第六章

第093話:幽世に下るためには

 綾乃あやの汐音しおんの反応は当然として、沙希さき橙一朗とういちろうまでが絶句を余儀なくされている。それだけ佳那葉かなはの語った内容が衝撃的すぎるのだ。



「佳那葉は初代様の名を出されたうえで、二人して幽世かくりよに下れ、そう言ったのじゃな」



 橙一朗の念押しの確認に、優季奈ゆきな織斗おりとうなづいてみせる。



「何ともむごい試練じゃな。お嬢ちゃんはまだしも、生者たる君のような青年を幽世へ下らすとは」



 橙一朗は陰陽師おんみょうじとして強い力を有している。だからこそ、路川みちかわ家先々代当主に見込まれ、佳那葉の見合い相手にと連れて来られたのだ。


 一目見て佳那葉を気に入った橙一朗は、路川家云々うんぬん、陰陽師の力云々など一切関係なく、その場で婿むこ入りを即断した。


 そんな彼の立場からものを言うなら、路川家が代々守り続けているありとあらゆるものが気に入らない。まるで神々の奴隷のごとく奉仕する行為そのものに対して懐疑的かいぎてきであり、否定的でもある。



「沙希もいることじゃ。正直に言おう。女神の試練だか何だか知らぬが、路川家に婿入りした身ながらわしは大いに反対じゃ」



 橙一朗が真っ先に見たのは、織斗と優季奈ではなく、沙希だった。偏愛へんあいするだけあって、沙希が最も大切なのだ。


 その沙希が佳那葉の後を継いで櫻守さくらもりになるとまで言い出している。橙一朗はそれ自体にも反対の立場だ。



 沙希は表情一つ変えず、幼い頃から愛情を注いでくれている橙一朗を見つめる。



「何じゃ、沙希、存外ぞんがい驚いておらぬようじゃな」



 橙一朗には意外だった。沙希なら必ず反論を返すだろうと想っていたからだ。



「薄々そうだと想っていたもの。私自身、路川家の人間として、長らく守り続けてきたある種の伝統が必ずしも悪とは考えていないよ。一方で時代錯誤を感じるところがあるのも確かね。だから、私が櫻守になって変えていこうと想っているわ」



 涙腺るいせんもろくなっているのか、沙希の言葉に橙一朗が目頭めがしらを押さえている。



「お祖母ばあちゃんの苦労をそばで見てきたからこそ、お母さんは絶対に櫻守を継がないと決めている。だったら、私がやるしかないじゃない」



 沙希も母を見て、祖母の佳那葉を見て育ってきた。当然、母同様に櫻守になるつもりなど毛頭なかった。その意識を変えたのは、まぎれもなく優季奈との出逢いだ。



「そのきっかけは風向かざむかい君と優季奈よ。二人に出逢っていなければ、櫻守を継ごうだなんて想わなかったわ。私はね、二人の行く末を見守ってあげたいの」



 沙希の言葉はそこで切れたものの、心の中では続いている。



 お祖父ちゃんが私を見守ってきてくれたのと同じだよ。



「私だけじゃない。綾乃も汐音も、きっと同じ想いのはず」



 沙希の視線が綾乃、汐音に注がれる。



「もちろんよ。この一年で優季奈とお別れだなんて、そんなの悲しすぎるよ。もしも延命が可能だったらどれほど嬉しいか。心から願わずにはいられないわ」



 最初の出逢いこそ最悪だったものの、今や綾乃にとって優季奈は単なる同級生ではない。友人であり、恋敵こいがたきであり、精神年齢的には妹でもある。確実にいとおしい存在になっている。



「綾乃ちゃん、ありがとう」



 織斗は感慨深く二人を見つめている。優季奈と綾乃、一年ったその先でも親友であり続けてほしい。自分勝手で都合のいい考えだとはわかっている。織斗もまた願わずにはいられない。



「俺も一緒だよ。でもさ、幽世ってつまりは黄泉よみ、死後の世界だろ。どうやってそんなところへおもむくというんだ。織斗は生きているんだぞ。可能性なんてあるのか」



 汐音の言い分はもっともだ。


 織斗と優季奈が語った内容を聞く限り、過去にはただ一人だ。櫻姫さくらひめという人物が幽世に下った可能性があるという。成功したかいなか、さらには成功したとして延命に繋がったか否かはわかっていない。



