第五章

第080話:沙希、綾乃、汐音それぞれの想い

 沙希さきから連絡が来たのは、"Conte de Féesコント・ドゥ・フェ"での集まりからおよそ一週間が経った頃だった。


 沙希が送ってきた情報を見る限り、日程を除けば、いろいろと細かく指定されている。


 直接、沙希の祖母から話を聞かせてもらえるのは優季奈ゆきな織斗おりとの二人のみだ。なぜなのかと問うた沙希も理由は教えてもらえなかった。祖母からは意味深な言葉を投げかけられている。



「二人から聞かせてもらいなさい。どこまで話せるか。それは二人次第ね。沙希も櫻守さくらもりになればわかるわ」



 祖母はがんとして譲らず、沙希も抵抗むなしく、最終的には根負けしてしまった。



 念のために沙希も交えて五人で確認し合った結果、現在に至る。



「櫻守としての制約があるのかもね。祖母は一度口にしたことは決して曲げないのよ。いずれにしても、優季奈と風向かざむかい君がここに戻ってくるのを待つしかないわ。そのうえで改めて今後の方針を相談ね」



 今、沙希たち三人が落ち着いているのは沙希の祖母の実家だった。


 神月代櫻じんげつだいざくらがそびえ立つ小高い丘から徒歩十五分程度の位置にある家、いやむしろ時代劇に出てくるような大名屋敷と言った方が相応ふさわしいだろう。かつてこの辺一帯を統べていた有力一族だけのことはある。


 三人はここに来る前、優季奈や織斗と共に神月代櫻のそばまで足を運んでいた。そこで二人と別れての行動になったというわけだ。



 広々とした畳敷きの和室で三人は日本茶を飲みながら、優季奈と織斗の帰りを待ちわびている。


 沙希は座布団の上で足を崩さず、美しい姿勢を保って座っている。綾乃と汐音はもっぱら洋室での椅子生活に慣れてしまっているせいか、ぎこちなさが漂っている。どうにも身体の中心が定まっていない。



「沙希は小さい頃から和室が好きだったな。そんな姿勢でよく座り続けられるよ。ああ、想い出した。懐かしいなあ」



 土曜の昼下がり、空には雲一つなく、透き通るような青で塗り固められている。汐音はまぶしそうに空を眺めながら、遠い記憶を想い起こしている。


 綾乃が聞きたそうに時折視線を向けてくる。どうせろくでもないことだろうと想いながら、沙希が綾乃に代わって汐音に尋ねかける。



「汐音、何を懐かしがっているのよ。昔を想い出すほどに歳は取っていないでしょ」



 遠慮のない沙希の言葉に汐音は苦笑交じりに応える。



「小さい頃だよ。お前によく泣かされてたなあってな。それに、お前と一緒だったからまだましだったけど、この家、あまりに広すぎて怖かったんだよ。何回か泊まっただろ。布団に入って天井を見ているとさ、今にも何かが出てきそうでな」



 汐音が高い天井を見上げ、指を回しながら示している。何かが出そう。いわゆるあの手のもののことを言っているのだろう。



「ちょ、ちょっとめてよ。私、そういうのが苦手なんだから。もう、今晩眠れなくなるじゃない」



 綾乃が本気で怖がっている。意外な弱点を知ったとばかりに、早速沙希が混ぜ返しにかかる。



「でかしたわ、汐音。綾乃の弱点を一つ発見よ。今晩はここでお泊り会をするつもりだったし、ちょうどいいわ。夜になったら肝試し決定ね」



 綾乃の表情が若干どころか、大いに引きっている。部屋の左右をせわしく見回し、さらには汐音が指差していた天井を見上げ、そして立ち上がると脱兎だっとのごとく逃げ出してしまった。


