第088話:月に御座す女神の力

「ごめんなさい。これまでに読んだたくさんの本を想い出しながら考えてみたのですが」



 もとより期待していないだけに、佳那葉かなはも気楽に言葉を発する。



「いいのよ、具体的になんて難しいわよね。想いつかなくても当然」



 優季奈ゆきなの話を途中で奪った佳那葉の言葉を、今度は優季奈がさえぎる。



「あっ、違うんです。他にもいないかなと想ったんです。でも、私の中で月の女神様といえば月読命つくよみのみこと様しか想いつきません」



 一瞬とはいえ、珍しく佳那葉が絶句している。その隙に織斗おりとがすかさず口を挟む。



「ちょっと待って、優季奈ちゃん。確か、月読命つくよみのみこと様って男神おがみじゃなかったかな。少なくとも、日本の古典ではそのように伝えられていると想ったんだけど」



 優季奈のうなづきが肯定を示している。



「うん、そうだね。でもね、織斗君、月はやっぱり女神めがみ様なんだ。これって西洋の考えなのかもしれないけど。月にいるのは男神様じゃなくて女神様なの。私の中ではそう決まっているの」



 正直なところ、月読命つくよみのみことが男神だろうと女神だろうと、織斗には何の影響もない。ただ、これだけは想った。



「そうかもしれないね。女神様と信じているなら、それでいいと想うよ。自分の頭で考えて、納得できたなら、それが答えなんじゃないかな」



 優季奈が小さく首を傾げながら織斗に問うてくる。



「ねえ、織斗君はどっちだと想ってるの」



 一切の迷いなく応える。



「もちろん、優季奈ちゃんと同じだよ」



 二人を見つめながら佳那葉が居住いずまいを正す。



≪初代様、二人には櫻樹おうじゅ伝説の全てを、真実を伝えたく、お許しいただけるでしょうか。何よりも、先ほどの語りの中で初代様に触れてしまいました。申し訳ございません≫



 二人の未来を叶えられるものなら叶えてあげたい。無理とわかっているからこそ、なおさら佳那葉は痛切に感じているのだ。



≪構わぬ。この二人に私の名は伝わっておらぬ。青年は記憶の封が解けねば、決して私の名を知ることはできぬ。娘の方は己の存在意義を正確に把握した時にこそ、であろう≫



 背を大きく伸ばして姿勢を整えた黒猫がひざから勢いよく飛び下りる。佳那葉からおよそ一メートル離れた場所で立つ織斗と優季奈に向かって、ゆっくりと歩き出す。



≪私は娘の髪留かみどめを今一度確認しておく。その間に、そなたは櫻樹伝説を語ってやるがよかろう≫



 わずかに振り向いた黒猫に佳那葉がわずかに頭を下げる。



かしこまりました。初代様の仰せのままに≫



 佳那葉は静かに呼吸を整える。座っていても美しい姿勢を保っていた佳那葉の雰囲気そのものがおごそかになったような気がする。



風向かざむかいさん、保顕やすあきら私術しじゅつは結界内で完璧な効力を発揮、早宮埜さくやの魂は神月代櫻じんげつだいざくらと完全同化したわ。これは間違いのない事実よ」



 佳那葉が迷いなく断言するのだ。疑う余地はないのだろう。


 確実な証拠もある。


 優季奈がこうして生き返っている。その意味においても、保顕と早宮埜には感謝しかない。織斗は心の中で深々と頭を下げ、礼を送った。



「わかりました。確認できてよかったです。ところで、早宮埜さんが同化された後、保顕さんはどうなったのでしょうか」



 悲しげな表情に変わった佳那葉を見れば、およその見当はつく。



「あれから一年と経たずして早宮埜の後を追うようにして亡くなったわ。私術に大半の力を注いだためでしょう。まるで枯れ木のようにせ細り、食事もほとんど口にしなかったそうよ」



 織斗も優季奈も保顕の姿を想像している。何とも痛ましい。反面、うらやむ気持ちがないわけではない。


 現世うつしよではない場所で再び早宮埜と巡り逢えたとしたら。いや、保顕は陰陽師おんみょうじだ。当然のごとく、何かしらの手立てを講じていただろう。


 織斗が佳那葉に尋ねる。



「私術をもって早宮埜を神月代櫻に同化させたのよ。ならば己自身も、と考えるのが自然ね。私術を施す際、保顕は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様にこいねがい、早宮埜と己の魂を結ぶ鍵を頂戴したの」



