第083話:織斗と優季奈、二人の心臓

 ようやく突風が収まりつつある。


 織斗おりとは右手に感じる風の弱さから問題ないと判断、ゆっくりと下ろしながら閉じていた目を開く。



 眼前の光景を前にして言葉を失う。先ほどまでとは一転して、既に周囲は暗くなっている。夢でも見ているのだろうか。



≪そうだな。夢にも近しいだろう。そなたが生きている世ではないのだからな≫



 耳元で聞こえてきたようでそうではない。直接、頭の中に男の声が響いてきたと言った方が正しい。



「あなたは誰なのですか」



 全く動けなくなっている織斗が辛うじて口だけを開く。言葉にできたのはそれだけだ。


 声の出所は間違いなく、右肩に器用に乗っている黒猫からだ。本当に生き物なのだろうか。佳那葉かなはのもとまで案内してくれた時は単なる飼い猫かと想っていた。今やその根底が覆されそうな気がしてならない。


 織斗の心情を察したのか、黒猫がわざとらしく鳴き声をあげた。



≪そなたは風向かざむかい織斗だったな。斯様かようにして言葉を交わすのは初めてになる。まずは、はじめまして、と言っておこう≫



 織斗が慌てて初対面の挨拶あいさつを返す。挨拶を忘れるなど迂闊うかつすぎる。両親にばれたら、どやしつけられそうだ。まさか人の言葉を解し、しかも意思を向けてくる猫がいるなど予想外にも程がある。



「こちらこそ、はじめまして。挨拶が遅くなって大変失礼しました。まさか」



 黒猫そのものの表情はわからない。にもかかわらず、わずかに笑みを浮かべた顔が心の中に伝わってくる。



≪猫が人の言葉を話すとは想わなかったか。話すといっても、この身体だ。そなたの聴覚に届く言葉ではない。それゆえに心に言霊ことだまを刻んで会話をしている≫



 理解できたようで理解できない。優季奈のことがあるとはいえ、まだまだ世間一般の常識にとらわれている織斗にとって、不可思議な現象を眼前に突きつけられると平静ではいられない。


 そのせいか、心臓が激しく拍動はくどうしている。よくない兆候だ。空手を続けてきたお陰で、心臓に多少の負担をかけようとも、これまでは何ら問題はなかった。


 それがここにきての劇的な環境変化だ。肉体以上に精神に負担がかかっている。適応できていない織斗の身体が前後にふらつく。


≪心の臓に病を抱えているのであったな。それもまた因果いんがか。何とも不思議なえにしよの≫



 意味不明の言葉が次々と流れこんでくる。



 突然、黒猫が後足だけで立ち上がると、拍手かしわでを打つがごとく、器用にも前足の肉球を叩き合わせた。何とも形容し難い怜悧れいりな音がさざ波となって響いてくる。



≪そなたが我が娘に言ったとおりにせよ。さすれば心の臓も落ち着くというもの≫



 さざ波はゆっくりと心臓にみ渡り、拍動をしずめてくれる。織斗は言われるがままに深呼吸を繰り返す。



≪済まぬ。いささか唐突すぎたかもしれぬな≫



 黒猫がびを入れてくる。



「いえ、もう大丈夫です。それよりも、俺をこんなところに連れてきて、いったいどうしようというのです」



 黒猫の真意がわからない織斗の口調には多少の苛立ちが混ざっている。



≪そう苛つくでない。そなたにとって、最も重要になるであろうものを今からせよう。ここで視たことは現世うつしよに持ち帰ることはできぬ。その代わり、そなたの記憶の奥深くに封じられる。しかるべき時が訪れたなら、おのずと想い出すであろう≫



 次の瞬間だ。織斗の脳裏に恐ろしいほどの膨大な映像が奔流ほんりゅうとなって一気に押し寄せてきた。


 みこまれる。想いが脳に伝わる前に織斗の意識は途切れていた。身体が仰向あおむけに倒れこんでいく。直前のこと、金色こんじきに輝く何かがじっと見つめているような気がした。



「ふむ、気を失ったか。これほど優秀な若者でも脳が処理できなんだか。仕方あるまいな。数時間におよぶ事象をわずか数秒足らずに凝縮したのだ」



 倒れ伏した織斗のかたわら、精悍せいかんで長身痩躯そうくの男が立っている。宮司ぐうじの装束を身にまとい、上から下まで白一色で統一されている。はかまには意匠をらした紋様もんようが薄く入っている。



「我が名は季堯すえたか路川みちかわ季堯。路川家が守護せし朔玖良さくら神社の初代宮司にして、還魂かんこんの秘術をもって黒猫の体内で未来永劫みらいえいごうの生を維持しておる」



 路川季堯の肉体は失せて幾星霜いくせいそう、いくら秘術をもってしても復元は不可能だ。今、気を失った織斗のそばに立つ姿は、あくまでも記憶の再現にすぎず、それを見せているにすぎない。


