第060話:ひび割れていく三人の関係

 織斗おりとの自室で汐音しおんは完全にくつろぎ状態だ。綾乃あやのがいないことも大きいだろう。


 大きな窓枠に少しばかり腰をかけ、無言のまま外の風景を何げなしに眺めている。しばらくしてから、ようやく汐音が口を開く。



「織斗、やっとカーテンをつけられるようになったんだな。よかったな」



 何度となく織斗の自宅に遊びに来ている汐音だ。その辺の事情は織斗から聞かされている。



「まさか、カーテンがない裏側にあんな理由があったなんて想像さえしてなかった」



 一生涯いっしょうがい、誰にも話さないと決めていた。それがこのような状況になるとは、織斗自身もいまだに信じられない。夢ではないか、幻ではないかと想うことさえある。



「織斗、鷹科たかしなさんがいない今だから言っておく。本気で佐倉さくらさんを調べたいなら俺が力になる。先日、アメリカの大学を受験するって話しただろ。そこには俺の叔父がいる。遺伝学のスペシャリストだ。俺もその道へ進む」



 織斗が驚愕の表情を浮かべている。間違いなく汐音も医学部志望だったはずだ。しかも脳神経外科を目指すと公言していた。それがどうして遺伝学なのか。いつ心変わりしたのだろう。



「遺伝学を専攻って、医学部の脳神経外科ではなく、理工学部の遺伝学なのか。どうしてまた、その叔父さんとの関係は」



 深入りするべきではない。それでも汐音の家庭事情を知っている織斗にしてみれば、叔父との関係性が気になって仕方がない。



「ああ、その点は心配無用だ。俺がアメリカの大学に進みたい一番の要因は叔父の存在なんだよ。叔父は父のすぐ下の弟で、父とは全く反りが合わず、顔を合わすたびに喧嘩をするほどだ。思考の方向性が真逆なんだよ。だからなんだろうな。俺とは妙に気が合うんだ」



 汐音が来秋にはアメリカに行ってしまう。それを考えると寂しい限りだ。


 一方で汐音の性格を考えれば、日本にいるよりもアメリカに行った方が伸び伸びと研究に専念できるに違いない。何よりも家族の下から離れることで窮屈な生活からも解放されるだろう。



「本当にアメリカに行ってしまうんだな。この前も言ったけど、寂しくなるよ。汐音はこの三年間、声が出せない俺をずっと支えてきてくれた。出逢いこそ最悪だったけどな。本当に感謝しているよ」



 椅子から立ち上がった織斗が汐音に深々と頭を下げる。心からの感謝の気持ちを伝える。言葉と色が戻った織斗には、これまで以上に汐音が身近に感じられる。



「織斗、俺も同じだよ。お前は俺の境遇を知っても、同情などではなく、あくまで対等な関係で俺と向かい合ってくれた。それが俺にはどれほど嬉しかったか」



 汐音が織斗に向けていた視線を窓の外に向ける。その表情から照れ隠しだとすぐにわかる。



「汐音は感情がすぐに顔に出てしまうからな。少しは気をつけた方がいいぞ」



 外を眺めたままの汐音が反論を返す。



「そんなことがわかるのは織斗、お前ぐらいだぞ。それに、お前になら感情を読まれたところで何の問題もない」



 確かに織斗は幼い頃からの特性で他人の感情が読みやすい。だからこそ汐音に伝えておきたいのだ。



「最終的には汐音が決めることだけど。アメリカに発つ前に鷹科さんにも話をしておくべきだと俺は想う」



 汐音の視線が再び織斗をとらえる。その瞳は落胆と悲哀が混じり合っている。それでも織斗は真っ向から見つめ返す。



「汐音、俺も鷹科さんと真剣に向き合うつもりだよ。声が出ないことを理由にして、鷹科さんにははっきりと告げてこなかった。そのつけが今まさに出ているんだ。こんなことでは鷹科さんにも優季奈ゆきなちゃんにも迷惑をかけるだけだ」



 汐音はゆっくりとうなづきつつ、独り言のように呟く。



「そうか。決定打になるんだな。鷹科さん、悲しむな」



 織斗も重々承知のうえだ。


 優季奈に出逢わないまま、綾乃と出逢っていたならどうなっていただろうか。仮定の話をしても意味がないし、現実はそんなに都合よくいくものではない。何よりも織斗の心の中にいるのは優季奈ただ一人だ。



「汐音、ごめん。もっと早くに」


「言うな。それ以上はお前の言葉でも聞きたくない」



 入学式以来、親友になってから初めて見せる激情に身を任せた汐音を前に、織斗は口をつぐまざるを得ない。



「いいか織斗、鷹科さんの気持ちはお前にしか向いていない。そのお前は鷹科さんではなく、佐倉さんしか見ていない」



 汐音は一呼吸置くと、再び言葉を継いだ。



「三角関係だけでも厄介なのに、四角関係にしてどうするんだよ。それに漁夫の利なんてないんだ。俺の出番はどこにもないんだ。この話はこれで終わった。二度と俺の前でするなよ。いいな、織斗」



 汐音の言葉が織斗を苦しめる。反論の余地はどこにもなかった。



「こんな話、鷹科さんには聞かせられないだろ。だからこのままでいいんだよ。わかってくれ」



 今度は汐音が頭を下げてくる。織斗はこれ以上、何も言えなくなってしまった。この短時間でいったい何度目だろう。二人の間に気まずい空気が漂っている。



 織斗のいつもの癖で部屋の扉は開放されたままになっている。二人の声が次第に大きくなっていったことも影響していただろう。



 扉のすぐ外、織斗と汐音からは決して見えない位置に綾乃と沙織が立っているなど、二人が気づく由もなかった。




 お盆を手にした綾乃あやのの手が小刻みに震えている。紅茶の入ったティーカップ三客がその震えに合わせて揺れ動く。


 綾乃と目が合った沙織さおりは右手人差し指を唇に軽く添え、綾乃が手にしていたお盆をそのまま引き取った。綾乃にだけ聞こえる小声てささやきかける。



「私だけ中に入るから。綾乃さんはここでじっとしているのよ。声を出してもだめ。我慢してね」



 小さく頷く綾乃の何と弱々しいことか。沙織が部屋の中に向かって声をかけた。



「織斗、入るわよ」



 織斗の返事を待たずして沙織が室内に入っていく。織斗も汐音もぎこちない表情を向けてきている。



(仕方がないわね。あのような話をしていた直後だものね)



「お母さん、紅茶をありがとう。鷹科さんは」



 お盆を織斗に手渡した沙織が答える。



「ミルクとお砂糖の用意をしてもらっているわ。すぐに上がってくるでしょう。その前に、汐音君、アメリカに行くって本当なの」



 聞かれてしまいましたか、とばかりに汐音が頭をいている。



「はい、アメリカの大学に進学します。そこには尊敬する叔父がいますので」



 沙織は最も聞きたかったことを尋ねる。自分がではない。綾乃の代理としてだ。



「そう、汐音君がいなくなると寂しくなるわね。ところで、どうして綾乃さんに話しておかないの」



 沙織の質問に応じて、汐音が言葉をつむぎ出す。



「織斗のお母さんなら、必ずその質問も来るだろうと予想していました。織斗にも言ったんです。今の三人の関係を壊したくないって。恥ずかしい話ですが、鷹科さんが織斗だけを見てきたように、俺もまた鷹科さんだけを見てきました。そして、どちらも決して報われない」



 淡々とした口調が諦観ていかんを示している。汐音がそこまでの想いを抱いていたとは、さすがに沙織でも想像できなかった。

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