第070話:沙希の秘密と綾乃の推論

 優季奈ゆきなの右手を両手で握り直し、それからゆっくりと離す。沙希さきの反応を確かめ、綾乃あやのもまた頭をでるのをめた。



櫻樹おうじゅ伝説、それは神月代櫻じんげつだいざくらにまつわる一千年以上にもわたる伝承、とある家系にのみ口伝くでんで残されたものよ」



 私の知識は完ぺきではない、との前置きに続き、沙希は説明を続ける。



「天然記念物に指定されている神月代櫻は、路川みちかわ家が長きにわたって櫻守さくらもりを担っているのよ。私の高祖父母こうそふぼのさらに上の時代までは、そうね、百五十年以上も前のこと、神月代櫻のそばに立派なやしろが建っていたわ。今では跡形もないけど、代々にわたって路川家の代表が宮司ぐうじを務めてきたの」



 あまりに意外な事実を聞かされた優季奈と綾乃は等しく目を丸くしている。



「ということは、沙希の実家って、あの辺一帯の大地主であり、神月代櫻の所有者ということなのね」



 その話題には触れられたくないのか、沙希は小さくうなづくだけで言葉は返ってこなかった。綾乃も察したのだろう。すぐさま話題を切り替える。



「神月代櫻にまつわる伝承、口伝と言ったわね、沙希はどこまで詳しく知っているの」



 沙希が落胆した表情を浮かべている。



「恐らく、半分も知らないんじゃないかな。伝承なんて、ずっと眉唾まゆつばだと考えていたし、あまり興味が持てなかったから。しかも口伝なのよ。書き残した古文書などのたぐいも一部はあるにはあるけど、大半は文字どおり口で伝えられてきたの。途中で意味が変遷へんせんしてしまったものも多くあるに違いないわ」



 沙希がため息をついて、申し訳なさそうな目を向けてくる。



「沙希ちゃん、ありがとう。半分と言っても、きっと私の知らないことばかりだよ。だから、全てを聞かせてほしい」



 沙希は頷くと再び口を開く。



「神月代櫻はとても特殊な樹木なの。あの櫻は植物であって植物ではない。樹齢一千年を超えて、なおもたくましい生命力を維持しているわ。植物が生きるうえで必須なものは当然だけど、本当の意味でのかてはそういったものじゃないの。それこそが神月代櫻を神月代櫻たらしめる根幹と言えるわね」



 優季奈は沙希の語る話についていけないのか、何度となく首をかしげ、綾乃に救いを求めて視線を投げかけている。綾乃も心得たもので、沙希の話がいったん終わると、合いの手のごとく質問を差し挟んでいく。



「つまり、神月代櫻は一般的な植物の栄養素ではなく、全く別のものを主たる糧として生命力を維持している。樹齢が一千年を超えるような樹木なら、かなり弱っていても不思議ではないわよね」



 綾乃が、ここまでは大丈夫ね、と目で優季奈に尋ねかけている。首を縦に振った優季奈を見て、綾乃はさらに続ける。



「路川家が神月代櫻の櫻守を務めていると言ったわね。そこまで大切にしているということは、やはり神月代櫻には何か特別な力が秘められている」



 自問自答のようになっている。綾乃もまだまだ半信半疑なのだ。これまでの優季奈の話を聞く限り、神月代櫻は優季奈の生き返りの謎に密接に関わっている。織斗おりとも神月代櫻こそが鍵だと信じている。



「神月代櫻、一千年を優に超える樹齢、たくましい生命力を誇る。随分前までは社があり、沙希の路川家が代々宮司を務めてきた。社がなくなってからも櫻守として神月代櫻を大切に守り続けている」



 綾乃は周囲から完全に雑音を排除し、一人だけの世界に没入している。その様子を見つめる優季奈と沙希は好対照だ。優季奈は不安げに、沙希は興味深げに、綾乃の思考を妨げないよう、沈黙を守りつつ、じっと見つめている。



