぎるほどに聡明だ。お祖母ちゃん子の沙希さきがよく似るのも頷ける。語ったうえで、どこまで優季奈に伝えるかは佳那葉に委ねる。



≪そうだ。そもそも、風向織斗はあの場にいてはならぬ者だった。本来、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の恩寵おんちょうけるのは佐倉優季奈のみであった。それが二人同時に存在してしまった。神でさえもあやまちを犯す≫



 佳那葉は何も応えず、季堯の言葉を待っている。



神月代櫻じんげつだいざくらの結界内、佐倉優季奈に恩寵を授けようと気を配られていた木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様は、大樹の反対側、結界内に入ってくる風向織斗に気づくのが遅れた≫



 通常ではあり得ない事態だった。


 神月代櫻の結界内には特別な者しか立ち入れない。


 それは三種の存在、二種は路川家代々の宮司と櫻守だ。もう一種は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめに呼ばれた者であり、この時の対象が優季奈だったのだ。


 佐倉家の三人が、そろって満開の神月代櫻を訪れたのは偶然ではない。全てが木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの意思による必然だった。



≪風向織斗が何故なにゆえに結界内に入っていけたのかはわからぬ。不測の事態に木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様も慌てたようだ。佐倉優季奈に授けるべき恩寵の一部を、風向織斗に注がざるを得なかった≫



 ここでようやく佳那葉が口を開く。



≪だから、風向さんには木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の恩寵のあかしがあるのですね。しかし、神月代櫻の結界内は幽世かくりよの領域です。何の備えもない者が入ったら≫



 皆まで言う必要はない。何が起こったのかは佳那葉も理解できているだろう。季堯はそれを追認するだけだ。



≪まだ三歳にも満たぬ弱々しい命だ。結界内に入るや、失われたであろうことは容易に想像できる。だからこそ、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様は罪滅ぼしも兼ねて恩寵を授け、幽世に下ったばかりの魂を呼び戻したのだ≫



 これで納得できた。


 沙希と一緒に、神月代櫻の下でたたずむ織斗の様子を見守っていた佳那葉は、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの恩寵を享けている事実に気づく一方、何かしらの不可思議な因果を見出していた。


 佳那葉の目がとらえていた、織斗を覆うおぼろが何なのかまではわからなかった。それがようやく理解できた。


 織斗は既にあの時、死をまとっていたのだ。幽世の領域に難なく立ち入り、自由に振る舞える。刹那せつなとはいえ、織斗は幽世に下った者だったからだ。



≪櫻守たる私の責任でもあります。あの満開の下、神月代櫻の結界内にいる優季奈さんにしか私も気づけませんでした。風向さんは、もしかしたら優季奈さん以上に、死がすぐそばにまで迫っていたのかもしれません≫



 恐らくは佳那葉の推察どおりだろう。


 神月代櫻の結界内は幽世の入口でもある。そもそも、結界の役割は忌避感、恐怖心を与えることで生者の侵入をはばむことだ。死の兆候が強い者なら結界がこばむ可能性も低い。



≪想定外の事態により、咄嗟とっさに風向織斗を助けたものの、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様も正しき選択であったかと悩まれたそうだ。早宮埜さくやが言ったとおりだ。本来ならば、風向織斗の寿命は、残り一年足らずだったのだ≫



 佳那葉は心の中で深くため息をついた。よもや幼き二人にこのようなことが起こっていたとは想像を絶する。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様に呼ばれた優季奈さんはともかく、風向さんもまた呼ばれたのでしょうか。それこそ神月代櫻の下での二人の出逢いは必然だったような気がしてなりません≫



 路川季堯も佳那葉同様に深いため息をつき、あくまで私見だと前置きをしたうえで言葉をつむぐ。



≪私はそう想っておる。言葉は不適切だろうが、上位であられるあの女神様であろうとな。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様が言葉をわずかに濁されたことからも明らかであろう≫



 季堯の言葉に頷きつつも、佳那葉な大きな可能性をはっきりと見出している。


 これなら二人して問題なく幽世に下れるのではないか。織斗のこの先の寿命については、誰にも予測できない。



≪初代様、風向さんもまた優季奈さんと同じく一度死んだ身なれば、再び幽世に下れる可能性は≫



 突然、黒猫が鳴き声を発する。


 佳那葉以外に誰もいないと想っていた優季奈は、可愛い悲鳴と共に飛び起きた。



「驚かせてごめんなさいね。大丈夫よ、優季奈さん。我が家の守り神様よ」



 優季奈が胸を押さえながら、鳴き声の方に身体を向けて応える。



「黒猫ちゃん、びっくりさせないで。心臓が止まるかと想ったよ」



 ゆっくりと歩き出した黒猫が優季奈にわずかに視線を走らせ、佳那葉のもとへ近寄っていく。



≪早宮埜、この娘に語るかいなかはそなたに任せる。橙一朗がしびれを切らして待っているだろう。私は先に行って、話をしておく≫



 重そうに見える本襖ほんぶすまを器用に開けて出ていく。



「あっ、黒猫ちゃん、行っちゃいましたね。上手ですね」



 ゆっくりと起き上がった佳那葉が優しげな笑みを浮かべている。



「明るいところで見たらわかるわよ。襖紙ふすまがみのあちらこちらが爪に引っかかれて破れているのよ」



 開いた本襖の隙間から光が差し込んでいるものの、そこまでは確認できなかった。



「優季奈さん、今から貴女にだけ風向さんの秘密を教えるわね。私にも全てはわからないから教えられる範囲でね。それを聞いたうえで、風向さんとどうするのか、じっくり考えてみなさいね」



 優季奈は驚きの眼差しをもって佳那葉を見つめる。



「織斗君の秘密」



 同時に佳那葉の言葉を無意識のうちに反芻はんすうしていた。



「結論から言うわね。優季奈さんと風向さん、二人はそろって幽世に下れるわ。なぜなら、優季奈さんと同じ、風向さんも一度死んでいるからよ」



 優季奈の顔が蒼白そうはくに染まったのは言うまでもないだろう。



「う、嘘、ですよね。そんな、織斗君が、私と同じ、そんな」



 佳那葉が嘘をつく理由などどこにもない。


 それでも俄かには信じられない。まだ気を失わなかっただけましか。



 優季奈は思考がまとまらず、言葉にならない言葉をつぶやくしかできなかった。

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