 苦しい時の神頼みとはよく言ったものだ。


 多種多様、雑多な情報があふれ返った現代社会で、神々を身近に感じて縁を繋ごうなどという奇特な人間はほとんどいないだろう。それほどに希薄な社会とも言えよう。


 織斗にしても、優季奈にしても同じだ。だからこそ、神々と話をするなどといった突拍子もない話が想像できないし、遠い世界の夢物語のように聞こえてしまう。



「そうね。風向さんや優季奈さんの感覚が普通でしょう。早宮埜や保顕の時代、もっと言うなら初代様が生きた時代は、人々の生活と神々が密接に繋がっていた。それこそ隣人のごとくよ」



 正直なところ、織斗も優季奈も感覚的に理解し難い部分が多い。二人の表情から佳那葉は察したのだろう。



「時代と共に変わるわ。残念ながらね。先ほど、優季奈さんの口から月読命つくよみのみこと様のお名前が出たのには驚いたわ。男神か女神か、どちらでよいと想うのよ。私も月読命様は女神だと信じているわ」



 ここで優季奈が口を挟む。



「佳那葉さん、私が読んだ本に書かれていたのですが、月読命様は死と再生を象徴する神様でもあったとか。もしかしたら」



 そこで言いよどむ。佳那葉が話を進めてくれている。勝手な推論で邪魔をしない方がいいのかもしれない。



「構わないのよ。ぜひ優季奈さんの考えを聞かせてちょうだい」



 優しげな笑みを見せる佳那葉を前にすると、不思議と心がおだやかになっていく。優季奈は小さく頷くと、織斗に視線を動かす。佳那葉に負けず劣らずの優しさで包んでくれている織斗に安心したのか、優季奈はゆっくりと口を開いた。



「命の生き返りには幾つかの前提条件があると想うんです。その中で一番大切なのが月です。織斗君もそうだと考えているんだよね」



 一人だと心許こころもとない優季奈も、すぐ隣に織斗がいてくれることで確認し合いながら安心して話を進められる。


「そうだね。月が最も重要な鍵になっていると想う。優季奈ちゃんは、生き返った話をしてくれた時、こう言ったね。『満月が雲一つない空に輝いていて、とてもきれいな夜だった。なぜか私は月の光を浴びながら、全身が濡れた状態で目覚めていたの』って」



 全身が濡れた状態、それは月のしずくの影響だと既にわかっている。



「優季奈ちゃんを照らす満ち月の光は身体を輝かせていたんじゃないか。それは生まれたばかりの命のきらめきじゃないのか。『寒さを感じることさえなかった』とも優季奈ちゃんは言ったね。それこそが月読命つくよみのみこと様の祝福であり、月読命様の御力を受けた神月代櫻が、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様が命を産み落とす」



 優季奈が目を輝かせながら大きく頷いている。



「うん、うん、織斗君、そうだよ。私も同じことを考えていたの。先に織斗君に言われちゃった」



 ひと言、ごめんと申し訳なさそうに織斗が謝っている。



≪見事なものだ。よもや、ここまで考えているとはな≫



 黒猫はいったん歩みを止めて、佳那葉に視線を戻す。金色の両の瞳には賞賛の色が浮かんでいる。



≪本当に先ほどから二人には驚かされることばかりです。この二人に将来があるなら、ぜひとも見届けたい。そんな気持ちにさせてくれますね≫



 黒猫が視線を戻し、ゆっくりと二人に近寄っていく。


 織斗に関しては先ほどの一件で確認は済んでいる。残るは優季奈だ。見極めるべきは唯一であり、そのためには話をしなければならない。無論、その相手は優季奈ではない。



「あっ、織斗君、見て、見て」



 嬉しそうな優季奈の声に、つい織斗もほおゆるんでしまう。優季奈の視線に促されて下を見ると、黒猫が優季奈の左足首付近に身体をりつけながらゆっくりと周回している。



「黒猫ちゃん、可愛い。私もおうちで飼いたかったなあ。織斗君と一緒だったら」



 その先は決して口にしない。果てない願望であっても、決して叶わないと知っているからだ。



「ごめんね」



 この先、どんなことがあろうとも優季奈にはずっと笑っていてほしい。哀しみをいだかないでほしい。織斗の切なる願いだ。感情は優季奈に伝わっていく。



「可愛い黒猫さんだね。優季奈ちゃんが気に入ったみたいだよ」



 織斗は無理矢理にでも笑って、愛しい優季奈を見つめる。


 織斗も優季奈と全く同じ気持ちだ。好きな人とずっと一緒に過ごせたらどれだけ幸せだろうか。優季奈が好きなら、猫を飼うのもいいだろう。ついつい心の中で想い描いてしまう。



「優季奈さんも風向さんも素晴らしいわ。まさしく、月に御座おわす神様は月読命つくよみのみこと様よ。とある時季、そして天に輝く満ち月となった時、偉大なる御力が大地に降り注ぐの」

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