「うるさいわね」



 優季奈も沙希も無言だ。にもかかわらず綾乃が叱責しっせきを飛ばす。言葉の意味するところを沙希は即座に理解すると、優季奈に向かって小声でささやいた。



「優季奈、綾乃から視線を外してこっちに来て」



 沙希が自身の左側を軽く叩いて、優季奈に移動を促す。綾乃は俯き加減でひたすら思考に集中している。優季奈も邪魔をしないよう音を立てずに静かに沙希の左隣へと場所を移す。


 その間も綾乃はしきりに独り言をつぶやいている。思わず優季奈が声をかけようとしたところで、沙希が人差し指を唇に添えて制止した。



「でも、そんなことがあるの。神月代櫻の生命力が、もしも私の考えているとおり、それならあり得ないことが起きていても不思議ではない。だとすれば、優季奈以外にも、まさか」



 思考に集中することおよそ十分、ようやくまとまったのか、綾乃は疲れ切ったかのような表情を浮かべ、優季奈と沙希に軽く頭を下げた。



「ごめんなさい。思考に集中すると周囲が見えなくなるのよ」



 優季奈も沙希も全く気にしていないようだ。



「私も同じよ。集中時はちょっとした音でさえ気になるから。気にしなくていいわ。優季奈も問題ないわよね」



 何度となく首を縦に振って応える優季奈が綾乃に尋ねかける。



「綾乃ちゃん、さっきから独り言を呟いていたけど、何かわかったの」



 綾乃が苦笑を浮かべている。



「わかったとは言いがたいわね。でも、自分なりの考えはまとまったわ。私なりの推論にすぎないけど、優季奈も沙希も聞いてくれる」



 もちろん二人に異論などあるはずもない。



「優季奈はあの時、私の問いに応えてこう言ったわ。『神月代櫻は生命の大樹、それが本当の姿だって。願いの強さと深さ、その二つが神月代櫻に伝わった時、二つの世界を一つとするべく架け橋ができる』と」



 その言葉を受けた刹那せつな、沙希の表情が激変した。綾乃を見つめ、すぐさま優季奈に視線を移すと、信じられないといった表情で凝視する。



「ど、どうしてそれを。優季奈はいったい誰から聞いたの。路川家に伝わる古文書は誰にも見せたことがないのよ」



 優季奈が答えるよりも早く綾乃が口を開いていた。



「知っていて当然よ。優季奈は神月代櫻から語りかけられているのだから。それで、その古文書には何が書かれているの」



 沙希がまるで雷に打たれたかのような表情で呆然ぼうぜんと呟く。



「ちょ、ちょっと待って。思考が追いつかないわ。神月代櫻から語りかけられた、ですって。そんなことあるはずが、いえ、違うわ。今はあらゆる常識を排除して考えるべきよ。綾乃、あなたの推論を最後まで聞かせて」



 眼光鋭く、沙希が勢いよく食いついてくる。綾乃と沙希、実は性格的に似かよっていたりする。



(違うわよ。全然似てないわよ。だいたい、私と沙希に共通点なんてないんだから)



 そのように感じ取っているのは、綾乃と沙希の二人だけだろう。



「綾乃ちゃんと沙希ちゃんって、案外似た者同士なのかも。一途でちょっと頑固なところなんてそっくりだし。頭のよさは、私が言うまでもないよね。自分にも他人にも厳しいけど、困っている人には手を差し伸べる優しさもあって、すごく素敵だよ。それに何より、二人ともとっても可愛い」



 優季奈の意表を突いた言葉に、二人して絶句したのは言うまでもない。綾乃と沙希が互いに顔を見合わせ、ぎこちない笑みを浮かべているのも印象的だった。



「優季奈、その話はいったん置いておくわ。まずは推論の続きよ。沙希の説明、それから神月代櫻が優季奈に語りかけた内容から考えて、神月代櫻にとっての糧とは人の想い、それも正と負があるなら、きっと正の想いでなければならない。それをどのように吸収するかなんて想像もできないけど」



 やはり沙希が目を見張っている。さすがに綾乃だと感心しているところだった。

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