第084話:櫻樹伝説再び

 優季奈ゆきなに大きな変化は見られない。佳那葉かなはの言葉にもあったとおり、生き返った際に神月代櫻じんげつだいざくらから聞かされている。


 佳那葉の説明はその重複でしかない。ゆえに覚悟はできていたのだろう。もちろん感情が揺さ振られないわけはない。



「佳那葉さん、私」



 後方から大きな音が響いてきて、優季奈の言葉が途切れる。何事かと振り返った優季奈の顔が一瞬にして蒼白そうはくに染まっていく。



「お、織斗おりと君。そんな、いやだよ、織斗君」



 優季奈はブラウスのボタンが開けっ放しになっていることさえ気づかず、無我夢中で仰向あおむけに倒れこんだ織斗のもとへけ出していた。



「織斗君、織斗君、何か言って」



 織斗のそばにしゃがみこんで、涙混じりの声で必死に呼びかける。


 織斗の意識は覚醒していない。それでも遠くから自分を呼ぶ声がかすかに聞こえてくるのがわかった。声に含まれている最も大きな感情は不安、いや悲嘆ひたんだろうか。



「織斗君、お願い、返事をして。だめだよ。織斗君を失ったら、私、生き返った意味がないよ」



 この状態の織斗に触れてもよいのだろうか。かたわらの黒猫は全く動じず、静観を決めこんでいる。頼れるのは佳那葉だけだ。



「佳那葉さん、織斗君が」



 今にも泣き出しそうな優季奈がすがるような目を向ける。



「優季奈さん、風向かざむかいさんは大丈夫よ。少し当てられただけ。すぐに目覚めるわ」


 そう言われたところで安心などできるわけもない。優季奈は織斗に触れようと手を伸ばしては引っこめ、を繰り返しつつ、名を呼び続ける。


 何度目かのことだ。いきなり織斗の手が動き、優季奈の手をとらえる。



「優季奈ちゃん」



 それだけで精一杯だ。未だに息苦しさが残っている。意識も完全には覚醒していない。視界もぼやけている。心臓を刺すような胸の痛みだけがなぜか嘘のように消えていた。



「ごめんね、優季奈ちゃん」



 優季奈は咄嗟とっさに手を握られて驚きはしたものの、それ以上に織斗が意識を取り戻した喜びが断然まさった。覆い被さるようにして、しがみつく。



「織斗君の馬鹿、馬鹿、死んじゃったんじゃないかと想ったんだよ。すごく心配したんだから」



 緊張の糸が切れてしまったのだろう。優季奈が大泣きしている。



「心配かけたね。本当にごめんね。もう大丈夫だから」



 右手で優季奈の左手を握ったまま、左手を何とか持ち上げて頭を優しくでる。優季奈は肩を震わせて織斗から決して離れようとはしなかった。言葉は要らないだろう。織斗は優季奈の震えが収まるまで決して手を離さず、頭を撫で続ける。


 ようやく顔を上げた優季奈の瞳には涙がたままっている。織斗は左手の指を添えて、そっとぬぐう。水滴が指を伝って流れ落ちていく。



≪初代様、この二人は心の底からお互いを想い合っています。これなら、もしかしたら≫



 即答で返ってくる。



≪どうであろうな。我が娘は無論のこと、この青年もえにしを持つ。想い合う二人がける者である以上、資格だけは有する。だが≫



 果たして、その先を告げるべきか。路川季堯みちかわすえたかでさえ迷っている。


 櫻守さくらもりとして佳那葉は何代目になるだろうか。これまでの櫻守にさえ語ってこなかった。語る必要性もなかったからだ。



 悠久の時の流れにおいて、現世に生き返った娘の中で、神月代櫻から直接言葉をたまわった者など誰一人としていない。


 娘たちは生き返った理由も、限りあるわずか一年という寿命も知らないままに想い人と過ごし、そして消え去っていく。しかも、そのうちのいったい何人が一年という寿命を全うできただろうか。


 路川季堯が視てきた限り、生き返った娘たちのおよそ二割程度でしかない。それほどまでに少ないのだ。その最大の理由は、生き返った者ではなく、生者にる。


 最初に来る想いは歓喜以上に、まぎれもなく恐怖からの忌避きひだろう。死者蘇生はいつの世でも強く望まれながら、誰しもが決してかなわないと知っている。


 だからこそ猜疑心さいぎしんを生み、より逆の方向へと思考を促してしまう。世俗せぞくとはそういうものだ。ある意味、無情の世界でもある。



≪これまでの歴史の中で、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の恩寵おんちょうによって生き返った娘たちは、何も知らされないまま束の間の生を過ごし、この地に足を運ぶことさえありませんでした。この二人は違います≫



 佳那葉の言葉を受けつつ、路川季堯は思案する。まさしく佐倉さくら優季奈は例外中の例外であり、要因が何たるかも視えている。



≪我が娘が髪にしている髪留めだ。恐ろしいばかりの霊的な力がめられておる。そなたの孫娘が見逃し、そなたも容認した。結果として、この二人は今ここに立っておる。因果は巡るのであろうか≫



