第083話:織斗と優季奈、二人の心臓
ようやく突風が収まりつつある。
眼前の光景を前にして言葉を失う。先ほどまでとは一転して、既に周囲は暗くなっている。夢でも見ているのだろうか。
≪そうだな。夢にも近しいだろう。そなたが生きている世ではないのだからな≫
耳元で聞こえてきたようでそうではない。直接、頭の中に男の声が響いてきたと言った方が正しい。
「あなたは誰なのですか」
全く動けなくなっている織斗が辛うじて口だけを開く。言葉にできたのはそれだけだ。
声の出所は間違いなく、右肩に器用に乗っている黒猫からだ。本当に生き物なのだろうか。
織斗の心情を察したのか、黒猫がわざとらしく鳴き声をあげた。
≪そなたは
織斗が慌てて初対面の
「こちらこそ、はじめまして。挨拶が遅くなって大変失礼しました。まさか」
黒猫そのものの表情はわからない。にもかかわらず、わずかに笑みを浮かべた顔が心の中に伝わってくる。
≪猫が人の言葉を話すとは想わなかったか。話すといっても、この身体だ。そなたの聴覚に届く言葉ではない。それ
理解できたようで理解できない。優季奈のことがあるとはいえ、まだまだ世間一般の常識に
そのせいか、心臓が激しく
それがここにきての劇的な環境変化だ。肉体以上に精神に負担がかかっている。適応できていない織斗の身体が前後にふらつく。
≪心の臓に病を抱えているのであったな。それもまた
意味不明の言葉が次々と流れこんでくる。
突然、黒猫が後足だけで立ち上がると、
≪そなたが我が娘に言ったとおりにせよ。さすれば心の臓も落ち着くというもの≫
さざ波はゆっくりと心臓に
≪済まぬ。いささか唐突すぎたかもしれぬな≫
黒猫が
「いえ、もう大丈夫です。それよりも、俺をこんなところに連れてきて、いったいどうしようというのです」
黒猫の真意がわからない織斗の口調には多少の苛立ちが混ざっている。
≪そう苛つくでない。そなたにとって、最も重要になるであろうものを今から
次の瞬間だ。織斗の脳裏に恐ろしいほどの膨大な映像が
「ふむ、気を失ったか。これほど優秀な若者でも脳が処理できなんだか。仕方あるまいな。数時間におよぶ事象をわずか数秒足らずに凝縮したのだ」
倒れ伏した織斗の
「我が名は
路川季堯の肉体は失せて
路川季堯が右手のみで印を結び、
「我が呪をもって風向織斗たる者の心の臓を
織斗の心臓に光った右手を添え、さらに呪をひと言だけ付与した。呪を伴った輝きが心臓の中へと静かに溶けこんでいく。
「我が娘を心から深く想ってくれたせめてもの礼だ。ただし、そなたが我が娘を忘れたその時、呪もまた消え去る」
男の姿が揺らいでいく。
織斗は意識を失った中でも、男の名前、そして黒猫の
(路川季堯様、ありがとうございます。何よりも俺にあれを見せてくれて)
◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇
佳那葉は黙したまま、準備が整うまで待つのみだ。既に証が存在すること自体は認識できている。真に確かめるべきは証の状態だ。
それがどのように変質しているかによって事情が異なってくる。優季奈が生き返ってからおよそ二ヶ月、およその想像はできている。
「あ、あの、これで、いいですか」
恥ずかしそうに胸前を隠しながら問うてくる優季奈に佳那葉が微笑みかける。
「ええ、いいですよ。それから、安心して。彼は
佳那葉には織斗がこちらに向かない、いや、絶対に向けないとわかっている。そのために
「早速、確かめましょう。優季奈さん、女同士よ。恥ずかしがらずに手を下げて」
笑みを絶やさない佳那葉の言葉にようやく安心できたか、優季奈が胸元を覆っていた両手をゆっくりと下げる。
「あったわね」
優季奈は
佳那葉は左側に置いている美しい風呂敷を広げ、あるものを取り出すと、両手に持って優季奈の心臓部分に向けた。
「路川家の
直径がおよそ二十センチメートル、見事な
優季奈は鏡に映った自身の心臓の真上、そこに浮き出ている紋様を驚きの
「花びらが。まさか、これが佳那葉さんの言った証なんですか」
佳那葉がゆっくりと頷く。
「そうですよ。花びらの形と色をよく覚えておきなさいね。これこそが優季奈さんに見える神月代櫻の娘の証なの。そして、優季奈さんには視えない証がもう一つ。それを今から見せてあげるわ」
円鏡を
「触れるわね」
佳那葉は右手の人差し指と中指を重ねて剣と化し、優季奈の心臓の真上、紋様に
「
佳那葉が唱えた
(予想どおりだったわね。やはり、
佳那葉は再び円鏡を手に取り、優季奈の心臓が見える位置まで持ち上げる。
「えっ、これは。花びらが、一枚だけほとんど欠けています」
うまく言葉にできずにもどかしい。
円鏡を通じて最初に見た証、神月代櫻の花びらは五枚花弁でその全てが淡い
今、佳那葉が見せてくれている花びらは五枚花弁でありながら、一枚だけが
残る四枚のうち、三枚は未だに美しい状態を保っている。残る一枚は先端部分が変色を始めようとしている。その兆候がはっきりと感じられた。
「優季奈さん、気を確かに持って聞いてくださいね。神月代櫻から生まれた娘の寿命は
「それは
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