第059話:医師の役目と綾乃の決断

 織斗おりと綾乃あやの汐音しおんの三人は鞍崎くらさき河原崎かわらざきからの昼食の誘いを丁重に断り、そろって織斗の自宅前で下ろしてもらった。



 下車直前、河原崎の口からこぼれた言葉が織斗の頭の中を駆け巡っている。



「風向さんも気づいたでしょう。加賀かがさん、長谷部はせべさんにとって佐倉優季奈さくらゆきなさんはもはや患者ではありません。彼らの中では既に終わっているのです。彼らが見ているのは今を生きている人々です。救うべき患者の顔だけを見ています。私の言っていることが理解できますか」



 もちろん織斗も気づいていた。


 加賀も長谷部も話だけは真剣に聞いてくれた。そのうえで秘密も守ると約束してくれた。それだけだ。二人の態度を見れば一目瞭然、協力的でも積極的でもない。傍観者に徹するがごとき態度だった。


 織斗にとっては予想外すぎた。優季奈を調べるには、どうしても医師の力が必要であり、喜んで協力してくれるだろうと勝手に思い込んでいたのだ。



「今を生きている人々だけを見ている、か」



 汐音が織斗のつぶやきに反応する。綾乃もほぼ同時だった。お互いに先にどうぞとばかりに譲り合っている。ここはやはり女性優先と決まったようだ。



風向かざむかい君、優季奈のことを調べたいという気持ちがあるのでしょう」



 綾乃が真正面から向き合ってくる。織斗は一瞬返答に詰まってしまった。本心はどうなのだろう。河原崎に答えたとおり、織斗にとって優季奈は優季奈だ。何があろうとも、そこに一切のぶれはない。



「織斗、少しでも疑問があるなら解決しておくべきだ。中途半端な気持ちで残り時間も限られている佐倉さんに向かい合うのは失礼だろ。お前に少しでも迷いがあれば、佐倉さんにも確実に伝わるぞ」



 それでもいいのかと汐音が問いかけてきている。織斗にとって優季奈こそが全てだ。二度と哀しい想いをさせたくない。だからこそ、心の中にわずかでも憂いがあるなら、取り除いておくべきだ。織斗はようやく決心がついた。



「ありがとう、鷹科さん、汐音。二人の言うとおりだよ。俺、ずっと迷っていたんだ」



 優季奈が生き返った謎を何としてでも解き明かしたい。医師でもない、学者でもない、いち高校生の自分には大それた考えだと十分すぎるぐらいに理解している。


 それでも織斗は止まりたくない。止まるつもりもない。謎の解明が優季奈のこの先の命に繋がっていく。織斗は確信している。織斗が考えている鍵は車内で語ったとおり、一つは神月代櫻、もう一つは優季奈本人だ。



「優季奈ちゃんの謎を解くためには、優季奈ちゃんの身体を調べる。それが最善の方法じゃないかと想っている。でも、そんなことはしたくない俺がいるのも事実なんだ」



 綾乃が織斗の左腕上着をぎゅっと握ってくる。



「もし調べたら、優季奈ではないと判断されるかもしれない。風向君はそれを恐れている」



 綾乃の不安な気持ちがそのまま織斗にまで伝わってくる。



「そうなった時、どうしたらいいのかわからないんだ。同一性など気にしないと言っておきながら、いざ断定されてしまうと。そんなの本末転倒だよ」



 綾乃にも汐音にも織斗の気持ちが痛いほどにわかる。汐音が口を開こうとしたところで、玄関の扉が開き、沙織さおりが顔を見せた。



「あら、綾乃さんに汐音君、お久しぶりね。玄関前でどうかしたの」



 機先を制された形で汐音は出かけた言葉をみこむ。織斗がその場にいながら、穏やかではない三者三様の空気が漂っている。沙織は素早く三人に目を走らせた。



「織斗、早く中に入ってもらいなさい」



 察した沙織が織斗を促す。織斗は小さくうなづくと、沙織の言葉どおりに綾乃と汐音を自宅に招き入れた。



 綾乃も汐音も織斗の両親とはこれまでに何度となく顔を合わせている。それぞれの家庭環境によって異なるものの、二人は初めて訪問した時から居心地のよさを感じていた。



「織斗、汐音君と一緒に部屋に行ってなさい。綾乃さんはこちらに来てくれる」



 織斗が不思議そうな顔を浮かべながら沙織に尋ねる。



「お母さん、鷹科たかしなさんをどうする」



 途中でさえぎって沙織が言葉を差し挟む。その表情を見て織斗は気づく。



(ほんと、かなわないよな。鷹科さんのことまで。ありがとう、お母さん)



「どうもしないわよ。綾乃さんには紅茶の手伝いをしてもらうだけよ」



 綾乃の趣味が紅茶だということはもちろん沙織も知っている。織斗は言葉ではなく心の中で沙織に感謝し、綾乃に柔らかな笑みを向けた。綾乃は微妙な表情ながらもわずかに笑みを返す。


 織斗が汐音を連れて二階へと上がっていく。綾乃は無言で二人の後ろ姿を見送った。


 二人の気配が完全に消えてから、沙織がおもむろに言葉を発する。



「綾乃さん、大丈夫、じゃないわね。綾乃さんも優季奈さんの話は聞いているのね。織斗はまだ何も言っていないのでしょう」



 綾乃は小さく首を縦に振ってみせる。綾乃が見せる表情に沙織は胸が苦しくなる。哀しみを満面にたとえ、今にも泣き出しそうだ。三人でいる時は相当に我慢しているのだろう。



「沙織さん、私もどうしたらいいのかわからないんです」



 綾乃が織斗と過ごした時間は優季奈の倍以上になる。出逢いは高校入学直前の春休みだ。それ以来、綾乃の想いは徹頭徹尾変わっていない。鞍崎凪柚くらさきなゆこと佐倉優季奈が恋敵こいがたきになろうとも、譲るつもりなど毛頭なかった。あの話を聞いてしまうまでは。



