第074話:優季奈が濡れていた理由とは

 見開きのノートには沙希さきが語ったとおり、神月代櫻じんげつだいざくらの文字以外に、やしろほこら、光が太い赤字で書かれている。さらに、その下辺りにもう一文字が赤字で記され、さらに大きく疑問符が打たれていた。



「どう、これで繋がらない」



 沙希が再び二人を試すように問いかけてくる。挑まれたからには受けて立つ。負けず嫌いの綾乃あやのが食い入るようにノートに目を走らせ、思考を巡らせている。対照的に優季奈ゆきなは少し距離を置いたところで、綾乃の背後から覗きこんでいる。



「沙希がわざわざ二つも疑問符をつけているこの赤字の【滴】、読みは【しずく】よね。動詞だと、したたる、になるわね。優季奈の身体がずぶ濡れ状態だったのは、水滴のせいということに」



 綾乃の目が向けられる。問われたところで優季奈にわかるはずもない。残念そうに首を横に振るだけだ。



「この漢字にまどわされないで。優季奈が全身ずぶ濡れ、それは間違いなく水滴によるものでしょう。では、なぜそのような状態に、ということなのよ。そして、最大のヒントこそ優季奈が言ってくれたわ。それで全てが繋がった」



 じれったそうにしている綾乃が不満を口にしている。



「沙希はいいわよね。私や優季奈が知らない知識をあらかじめ持っているんだから。ちょっとずるいわよ。優季奈もそう想わない」



 いきなり振られて優季奈が困っている。



「綾乃って喜怒哀楽をはっきりと表に出すのね。学校でのあなたの噂はいろいろ聞いているけど、全然違っていて新鮮だわ。それもこれも優季奈のお陰かもしれないわね」



 噂を逐一ちくいち気にしていては何もできない。綾乃はいわば響凛きょうりん学園高等学校を代表する顔的存在だ。成績優秀のうえ、学校一とうたわれる美少女ぶりは学外にも広まっている。


 そんな綾乃だからこそ、自身では極力目立たないようにしている。火のない所に煙は立たぬ、とは言うものの、やはりねたみから、裏で嫌がらせに走るやからも少なからず存在する。


 実際に綾乃自身、何度か直接嫌がらせも受けてきた。もちろんその都度、話し合いだけで穏便に、かつねじ伏せてきている。



 ところで、綾乃は知らない。綾乃に届くその直前で、大半の嫌がらせを汐音しおん織斗おりとが叩き潰してきた事実を。もっぱら汐音が主導し、織斗は使い走りにすぎなかったりする。



(ここは言わぬが仏というものよね。汐音からはきつく口止めされているし。愛されているわね、綾乃。でも、あなたの想いもまた、と私がとやかく言うことではないわね)



「月が水滴をもたらすのかな。わからないよ。沙希ちゃん、私は降参するよ」



 お手上げとばかりに優季奈は敗北宣言だ。綾乃はなおも粘って、考え続けている。



「綾乃はまだ降参しそうにないし、それに優季奈の真名まなではヒントをもらったから、私もお返しをしないとね」



 綾乃が期待をこめた瞳を向けてくる。



「これは季語になっているわ。俳句をよむむ人ならすぐにわかるんだけど。綾乃はどうなの」



 綾乃自身、和歌も俳句も文字面もじづらを読むだけで、自分では詠まない。静かに首を横に振る。



「そう、じゃあ特別にもう一つだけ。【滴】を別の漢字に置き換えてみて。それならわかるでしょ」



 その程度なら綾乃には容易だ。即座に優季奈が自らの漢字を書いた紙に書き加える。



「【滴】は【雫】ね。これがどうだと言うの」



 自ら書いた漢字を眺めながら、ふと何かが頭に浮かんだのか、綾乃がまたもや思考に没頭していく。



「社と祠は一体、じゃあ関係ないわね。残ったのは光、それは優季奈が指摘したとおり月の光のこと。優季奈が生き返った時には頭上に満月が輝いていた。そして、優季奈の身体は水滴で濡れていた。光、月、水滴、【滴】は【雫】に置き換えられる」



 優季奈が小声でささやく。



「月の雫」



 その言葉は明瞭に綾乃の、沙希の耳に響き渡った。綾乃が飛びつくようにして優季奈を抱きしめる。



「優季奈、でかしたわ。それよ。月の雫よ。間違いないわ。そうよね、沙希」



 苦笑たっぷりの沙希がうなづいてみせる。



「優季奈、よく知っていたわね。そのとおり、月の雫よ。優季奈の身体は月の雫によってずぶ濡れになっていたの」



 綾乃に抱きしめられたまま、あたふたしている優季奈は再び小さく首をかしげながら沙希に尋ねかける。



「これも本から得た知識だよ。でも、月の雫って、たしか秋の季語だったよね。私が生き返ったのは四月だよ。ちょっとだけ違和感があるかな」



 沙希が補足していく。



「月の雫、それはつゆの異称で、特に朝方に生じる朝露あさつゆを指しているわ。優季奈、あなたが神月代櫻のそばに立ったおよその時間はわかる」



 優季奈が迷わず答える。



「朝の四時を過ぎたくらいだったよ。神月代櫻から語りかけられた直後、どうしてなのか私の身体は叔父さんの家の前に立っていたの。叔父さん、私のインターフォン攻撃に応えてくれて。その時に『今、何時かわかっているのか』って怒鳴っていたから」



 さすがに鞍崎慶憲、いささかもぶれない男だ。


 優季奈が神月代櫻の傍からいきなり鞍崎慶憲の自宅前に現れたのかは未だに謎のままだ。それはさておき、沙希は時間を聞いて、納得の顔を浮かべている。



「月の雫、つまり朝露によって優季奈の全身が濡れていた。ここまではいいわね」



 沙希の視線に優季奈も綾乃も異議なしとばかりに首を縦に振っている。



「月の雫の季語は秋だけど、それこそ『季違いじゃが仕方がない』、気にする必要はないわね。なぜなら、復活は常に春だからよ。これもまた古文書に明示されているわ」



 優季奈がすかさず突っ込んでくる。



「その引用って、横溝正史の『獄門島』からだよね」



 綾乃が後を引き取る。



「今の時代、表現規制の対象になっている言葉だから口にしない方がいいわよ」



 音にするのと文字にするのとでは大違いだ。沙希も重々承知のうえ、この場、この三人だからこその発言でもある。優季奈も綾乃ももちろんわかったうえでのやり取りに違いない。



「死者の復活は常に春なんだね。やっぱり神月代櫻が大きく影響しているということかなあ」



 小首を傾げながら懸命に考えこんでいる優季奈が何とも愛らしい。少なくとも綾乃も沙希も姉心がくすぐられている。



「もう、優季奈ったら、可愛いわね」



 本日二度目となる綾乃の抱きつき攻撃を前にして、無防備な優季奈は綾乃のなすがままだった。

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