 路川季堯が何を指して因果の話をしているのか、佳那葉には当然理解できている。それこそが櫻樹おうじゅ伝説であり、櫻守のみが閲覧できる秘伝書に記された櫻姫さくらひめにまつわる生き返りのくだりなのだ。



≪初代様、この娘の髪留めに木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の霊験灼然れいげんいやちこなる御力が籠められているなら、櫻樹伝説を語り聞かせたうえで二人の覚悟を確かめられてはいかがでしょうか≫



 織斗のかたわらで微動だにしなかった黒猫が大きく伸び上がる。余韻を残すひと鳴きを空に放ち、佳那葉のもとへゆっくりと向かっていく。


 黒猫の鳴き声は織斗に意識の覚醒をもたらした。ぼやけていた視界も同様に戻ってくる。


 優季奈もようやく落ち着いたのだろう。上目遣いで織斗を見つめてくる。泣き腫らした瞳は赤に染まっている。



「優季奈ちゃん、可愛いね」



 こういう場では相応ふさわしくないのかもしれない。織斗にしてみれば、言える時にこそ言っておかなければならない、という想いが誰よりも強い。


 病院で別れた時のようなことは絶対にしたくない。しかも、優季奈の寿命はもう一年を切ってしまっている。


 あと何度想いを伝えられるのだろうか。それを考えると、相応しくないとわかっていても自然と口をついて出てくる。昔からの癖が初めて良い結果をもたらしてくれていた。


 優季奈は優季奈で喜んでいいのか、それとも怒っていいのかわからないまま、表情だけが面白いようにころころと変わっていく。



「優季奈ちゃん、どうかした」



 どうもこうも全部織斗君のせいだよ、と言わんばかりにほおを膨らませ、優季奈はしがみついていた織斗から身体を離すと、上からにらみつける。



「怒った顔も」



 そこで織斗の言葉がはたと止まる。依然として仰向けになっている織斗から丸見えなのだ。織斗は咄嗟に目をつむった。



「織斗君、えっ、どうしよう、どうしよう。佳那葉さん」


 いきなり織斗の目が閉じてしまったことで、優季奈は一種の恐慌状態、再び織斗に問題が生じたのではないかと想像してしまったのだ。慌てて振り向いた先、佳那葉は笑みを絶やさず、問題はないとばかりに首を横に振っている。



「優季奈ちゃん、落ち着いて。俺は大丈夫だから」



 織斗は目を閉じたまま優季奈を安心させようとして声をかける。



「じゃ、じゃあ、どうして」



 またもや涙目になっている優季奈は自分自身に原因があるとはつゆとも想っていない。



「そ、その、あれだよ。ほら、優季奈ちゃん、ボタンが」



 直後、優季奈の可愛い悲鳴がとどろいたのは言うまでもないだろう。黒猫と佳那葉が顔を見合わせ、やれやれだなと苦笑を浮かべている姿が何よりも印象的だった。




「二人とも落ち着いたところで、ようやくここからが本番ね。沙希さきからもぜひにと言われているし、語って聞かせましょう。代々の櫻守だけが閲覧を許された秘伝書にしるされている櫻樹伝説をね」



 座ったままの佳那葉に対して、優季奈と織斗は立ったまま、手を握り合っている。黒猫は再び佳那葉のひざの上で丸まっている。



「櫻樹とはもちろん神月代櫻のことよ。神月代櫻のいわれは沙希から聞いているわね。復習になるけど改めて、ここら一帯は埋葬の地、多くの死者が眠る地だったの。神月代櫻は野辺送のべおくりの路の象徴であり、死者たちの鎮魂樹ちんこんじゅとして植えられた。死者だけではないわ。生者も含めたあらゆる想いを受け止めて成長している大樹なの」



 織斗の脳裏におぼろに映像が浮かんでくる。ほとんどが灰色に包まれている中、一際ひときわ美しい一つの色彩だけがある姿をまといつつあった。


 空いた方の手で急に頭を押さえた織斗を心配したのだろう。



「織斗君、大丈夫なの。やっぱり倒れた影響が」



 織斗は首を横に振って否定しつつ、言葉で返す。



「違うんだ、優季奈ちゃん。急に脳裏に映像が浮かんできたんだ。でも、よくわからない。記憶にもない映像だし」



 織斗の言葉をとらえて、佳那葉が路川季堯すえたかに尋ねかける。



≪初代様がお見せになったものの断片でしょうか≫


≪そうであろうな。本来ならば、決して想い出せるはずもないのだが、よほど感受性が強いのであろう。この青年もまた≫



 黒猫の両の瞳が陽光を受けて、あやしく金色こんじききらめいている。その瞳は確実に織斗の心の奥をかし視ていた。

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