 あまりの一瞬の行動に沙希も汐音も呆気あっけに取られ、咄嗟とっさに反応できない。



「あっ、鷹科たかしなさん」



 慌てて呼び止めようとするも既に遅い。綾乃は玄関に向かってまっしぐらの最中さなかだ。



「ごめん、汐音。ちょっと怖がらせてしまったかも。あそこまでとはね。ほら、行きなさいよ。王子様の役目は譲ってあげるわ」



 沙希は姿勢正しく座ったまま動く気配を一切見せない。言葉の次に、早く行けとばかりに視線で汐音を促す。



「何だよ、王子様って。そんなことはどうでもいいな。俺、ちょっと行ってくるわ」



 さっさと行けとばかりに沙希が手を雑に振って、汐音を追い払う。



「全く世話が焼けるわね。それに何が泣かされたよ。勝手に怖がって、私に必死にしがみついて泣いてただけじゃない」



 沙希もまた懐かしかったのだろう。幼かった頃の記憶を想い出し、わずかに笑みを浮かべている。



「おじいちゃん、背後からこっそり忍んでこないでよ。それにどうして家の中で反閇へんばいの儀なの」



 日本茶を美味しそうに飲みながら、沙希はまるで後ろに目がついているのかのごとく言葉を繰り出す。



「沙希にはかなわんの。感心、感心、よくえておるようじゃ。何、我が家にはき物も多いでの。反閇は欠かせぬ」



 沙希は決して振り返らない。祖父の儀の邪魔をしてはならない。


 反閇は陰陽道おんみょうどうにおける呪術じゅじゅつの一つであり、多用な意味を持つ。今、沙希の祖父が行っている反閇は、しゅを唱えながら独特の歩行方法をもって魔をしずめるためのものだ。



りんぴょうとうしゃかいじんれつぜんぎょう



 九字護身法くじごしんほうの印を結びながら、祖父の路川橙一朗みちかわとういちろうおごそかな低音が部屋に木霊こだましていく。


 沙希はいっそう背筋を伸ばし、そのしゅに耳を澄ませていた。静かに印を解いた祖父が語りかけてくる。



「終わった。これでしばらくは寄りつかんじゃろう。ところで、沙希や。今しがた慌てて駆けていったのは汐音君じゃなかろうか」



 路川橙一朗は先ほどの反閇など何でもないとばかりに沙希の正面に腰を下ろすと、早速新しい湯呑ゆのみを沙希の方へ差し出してくる。


 普段なら素っ気なく断る沙希も、さすがに反閇のねぎらいがあったのだろう、何も言わずに急須きゅうすから少しぬるくなった日本茶を注ぎ入れる。



「汐音君もじゃが、その前に走って逃げていった女の子、あの子も好かれるたちじゃな」



 路川家には、昔から急な客人も多く、寝具などはかなり多めに用意されている。橙一朗がわざわざ反閇を行ってくれたのは、今夜五人が泊まることになったと聞いたからだ。


 何しろ橙一朗は沙希を偏愛へんあいしている。儂の跡継ぎは沙希以外おらん、絶対嫁には出さん、と公言しているほどだ。沙希はほとほと困りながらも、こんな祖父の橙一朗がなぜか好きだったりする。


 互いに変わり者同士、年齢など関係なしに相通じるものがどこかにあるのだろう。



「おじいちゃん、ありがとう。反閇は私たちのためにしてくれたのでしょ。汐音と先に出ていった女の子、綾乃って言うんだけど、確かに二人とも好かれやすそうな質よね」



 橙一朗が日本茶をすすりながら沙希の言葉にうなづいている。



「もう冷めてしまっているでしょ。入れ直してくるわ」



 立ち上がろうとした沙希を橙一朗が手振りで押しとどめる。



「ばあさんから聞いたんじゃが、沙希は本気で櫻守になろうというのか。またどうしてじゃ。櫻守がどういうものか、沙希はよくわかっておるはずじゃ」



 橙一朗なら真実を話しても信用できる。路川家を祖母の佳那葉かなはと共に何十年も守護してきたのだ。だからこそ、神月代櫻は決して枯れることなく、倒れることなく、みずみずしい生命力を維持できている。



