第082話:神月代櫻の娘の証

 黒猫は老婆の姿が視界に入るや、二人を置き去りにして勢いよくけていく。


 優季奈ゆきな織斗おりとも追おうとはせず、一定の足取りをもって、ベンチに座っている老婆のもとへと近づいていった。



「はじめまして。路川沙希みちかわさきさんのご祖母様ばあさまでしょうか。私は沙希さんの同級生で風向織斗かざむかいおりとと言います。そして、こちらが」



 言い淀む。織斗にしては迂闊うかつすぎた。目の前にいるのは沙希の祖母なのだ。事情は詳細に至るまで聞かされているに違いない。そうは想っても、実際に沙希に確認しておいたわけではない。ここで優季奈の名を口にしてもいいのだろうか。


 二人を柔和にゅうわな笑みをもって見上げる老婆に、織斗の葛藤は即座に伝わっていた。



「はじめまして。そして、大丈夫よ。鞍崎凪柚くらさきなゆさん、真名まな佐倉優季奈さくらゆきなさんね。私は路川佳那葉かなは、沙希の祖母です」



 織斗が安堵の息をゆっくりと吐き出す。優季奈もまた同様、真名を呼ばれたことでうれいはなくなった。何しろ、あの沙希の祖母なのだ。沙希以上にえないものが視えているはずであり、むしろわかっていて当然だろう。



「沙希から話は聞いていますよ。お二人は櫻守さくらもりしか閲覧できない古文書の内容を知りたいということでしたね」



 二人して大きくうなづく。


 おもむろに眼鏡を外した佳那葉の視線が優季奈に向けられる。たちどころに優季奈は全く動けなくなってしまった。全身硬直状態とでも言うのか、佳那葉の眼力の前になすすべもない。


 織斗はかすかに震えている優季奈の手を少しだけ強めに握り直し、優しく言葉をかける。



「路川佳那葉さんは決して優季奈ちゃんを傷つけたりしないから。目を見ればわかるんだ。それに俺がついているよ。だから落ち着いて、ゆっくり深呼吸して」



 織斗の手を通して熱が伝わってくる。それだけで優季奈の心は温かさに満たされ、穏やかになっていく。深呼吸を繰り返す優季奈を横目で見ながら、織斗が小さくうなづいている。


 いつしか佳那葉のひざの上には案内役を務めてくれた黒猫が身体を丸めて大人しくしている。昼下がりの陽気に眠気が増しているのか、気怠けだるそうに頭をもたげて優季奈を見ている。