「私、自分をよい子に見せたいばかりに、この一年間は優季奈に風向君を譲ってあげる、なんて馬鹿なことを。でも私の気持ちは変わらないし、変えられない」



 沙織と綾乃、年齢は離れていようとも女同士なのだ。綾乃がいだく気持ちは痛いほどに理解できる。


 そんな二人の様子を少し離れたところから利孝が見つめている。彼の表情もまた苦悶に満ちていた。


 綾乃は優季奈の代わりではない。またその逆もしかりだ。


 沙織も利孝も、織斗が時の流れの中でいずれ優季奈を忘れていくに違いないと考えていた。そして、織斗が初めて綾乃と汐音を自宅に連れてきたその日、綾乃が織斗に寄せる想いを察した。決して口には出さないものの、織斗の前に綾乃のような女性が現れてくれたことを心から感謝もした。



(優季奈さんがいなければ、間違いなく綾乃さんが。いや、言ったところで詮無せんなきことか。三年経った今でも、織斗の優季奈さんに向ける気持ちは何一つ変わっていない)



 沙織の視線がわずかに利孝に向けられる。利孝は頷いてみせた。



「綾乃さん、織斗の母親ではなく、一人の女としての意見よ」



 綾乃の華奢きゃしゃな肩が小さく震えた。沙織は優しく両手を綾乃の肩にかける。



あきめる必要なんてどこにもないわ。綾乃さんにとって大切な想いならなおさらよ。綾乃さんは綾乃さん、優季奈さんは優季奈さん、比べること自体が無意味でしょう。もっと我がままになっていいのよ」



 驚きのあまり思わず顔を上げてしまう。綾乃の頬にはうっすらと涙の糸が見えている。



「可愛い顔が台無しよ」



 沙織がハンカチで綾乃の両頬を伝う涙の糸を優しくぬぐっていく。綾乃は沙織のなすがままだ。



「沙織さん、子供扱いしないでください。私だって、もう十八歳に」


「そうね。綾乃さんはとても素敵な女性よ。でも、私からすればまだまだ子供でもあるわね。織斗に比べれば、十分に大人だけど」



 言葉にしたことで少しは気も晴れたか、綾乃は何度かの深呼吸を繰り返した。その様子を見た沙織が肩に置いた両手を離す。



「もう大丈夫そうね。綾乃さん、今度は織斗の母親として言っておくわね。綾乃さんと優季奈さんは対等よ。綾乃さんは優季奈さんの話を聞いて、同情心を抱いてしまった。そうでしょう」



 綾乃は素直に頷く。沙織の言うとおりだった。綾乃は確実に一歩どころか、大きく引いてしまった。自分の想いを殺してでもそうすべきだと、あの時点では正しい選択だと想ったのだ。



「私も優季奈の願いを叶えてあげたい。この一年間だけなら私が我慢さえすれば、優季奈も風向君も」



 綾乃の言葉に、沙織は即座に首を横に振った。



「綾乃さん、譲るとか我慢するとか、優季奈さんに失礼よ。綾乃さんは自分の想いをしっかりぶつければいいの。それとも、綾乃さんの想いはその程度の薄っぺらいものなの」



 綾乃は即答だ。



「違います」



 そこに一切の迷いはない。



「私の想いは優季奈にも、誰にも負けません」



 沙織の愛情のこもった眼差しを前に綾乃は素直に想う。



「私、沙織さんの娘だったらよかったのになあ」



 汐音同様、綾乃の家庭事情は沙織もある程度なら把握している。全ては織斗からの伝聞にすぎない。それゆえに真実かいなかはわからないものの、実際に二人が苦しんでいるのもまた事実だった。



「そんなことを言ったら綾乃さんのご両親が悲しむわ。それに私の娘になったら、織斗とは姉弟になってしまうわよ」



 ここで両親の話題を出してほしくない。綾乃は苦々にがにがしい表情を浮かべつつ、沙織の続きの言葉に少しばかり笑みを零してしまう。



「確かに、沙織さんの娘になったら、そうですね。私と風向君はどちらが上なのですか」



 綾乃がどちらを期待しているか沙織にはわからない。



「もちろん、綾乃さんがお姉さんね。綾乃さんと織斗なら、精神年齢差を考えるまでもなくそれが自然よ」



 利孝が笑いながらしきりに頷いている。



「綾乃さん、私たちは何もしてあげられない。もちろん助力を求められたら相応のことはできるでしょう。ですが、最終的に決めるのは織斗自身です。だから綾乃さんも迷わず全力でぶつかっていけばいい。十八歳という貴重な一年を後悔しないためにもね」



 沙織にしても利孝にしても、既に最終的な結論は見えてしまっている。織斗の気持ちが誰に向いているのかは明白だからだ。無論、そのことは綾乃自身も自覚している。



(綾乃さんの気持ちを考えると心が痛むな。何とかできるものならしてあげたいが、これもまた運命か。それにしても織斗にはもったいないほどだな)



 利孝が向けてくる優しい目を見つめながら、綾乃は心の想いをさらに強くする。



(もう一度だけ、風向君に私の想いの全てをぶつける。風向君が私を選んでくれないのは辛いけど、このまま中途半端な状態が続くよりはよほどましよね)



 沙織と利孝に後押しされた綾乃は、織斗にこばまれるとわかっていながらも、今一度想いを正直に伝える決意を固めた。


 綾乃にとっても前に進むために絶対に必要な決断だった。

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