第081話:神月代櫻への切なる願い
「綾乃、大丈夫だった」
綾乃に
沙希が視線をわからないほどに傾けて全身を
「問題はなかろう。しばらくは身体がだるく感じるじゃろうがな」
緊張の表情を緩めて安堵の息を吐く。きっかけは汐音とはいえ、自分も追い打ちをかけるような真似をしてしまった。今日はことさら綾乃に優しくしようと誓う沙希だった。
二十畳はあるだろう和室に再び三人が集う。さらには橙一朗も加わって四人が座している。あまりに広すぎるせいか、静けさだけが際立っている。
「橙一朗さん、ご無沙汰しています。お元気そうですね」
汐音の言葉に
「汐音君、随分と久しぶりじゃな。君も元気にしておったかな。して、隣の女の子は初めて見る顔じゃな」
橙一朗も心配していたのだろう。
憑き物の痕跡は完全に失せている。憑いた直後に祓っている。後遺症の心配もないだろう。沙希の見立てどおりだった。
(さすがは儂の孫娘じゃ。よく視ておる。あとは沙希がよき
こればかりは橙一朗がいくら気を
(沙希の器量じゃ。よもや断る愚か者はおるまいが、もしそのような
右手に握り拳を作って不敵な笑みを浮かべている橙一朗を前に、汐音も綾乃も大きく
「おじいちゃん、また変なことを考えていたんでしょ。そういうの
沙希の指摘を受けて橙一朗が悪気はなかったとばかりに拳を開き、ひらひらと振ってみせる。
「おお、済まなかった。汐音君も隣のお嬢さんも怖がらせてしまったかの」
汐音が小さく首を横に振りつつ、橙一朗に尋ねかける。
「俺はまあ慣れているからいいんですけど、彼女、鷹科さんと言います、はさすがに。いったい何に怒っていたんですか」
汐音も綾乃も橙一朗の瞳が一瞬
(ふむ、やはり二人して似たような性質の持ち主じゃな。さて、これが二人の間となればどうじゃろうな)
「汐音君も沙希も幼かった頃の話じゃよ。仲睦まじい二人は、いずれ添い遂げるものじゃと想っておった。じゃがな、今の二人を見ればの。どうやら、儂の予感は外れたようじゃ」
沙希と汐音が互いに顔を見合わせている。二人して、断じてそれはない、という表情だ。
「それにじゃ、沙希が
綾乃と汐音が戸惑いを見せている。自分たちも聞いていいのだろうか。路川家だけの秘密ではなかっただろうか。その想いが色濃く顔に出ている。
「汐音と綾乃にも聞かせて大丈夫なの」
沙希の問いかけに橙一朗は大きく首を縦に振る。
「
橙一朗はすっかり冷めてしまった日本茶で喉を潤すと、おもむろに言葉を
◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇
神月代櫻がそびえる丘の
「沙希ちゃんが言ってたよ。神月代櫻の周囲には結界が張られていて、路川家の一部の人しか結界内に入れないって」
優季奈から沙希の話を聞けば聞くほど、織斗はこれまで抱いていた沙希の印象が塗り替えられていく。
「路川さんにもまだまだ謎がありそうだね。初めて逢った時から不思議な人だと想っていたけど」
優季奈が小首を
「入学して少ししてからかな。廊下ですれ違った際に声をかけられたんだ。『まさか同級生だったなんてね。私が誰かわかる』ってね」
明らかに優季奈が戸惑っている。そんな表情もまた織斗にとっては
「優季奈ちゃん、可愛いなあ」
神月代櫻はすっかり花を落とし、幾つもの
「織斗君、その癖、直ってないね」
その短い言葉の中に優季奈のあらゆる想いが詰まっている。織斗の答えもまた同様だった。
「優季奈ちゃんだから。それにもう二度と後悔したくないから」
「このままずっと織斗君と一緒にいたい。それが叶うなら、私、他に何も要らない」
織斗は空いている左手を優季奈の背に回して抱きしめる。
「俺だって同じだよ。優季奈ちゃんがいてくれるなら何も望まない」
風になびく優季奈の髪を優しく撫でながら、まるで二人の様子を見ているかのような神月代櫻を見上げた。
「神月代櫻、俺の声が聞こえているはずです。どうか俺の願いを叶えてください。叶えてくれるなら、どんな条件でも受け入れます」
優季奈も心の中で一心に祈る。
(お願いします。少しでも長く織斗君と一緒にいられるようにしてください。心からのお願いです)
神月代櫻の下で二人は抱き合ったまま、強く深い想いを届ける。
どれぐらいそうしていただろうか。
いつの間にか、二人の足元に一匹の黒猫が姿を見せていた。毛並みが美しく、気高さを感じさせる堂々とした
用事は済んだね。話が聞きたいそうだね。ついておいで。案内してあげるから。
優季奈にも織斗にもはっきりと聞こえた。聴覚を通じて、ではない。直接心の中に言葉が
黒猫は当然二人がついてくる前提で、既に身を
黒猫は神月代櫻を離れ、速度を上げながら丘を下っていく。
「あっ、待って」
優季奈の声を合図に、二人は手を繋いだまま黒猫の後を追って走り出した。丘の下まで幾つか分岐はしているものの、広い道は一本だけだ。機敏な黒猫の姿を見失う心配はなさそうだ。
「どこに向かっているんだろう」
織斗が疑問を口にした瞬間、黒猫の姿が完全に消えてしまった。
「あれ、黒猫ちゃん、消えちゃったよ。どこに行ったんだろ。あの枝道に入ったのかな」
優季奈の問いに、答える
「えっ」
優季奈が思わず悲鳴にも似た驚きの声をあげる。すぐ足元で先ほどと全く同じ、黒猫の鳴き声が聞こえてきたからだ。
「ど、どうして、ここに黒猫ちゃんが」
黒猫は優季奈の足に身体を
「どうやら優季奈ちゃんが気に入ったみたいだね」
優季奈は訳がわからないままに小さな笑みを浮かべるだけだった。
そこから五十メートルほど下ったところから小さな脇道が延びている。黒猫は迷わずそちらに進路を取った。
少し先に休憩用のベンチが見える。そこに尋ね人たる老婆が腰かけている。
優季奈と織斗は黒猫に先導されゆっくりと老婆に近寄っていった。
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