第061話:綾乃の涙と決断

 汐音しおんにかけるべき言葉が見つからない。綾乃あやのが面と向かってこの場にいたらどうなっていただろうか。それでなくとも話は筒抜け状態なのだ。



「汐音君」



 ようやく沙織さおりが口を開いたその時だ。扉の外から大きな物音が響いてきた。


 織斗おりとと汐音は、綾乃がミルクと砂糖を持って上がってきたところだと素直に信じている。事実を知る沙織はもちろん違う。



(綾乃さん、我慢できなかったのね。こんな話を聞いてしまったら無理もないわね)



 織斗が立ち上がって出ていこうとするところを沙織がすぐさま制する。



「織斗はそこで紅茶の準備をしていなさい。私が見てくるから」



 織斗の返事を待つまでもなく、沙織が部屋の外へ出ていく。沙織の方が扉に近い位置に立っていたのだ。織斗は素直にうなづくと、小さなテーブルにティーカップを乗せたお盆を運んでいく。汐音も近寄ってくる。



「なあ織斗、もしかして鷹科たかしなさんに少しは聞かれてしまったかな」



 織斗にだけ聞こえる小声だ。途中から声が大きくなっていることには気づいていた。一部は聞こえてしまったかもしれない。確信が持てない織斗は、わからないとばかりに首を横に振るだけだった。




 綾乃は壁を背にしたまま一歩も動けなくなっている。明らかに精神的に参っているようだった。汐音の言葉を聞いていたのだ。当然の反応だろう。


 辛うじてミルクポットは手にしているものの、シュガーポットが足元に落ち、中の砂糖が床に散乱している。先ほどの音の正体はこれだった。



「綾乃さん、怪我はないようね。すぐに下に戻るわよ」



 部屋から出てきた沙織は即座に綾乃の状態を確認する。安堵しつつ、綾乃の手からミルクポットを引き取ると、砂糖が散乱する床に無造作に置いた。



「織斗が出てくるかもしれないわ。一緒に行きましょう」



 綾乃の腕を抱いてゆっくりと階段を下りていく。リビングルームに戻るまで、二人の間に会話はなかった。



(全てを聞いてしまったものね。辛いわね、綾乃さん)



 下りてきた二人を見て、利孝としたかはすぐに異変に気づいた。綾乃と沙織の表情が全てを物語っている。



「綾乃さんを隣の部屋に案内してあげて。しばらくお願いしますね」



 皆まで言う必要はない。沙織の伝えたいことは利孝にはすぐに理解できた。



「織斗たちは」



 言いかけた途中で言葉をみこむ。沙織の目を見た瞬間、利孝は瞬時に悟った。



(あっ、これはまずい。沙織さん、かなり怒っているな。織斗、いったい何をやらかしたんだ。私は知らないぞ)



「私は二階に行ってきます」



 それだけを言い残して沙織はとんぼ返りで、静かな怒りをたぎらせながら、二階へと上がっていった。




「綾乃さん、こちらに」



 沙織がアクセサリー制作室兼材料置き場として使っている部屋に招き入れる。綾乃は利孝の言葉に大人しく従うだけだ。



「ご迷惑をおかけします」



 小声で答える綾乃の瞳は充血している。泣き腫らしたあかしだった。



「綾乃さんは何の迷惑もかけていない。気にする必要はないよ。もし一人になりたいなら、私は隣の部屋へ戻るけど」



 綾乃が弱々しく首を横に振る。一人になるのは心細いのだろう。先ほどの沙織との会話も相まって利孝は心が痛んだ。



(こんな綾乃さんを見るのは初めてだな。織斗はいったい何をやってるんだ)



 この状況は利孝にとって、いささか居心地が悪い。いくら綾乃が織斗の友人とはいえ、年頃の女性と二人きりだ。早く沙織が戻ってきてくれることを願うしかない。



(それは期待できそうにもないな。間違いなく長い説教になるだろうからな。まあ自業自得だな)



 少しずつ落ち着きを取り戻しつつある綾乃をじっと見続けるわけにもいかない。利孝が視線を切ったと同時、綾乃がささやくようにして言葉をこぼした。



「気持ちの整理がつくまで、風向君、真泉君とはしばらくの間、距離を置きます」



 利孝からなぜと理由を問うことはない。後ほど沙織から聞けば済む。今は綾乃の話を聞いてあげることこそが重要だ。



「私も今の関係を壊したくないのは同じなんです。でも、このままではだめになってしまいます」



 綾乃はひざの上に置いた両手に視線を据えたまま語り続ける。利孝は無言で綾乃の言葉に耳を傾け続ける。



「私、志望校に現役合格して、一日でも早くあの家を出たいんです。それなのに、こんな気持ちのままだと、私」



 綾乃の言葉が途切れる。膝に置いた両手に涙の小さな粒が零れ落ちる。



「綾乃さん、これを」



 利孝は取り出したハンカチをそっと綾乃の手の上に置いた。



「ありがとうございます」



 涙をぬぐいながら綾乃が言葉をゆっくりとつむいでいく。



「落ち着いたら、またお邪魔してもいいですか」



 しばらく距離を置くという綾乃の決断は尊重すべきだ。高校三年生といえば、多感な年頃でもあり、さらには人生を左右しかねない受験という一世一代ともいえる勝負を控えている。


 とりわけ、響凛きょうりん学園高等学校での綾乃の成績をかんがみると、多方面から相当の重圧がかかっているに違いない。


 利孝は綾乃を見つめながら、彼女の想いが叶うよう祈るしかできなかった。



「綾乃さんなら、いつでも大歓迎ですよ」



 ようやく顔を上げた綾乃がぎこちない笑みを浮かべてみせる。



「私、今日はこれで失礼します。こんな恥ずかしい顔のままで二人と会いたくないですし」



 綾乃よりも先に利孝が立ち上がる。



「綾乃さん、本当に申し訳ない。本来なら織斗に謝罪させるべきですが、今は沙織さんにこってり絞られていることでしょう。代わりに私が」



 綾乃に向かって頭を下げる。慌てて立ち上がった綾乃もまた頭を下げる。はたから見れば、二人して何をしているんだ、になっているに違いない。



「綾乃さんは頭を下げなくていいんですよ。私は車を用意してきます。綾乃さんのご自宅まで送りますね」



 部屋の扉を開けて先に利孝が出ていく。その背に向かって綾乃が声をかける。



「あの、風向君のお父さんだから言うんじゃないんです。私、風向君も真泉君も恨んでいません。ただ、ただ」



 利孝は振り返らず、綾乃のための言葉を紡ぎ出す。



「想ったことは言葉にしないとわかりません。黙っていても、相手はわかってくれる、察してくれるなんて、思い上がりもいいところです。夫婦でさえ無理なのですからね。織斗も汐音君もまだまだ子供です。そこまで理解が及んでいないんですよ」



 言葉を切ると、利孝はわずかに振り返る。



「先ほども言ったとおりです。綾乃さんは迷わずに想いの全てをぶつけなさい。織斗にも、汐音君にもね。そうすることで壊れてしまう関係なら、はなからその程度のものということです」



 綾乃の返事を待つまでもなく、今度こそ利孝は立ち止まらず部屋を後にした。綾乃は無言でその背を見送る。



(厳しい言葉の中に優しさもこめられている。それに夫婦でも、なのね。やっぱり私たちなんて子供なのね。私はもっと大らかになった方がいいのかな)



 悩みは尽きないものの、綾乃の表情は幾分穏やかになっている。利孝の言葉を噛み締めながら、少しだけほっとする自分を実感していた。

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