≪ここまで辿り着けた者は何百年ぶりであろうな≫



 織斗と優季奈には決して聞こえない。特殊な力を持つ者同士でなければ聞こえない、一種の念話といったものだ。



≪代々の櫻守が受け継いでいく記録によれば、およそ三百年ぶりですよ、初代様≫



 佳那葉が黒猫の背をでながら言葉を返す。そこには初代様と呼んだ黒猫への敬愛の情が多分にこめられている。



≪三百年が長いのか短いのか、不老不死となった私にはわからぬが。久方ぶりにここまで辿たどり着いたいとしい娘の話を存分に聞こうではないか≫



 わずかに微笑みを浮かべた佳那葉が優季奈に尋ねる。



「佐倉優季奈さん、話をする前に貴女が神月代櫻じんげつだいざくらの娘だというあかしを見せていただきたいの」



 佳那葉の唐突すぎる言葉に優季奈は明らかに戸惑いを見せている。神月代櫻の娘と指摘されたこと以上に、証を、と言われたところで皆目見当もつかない。



「証、ですか。ごめんなさい。私には、わかりません」



 首を何度も横に振りながら優季奈はそれ以上の言葉を口にできない。



 緑一色に染まった神月代櫻が小高い丘の上から見下ろしている。枝葉しようが風に揺られる様は、まるで優季奈に語りかけているようでもある。



「優季奈さん、裸になって鏡の前に立った経験はあるでしょう」



 たちまちのうちに赤面する優季奈と同じく、織斗もまた顔を真っ赤にしている。



「あら、高校生のお嬢さんには刺激が強かったかもしれないわね。変な意味で言ったわけではないのよ。そうでもしないと自分で見るのは難しいの」



 恥ずかしさのあまり、混乱する優季奈がとんでもないことを言い出している。



「織斗君、想像しちゃだめ。絶対だめだからね」



 ほおを染めながら、想像したら絶交だと言わんばかりのあたふたしている優季奈が織斗にはいじらしく想えてならない。



「し、してないよ。うん、優季奈ちゃんの裸姿、絶対想像してないから」



 全く説得力のない織斗の言葉が優季奈に通用するはずもない。



「織斗君の馬鹿。それ、絶対想像したよね。したよね」



 そんな繰り返し言わなくても、と危うく声が出そうになった織斗が必死に口をい止める。高校三年生にもなった男なのだ。好きな女の子の裸体ぐらいは想像して当然だろう。



 初々しい二人を佳那葉が目を細めて見つめている。



「若いっていいわね」



≪そなたも同じ道を歩んできたであろう。それに若さがよいとは限らぬよ≫



 心の中で苦笑を浮かべて佳那葉が応じる。



≪初代様は相変わらずですね。不老不死となって導き手となられたことを後悔されているのでしょうか≫



 佳那葉の問いに無視を決めこみ、別の言葉をもって返す。



≪娘にあざがあるかいなか、そなたが確かめてやればよいであろう。何、あくまで形式だけのものだ。私にも、そなたの目にも、既に視えているのだからな≫



 柔和な笑みを決して崩さず、佳那葉は小さく頷く。



「優季奈さん、私が確かめてあげるわ。こちらにいらっしゃい」



 言葉に吸い寄せられるかのように優季奈が佳那葉に近寄っていく。



早宮埜さくや、力を使っておるのではあるまいな≫



 わかっていながら聞いている。力を使えばたちどころに感知できる。それが黒猫こと初代様の力の根源でもあるからだ。



≪もちろん使っておりませんよ。この娘はとりわけ感受性が強く、何よりも神月代櫻の、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の情を受けておられます≫



 黒猫はまぶたを下ろし、しばし瞑想めいそうに入る。佳那葉は左手を黒猫の背に置いたまま、右手で自身の横を叩いてみせた。



「こちらにお座りなさいな。立ったままでは確かめられませんからね」



 優季奈は振り返って織斗に不安そうな目を向ける。その場を動こうとしない織斗が、大丈夫だよとばかりに頷いてみせた。それでも心配なのだろう。



「あ、あの、織斗君と一緒じゃだめですか」



 佳那葉が悪戯いたずらっ子のような笑みを浮かべて手招き、優季奈の耳元で織斗には聞こえないように尋ねる。



「今着ているブラウスのボタンを外すのよ。胸の谷間辺りまであらわになるけど、彼に見られても平気なの」



 優季奈は即断即決、再び顔を真っ赤に染めながら慌てて応える。



「だ、だめです。平気じゃないです。見られたら、恥ずかしくて死んじゃいそうです」



 肉体的には十八歳でも、精神的には十五歳前、初心うぶな優季奈には、感情として羞恥心しゅうちしんがほぼ全てを占めているのだろう。



「沙希も言っていたけど、本当に可愛いわね。彼には背を向けておいてもらいましょうね」



 強く何度も首を縦に振っている優季奈の頭を軽くで、佳那葉が織斗に声をかける。



「風向さん、こちらに背を向けて神月代櫻と相対あいたいしてくださいな。見たい気持ちは重々承知のうえだけど、優季奈さん、とても恥ずかしがり屋さんなの」



 織斗の表情が次から次へと面白いように変わっていく。その度に優季奈の表情もだ。



≪からかうのはそれぐらいでよかろう。あの者には私が話をしよう。この二人がここまで来られたのは至極しごく当然だったようだ。よもや、このようなことになっていようとはな≫



 それまで佳那葉の膝の上で丸まっていた黒猫が起き上がると、気持ちよさそうに大きく背を伸ばす。



≪初代様、どういうことでしょうか。あの青年はごく普通の高校生にしか視えませんが≫



 黒猫が佳那葉の膝から飛び降りる。頭だけを回して佳那葉にわずかな視線を送る。



早宮埜さくや、そなたにも視えぬか。致し方あるまいな。我が目をもってしても見逃しかねないほどの光明だ。これもまた木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様のお導きかもしれぬな≫



 佳那葉の返答を待つまでもなく、ゆったりとした足取りで織斗に向かっていく。



 緩やかだった風が突然強まり、神月代櫻の枝葉を激しく揺さ振る。まるで目に刺しこまんばかりに勢いを増した突風を前に、織斗は思わず右手で目を覆い、無意識のうちに身体を反転していた。


 視界から優季奈と佳那葉、さらには向かってきているだろう黒猫の姿が消える。刹那せつな、情景が一変した。



≪あちらは初代様にお任せしておけばいいわね。私も櫻守としての務めを果たすとしましょう≫



 優季奈は既に佳那葉の右手に座って、背を向けた織斗を見つめている。



「優季奈さん、あなたの心臓が見えるようにブラウスのボタンを外してもらえる」



 おずおずと一番上のボタンに手を触れつつ、今にも織斗が振り返るのではないか。優季奈は鼓動が大きく弾むのを感じている。



「心配はらないわ。彼は決して振り返らない。振り返りたくてもできないの」



 怪訝な表情を浮かべる優季奈に、佳那葉は黙って頷くだけだった。

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