第086話:桜花豊穣の兆し
そこから先、誰とすれ違ったか、そもそもどうやって自宅まで帰ったかなど、全く覚えていない。
一方で、遠目ながらも
「
織斗も優季奈も時系列がわからないままに佳那葉の話を聞いている。合間、合間できっと重要な出来事が幾つか起こっていたはずだ。それらを含めて、頭の中ですっきりと整理しておきたかった。
「そうね。おさらいを兼ねて一度整理しておきましょうか」
佳那葉が口頭で教えてくれたのは次のとおりだ。
およそ千四百年前/神月代櫻が現在の位置に植えられる。誰が植えたのか、その目的などもわからない。
およそ千三百年前/樹齢は百から百五十年くらい。死者復活のための儀式が執り行われていた(路川家に残る古文書より)。
およそ千二百年前/樹齢は二百から二百五十年くらい。路川家がこの地を治めるようになる。時を同じくして、路川家当主が
およそ千百年前/樹齢は三百から三百五十年くらい。都から遣わされた
およそ七百年前/樹齢は七百から七百五十年くらい。
なお、朔玖良神社が創建された時代はわからない。路川家が統治する以前からあったことだけは間違いなく、
佳那葉の説明が続く。織斗の二つ目の問いに対するものだ。
「木花之佐久夜毘売様の依代になるまでは、
佳那葉の柔らかな視線が優季奈と織斗、二人に等しく注がれる。その目が雄弁に語っている。釣られたのか、二人は互いに顔を見合わせ、笑みを浮かべた。
時系列はこれで知れた。織斗の中で疑問がないわけではない。
既に朔玖良神社はこの地に存在していた。祀っていた主祭神を他の格式の高い神社へ遷座したことから、それほど大規模なものではなかったのだろう。
それならば、なぜ主祭神遷座時、
どうして路川家は木花之佐久夜毘売のみを別扱いとし、神月代櫻を依代に遷座したのか。つけ加えるなら、それほどまでに木花之佐久夜毘売が重要な神であるなら、そもそもなぜ社ではなく祠に祀っていたのか。
主祭神との関係で祠に祀る必要があったか否かは、織斗の手持ちの知識では判断できない。織斗はこれらの疑問を口にした。
「風向さんはよく学び、しっかりとした考えを持っているわね。だからこそ、あなたの疑問はもっともね」
佳那葉が感心しきりの表情を浮かべて織斗と優季奈を見つめている。
「いえ、沙希さんの話を聞いてから慌てて調べただけです。
≪そこに触れてきたか。この青年、想った以上にできるな。そなたの孫娘と一緒になれば面白かっただろうにな≫
黒猫の言葉に佳那葉は二人に気づかれないように苦笑を見せ、言葉を返す。
≪世の中、想いどおりにいかないからこそ、夢や希望が生まれるのでしょう。この二人もまた≫
黒猫がもの悲しさ漂う鳴き声をあげる。
≪わかっておるさ。誰よりもな≫
「詳しく述べる時間がないから今は省略するわね。主祭神様が朔玖良神社にとって最も大切なら、路川家にとっては木花之佐久夜毘売様なの。何よりも、路川家は木花之佐久夜毘売様と共に生きてきたと言っても過言ではないわ」
路川家も当初は朔玖良神社の要請に応じて宮司を務めていただけにすぎなかった。それ
考えが変わったきっかけは
「早宮埜が結ばれたことで大きく変わったの。女と男が結ばれたら、
佳那葉の言葉の途中で優季奈の息を
「早宮埜は産み落とす娘の命と引き換えだとわかっていたのでしょう。愛する男に言葉を託したの。『私の亡骸を必ず神月代櫻の根元に埋めてください。私は神月代櫻と一つになって死者の魂を
男は陰陽師として早宮埜のために最後の力を振るう。
陰陽師に力を貸したのは、誰あろう路川家初代宮司にして陰陽師とは異なる、
この時、季堯は
「
保顕と呼ばれた男は一切の
「
皆まで聞かずとも季堯には十分理解できている。
「そこまでの覚悟であるか。よかろう。保顕、そなたが死ぬその時まで見届けようではないか。私もそろそろこの身体とは別れねばなるまい。どうするかも決めておるでな」
保顕は早宮埜の亡骸を何度も強く抱き締め、神月代櫻の根元に埋めた後、周囲に強力な結界を張り巡らせた。路川家の中でも限られた力を有する者だけが結界内部に入れる特殊結界だ。それが現存している神月代櫻の結界なのだ。
季堯が結界内を
「季堯様、ありがとうございます。私が最後に行う秘術です。どうか最後まで見届けてください」
保顕が
「
残された最後の力を振り絞り、呪を唇に乗せて早宮埜のもとへ届けた。
術が成功していたら、まもなくある事象が見られるだろう。一緒に見届けてほしい人物は結界外に立っている。
「季堯様」
名を呼んで振り返った時、既に季堯の姿は失せていた。
代わりに、一匹の黒猫が四本足を大地に悠然と下ろし、金色の瞳を輝かせている。
「ああ、季堯様、
黒猫の体内に還魂した季堯がゆっくりと結界内に入っていく。朝露で
神月代櫻の開花にはまだ早い。
保顕にも季堯にもわかっていた。間もなくその瞬間が訪れることを。
天頂には美しい満ち月が輝いている。季堯は黒猫の口を借りて、神月代櫻を
まさしく、それが合図だった。
二人に向かって伸びている太くたくましい枝に月の
≪これぞ
五枚花弁の花は、白に淡い
保顕も季堯もただ黙したまま、いつまでも早宮埜の化身でもある五枚花弁の花を見上げ続けていた。
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