「橙一朗さんはご存じなのですか。織斗と佐倉さんが幽世に下る方法を。櫻姫という方が話を聞いた後、実際に想い人と一緒に下ったのかを」



 汐音が橙一朗に尋ねかける。


 もちろん知っている。佳那葉が、橙一朗の出番だと言ったのは方法を知り、それをる力を持っているからだ。



「儂はあくまで反対じゃが、佳那葉が儂に聞けと言ったのなら、全てを話さねばなるまい」



 しばしの沈黙が流れる。


 絶妙の間で沙希が中座し、台所へ向かう。一緒に綾乃も立ち上がる。



 橙一朗は躊躇ったわけではない。佳那葉の依頼でもあり、話をすること自体に迷いはない。問題は、聞いた後でさえ、二人の意思、とりわけ織斗のそれは絶対に変わらないだろうということだ。


 目を見れば一目瞭然、確固かっこたる意思が秘められている。優季奈には少なからず抵抗があるものの、織斗は微塵みじんの揺るぎもない。優季奈のために何が何でも幽世に下る。その想いが強くにじみ出ている。



(いかに木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の恩寵おんちょうけているとはいえ、生者せいじゃが幽世に下るなどあってはならぬ。しかしながら、決めるのは儂ではなく、この二人じゃ。ただ見守るしかないのか。あるいは)



 広い和室にゆるやかな沈黙が流れる中、橙一朗は精神をぎ澄ませて、人知れずしゅを唱える。



 呪は音にならない言霊ことだまとなって織斗の体内へとみ込んでいく。幽世に下るための最低条件は整っている。そこから先、可能性の有無を見定める。



 呪は末端、すなわち織斗の手足の先から速やかに浸透し、静かに隅々すみずみにまで行き渡る。最後のかなめともいうべき心臓に達すしたところで、橙一朗は叫びそうになってしまった。



(な、なんじゃ、この者は。馬鹿な。こんなことはあり得ぬ。よもや、この者もまた)



 驚愕きょうがくするあまり、精神の集中が乱れて呪が途切れてしまう。途中で呪をめてしまうのは非常に危険だ。特に呪の対象者へ与える影響が大きい。


 橙一朗は慌てて解呪かいじゅのための印を長卓ちょうたくの下で結び、さらに上乗せの呪を唱え直す。そこへ沙希と綾乃が戻ってくる。



「お祖父じいちゃん、ほうじ茶よ。置いておくわね。それで、何をしていたのよ」



 冷汗ひやあせの橙一朗を見下みおろしつつ、沙希はお見通しよとばかりに小さく頷く。あえて呪のことは口に出さない。沙希なりの配慮といったところか。



「いや、何でもない。それよりも沙希、知っておったのか」



 途切れてしまったゆえ、絶対だとは断定できない。橙一朗は半信半疑のまま、沙希に問いかける。沙希は意味がわからないとばかりに戸惑いの表情だ。



まぬ。知らなければそれでいいのじゃよ。沙希の入れてくれた茶は美味うまいの」



 多分に誤魔化しもあったろうだろう。印を解除した橙一朗は湯呑ゆのみのほうじ茶をたしなみ、織斗の様子をうかがいながらひと息ついた。



(どうやら大丈夫のようじゃな。済まぬな、青年)



 心の中で織斗のびながら頭を下げる。



「ちょっと何よ、お祖父ちゃん。気になるじゃない」



 沙希が苦言を呈してくる。それ以上の追及はない。したところで得られるものはないと知っているからだ。



「さすがは儂の可愛い沙希じゃな。よく心得ておる」



 けむに巻かれた感のある沙希はため息とともに橙一朗のすぐ横に腰を下ろした。


 若者たちはそろって紅茶だ。紅茶といえばもちろん綾乃であり、手際よくそれぞれの前にカップを置いていく。



「高級ダージリンよ。佳那葉さんがお好きなんですって」



 さすがにこの場では綾乃も遠慮しているのか、いつものような熱心な紅茶談義は鳴りをひそめている。



「そうじゃ。佳那葉は無類むるいの紅茶好きでの。儂は断然、日本茶派じゃがな」



 話題が切り替わったのは好都合とばかりに橙一朗が割って入り、ようやく元に戻っていく。



「さて、肝心の話を続けようかの。皆も聞きたがっておるようじゃしな」



 湯呑に残ったほうじ茶を一気に飲み干した橙一朗が、ゆっくりと言葉をつむぐ。



「まずは汐音君の問いに応えておこう。儂は幽世に下る方法を知っておる。櫻姫がその後どうなったのかも知っておる。無論、その方法を話したこともなければ、実践したこともない。櫻姫に関しては実際に見たわけではなく、聞いた限りにおいてじゃがな」