「おじいちゃん、今から私が話すことは真実よ。これは路川家にとっても重要なことなの。母と一緒、私も櫻守には興味がなかった。でもこの話を知ってしまった以上、私が最も適任だと想ったの」



 前置きを告げて、沙希はこれまでの出来事、それに伴う推論も含めて橙一朗に包み隠さず明かした。




 脱兎のごとく逃げ出した綾乃は、靴も履かずに玄関先まで出てきていた。そこで呆然ぼうぜんと立ち尽くしている。


 遅れてやってきた汐音が綾乃の足元に靴をそろえて置いた。



「鷹科さん、ごめん。俺があんな話をしたばかりに。それに沙希も調子に乗って、追い打ちをかけるようなことになってしまって」



 綾乃は無言だ。汐音の声にも反応を示さない。まるで何かにりつかれたかのようでもある。



「鷹科さん、鷹科さん、大丈夫か。鷹科さん」



 汐音が何度呼びかけても振り返りさえしない。その時だ。聴覚ではとらえられない破裂音が綾乃の全身を駆け抜けていった。



「えっ、私、いったい何を」



 心配そうに呼びかけている汐音の声がようやく届いたのだろう。我に返った綾乃がゆっくりと振り返る。



「よかった。ようやく正気に戻ったね。何度呼びかけても反応しないから心配したよ。それから足元」



 言われたがままに視線を下に落とす綾乃が驚きのあまり絶句している。



「靴、そこに置いておいたから」



 もう恥ずかしいわねなどとつぶやきながら、慌てて靴を履く綾乃がいつも以上に可愛く見える。



「ありがとう。私、どうしてしまったのかな。思わず走り出して玄関から飛び出そうとしたところまでは覚えているの。でも、そこから記憶がないというか、よく覚えていないのよ」



 綾乃の疑問に応えるだけの材料は残念ながら汐音にはない。汐音でさえ何が何だかわからないのだ。



「とにかく鷹科さんが無事でよかったよ。ここにいても仕方がないし、中に戻ろう」



 やはり気乗りがしないのか、綾乃が渋っている。どうやら本気で怖がっているようだ。



「大丈夫だよ。俺がついているからさ。何が来ようとも鷹科さんだけは守ってみせるよ」



 いささか場違いな汐音の言葉に綾乃が吹き出している。



「な、何が可笑おかしいんだよ」



 膨れ気味の汐音の顔を見て、綾乃もようやく落ち着いたか。



「よくそんなことが平気で言えるなって想っただけよ。でも、真泉君だって苦手なんでしょ。ああいうのって見えないから怖いのよね」



 見えたらもっと怖い、という突っ込みは止めておこう。汐音は喉元まで出かかっていた言葉をみ込むと、冗談交じりに返す。



「苦手といっても子供の頃の話だからなあ。まあ気分のいいものじゃないのは確かだよ」



 汐音が中に戻ろうと今度は目で綾乃を促す。ここは自分が先に進んで、綾乃に大丈夫だというところを示さなければならない。



「俺が先に行くから、後ろについてきて」



 玄関に戻ろうとした汐音の背中に綾乃の言葉が投げかけられる。



「真泉君、私の気持ちは変わらない。それでも真泉君は私を好きでいられるの。アメリカに行ってしまうのでしょ」



 汐音は踏み出そうとした足を止めて即答する。



「ああ、ずっと好きだよ。アメリカに行こうとも、俺のこの気持ちは変わらない。報われないとわかっていてもね。鷹科さんと同じだよ」



 汐音の言葉に綾乃はわずかに息を呑むと、静かにささやく。



「そう。私と同じ」



 二人は立ち止まったまま動こうとしない。



「返事、いつになるかわからないよ。それでもよかったら考えてみる」


「ああ、それでいいよ。いつまでも待ってるから」



 二人の背に青空に浮かぶ太陽が温かい光を落としこんでいる。それは二人を激励しているかのようでもあった。

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