 路川季堯が右手のみで印を結び、しゅを唱える。右手指先が鈍色にびいろに輝き出す。



「我が呪をもって風向織斗たる者の心の臓をまもらん」



 織斗の心臓に光った右手を添え、さらに呪をひと言だけ付与した。呪を伴った輝きが心臓の中へと静かに溶けこんでいく。



「我が娘を心から深く想ってくれたせめてもの礼だ。ただし、そなたが我が娘を忘れたその時、呪もまた消え去る」



 男の姿が揺らいでいく。きょの世界とはいえ、姿を維持できる時間に制限があるようだ。揺らぎが大きくなり、次第におぼろとなって消えていく。



 織斗は意識を失った中でも、男の名前、そして黒猫の哀愁あいしゅうを帯びた鳴き声だけは心臓を通じて明瞭にとらえられていた。



(路川季堯様、ありがとうございます。何よりも俺にあれを見せてくれて)



◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



 優季奈ゆきながブラウスのボタンを上からゆっくりと外していく。


 佳那葉は黙したまま、準備が整うまで待つのみだ。既に証が存在すること自体は認識できている。真に確かめるべきは証の状態だ。


 それがどのように変質しているかによって事情が異なってくる。優季奈が生き返ってからおよそ二ヶ月、およその想像はできている。



「あ、あの、これで、いいですか」



 恥ずかしそうに胸前を隠しながら問うてくる優季奈に佳那葉が微笑みかける。



「ええ、いいですよ。それから、安心して。彼は神月代櫻じんげつだいざくらを見たままよ」



 佳那葉には織斗がこちらに向かない、いや、絶対に向けないとわかっている。そのためにひざから下りた黒猫が彼のもとへと駆けていったのだから。



「早速、確かめましょう。優季奈さん、女同士よ。恥ずかしがらずに手を下げて」



 笑みを絶やさない佳那葉の言葉にようやく安心できたか、優季奈が胸元を覆っていた両手をゆっくりと下げる。



「あったわね」



 優季奈はほおしゅに染めたまま、どうしていいのかわからずに戸惑っている。


 佳那葉は左側に置いている美しい風呂敷を広げ、あるものを取り出すと、両手に持って優季奈の心臓部分に向けた。



「路川家の櫻守さくらもりに受け継がれている円鏡えんきょうよ。優季奈さん、見てごらんなさい」



 直径がおよそ二十センチメートル、見事な螺鈿らでん細工が裏面にほどこされている。国宝と言ってもおかしくないほどの優美な鏡だ。


 優季奈は鏡に映った自身の心臓の真上、そこに浮き出ている紋様を驚きのまなこで凝視している。



「花びらが。まさか、これが佳那葉さんの言った証なんですか」



 佳那葉がゆっくりと頷く。



「そうですよ。花びらの形と色をよく覚えておきなさいね。これこそが優季奈さんに見える神月代櫻の娘の証なの。そして、優季奈さんには視えない証がもう一つ。それを今から見せてあげるわ」



 円鏡をかたわらに丁寧に置くと、佳那葉が浮き上がった紋様に向けて右手を近づける。



「触れるわね」



 佳那葉は右手の人差し指と中指を重ねて剣と化し、優季奈の心臓の真上、紋様にとどめ置いた。さらに左手も同様の剣を作り上げ、自身のくちびるに添える。



かいたく



 佳那葉が唱えたしゅによって、表に出てこないもう一つの証が浮かび上がってくる。決して視えなかった真なる証が白日はくじつの下にさらされる。



(予想どおりだったわね。やはり、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様は)



 佳那葉は再び円鏡を手に取り、優季奈の心臓が見える位置まで持ち上げる。



「えっ、これは。花びらが、一枚だけほとんど欠けています」



 うまく言葉にできずにもどかしい。


 円鏡を通じて最初に見た証、神月代櫻の花びらは五枚花弁でその全てが淡い石竹色せきちくいろに染まっていた。


 今、佳那葉が見せてくれている花びらは五枚花弁でありながら、一枚だけが石竹色せきちくいろを失い、薄白はくはくに変じている。


 残る四枚のうち、三枚は未だに美しい状態を保っている。残る一枚は先端部分が変色を始めようとしている。その兆候がはっきりと感じられた。



「優季奈さん、気を確かに持って聞いてくださいね。神月代櫻から生まれた娘の寿命はあまねく一年と決まっているの。あなたは神月代櫻から直接聞いているのでしたね」



 うなづく優季奈を待って、佳那葉が続ける。



「それは木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様がお決めになられた不変の摂理、いわば女神の摂理なの。その寿命を示すものが二度目に見た五枚花弁の証、五枚全てが散った時、優季奈さん、あなたは神月代櫻のもとへ還る」

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