 優季奈を除く四人が前のめり状態になっている。ようやくここまで辿たどり着いた。その先の可能性に繋がった。安堵と期待、二つの感情が何よりも大きく窺える。



「ぜひ教えてください。俺は何としてでも幽世に下りたいんです。橙一朗さんが反対されようとも、俺の気持ちは変わりません」



 織斗と橙一朗、二人の視線が交差する。橙一朗には言いたいことが山ほどある。それはひとえに生きてきた歳月から得られる経験差による。織斗のがむしゃらな行動力を若さゆえの無謀と、そんな簡単に片づけていいはずもない。



(青年への説教は後回しじゃな。説教を垂れるなど、儂のがらではないのじゃがな)



 苦笑混じりの橙一朗は織斗のひたむきさに当てられながらも、言葉を続ける。



「いい目じゃ。強い意思を宿しておる。それによき仲間に恵まれてもおる。じゃがな、青年よ、よくよく考えるのじゃ。幽世に下るということが何を意味しているのかを」



 橙一朗の口調は淡々としていて、おだやかでありながら、言葉の節々に厳しさが感じられる。



「もういいの、織斗君。私のためにこれ以上、織斗君に迷惑をかけたくないよ。幽世には私一人で帰るから」



 うつむいたままの優季奈のささやきに誰もが衝撃を受けている。


 涙がほおを伝って一滴、また一滴と長卓に落ちていく。綾乃がハンカチを取り出して、優季奈の目元をぬぐっている。



「優季奈、本気で言ってるの。本心なの。風向君とまた一年、一緒に生きていけるかもしれないのよ。その機会を失ってもいいの」



 優季奈からの言葉はない。なくても十分に気持ちは伝わっている。


 本心であるわけがない。機会を失っていいわけがない。


 ただ天秤に乗せるもう片側があまりに大きすぎて、全く釣り合いが取れないのだ。



「幽世に赴けるのは死者のみ。生者である風向君は決して幽世に下れない。そうよね、お祖父ちゃん」



 沙希の言葉に橙一朗が一度だけ頷く。



「青年は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の恩寵を享ける者じゃ。神月代櫻じんげつだいざくらの周囲に張られた結界内に入ることは許されておる。それだけなのじゃよ。幽世、すなわち神月代櫻の樹内じゅないに入る資格はないのじゃ」



 資格がないことなど最初から分かり切っている。その方法が知りたいのだ。沙希が苛立いらだち紛れに、やや強めの口調で橙一朗を問い詰める。



「そんなことぐらいわかっているわよ。お祖父ちゃんに教えてほしいのは、生者が幽世に下るための方法よ。さっき知っていると言ったばかりじゃない」



 回りくどいやり方だ。橙一朗も十分に自覚している。


 なぜ、このようなことをしているのか。


 織斗と優季奈、二人の覚悟がどこまでなのかを知るためだ。生半可に取り扱っていい事象ではない。橙一朗は織斗の強い意思を認めながら、一方で早急さっきゅうすぎる決断を危惧している。



「路川さん、有り難う。いいんだ。橙一朗さんには橙一朗さんのお考えがあるんだし、俺の気持ちは変わらないけど、もしも優季奈ちゃんに迷いがあるなら、二人でよく話をしないと。俺だけ空回りしても何も始まらないよ」



 沙希の視線がせわしく動き回っている。橙一朗、織斗、優季奈、おまけ程度に綾乃と汐音といったところか。



「結論だけ言うとさ、幽世に下る条件は至って簡単、織斗が死ななければならない。そうじゃないのか」



 橙一朗が苦々にがにがしくうなっている。今から言おうとしていたことを汐音が丸々代弁してしまったのだ。しかも、婉曲えんきょく的な言い回しではなく、あからさまな言葉でだ。



「ああ、汐音、それしかないだろう。生者が下れないなら、死者になるしかないじゃないか」



 織斗の応える声がなぜか遠くから聞こえてくる。


 優季奈の身体がぐらつく。そのまま綾乃にもたれかかるようにして倒れ込む。



 織斗が自分の名前を呼んでいるような気がした。そして、意識が遠のいていった。

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