第058話:優季奈の同一性

 大型連休は早くも半分が過ぎ去っていた。


 今日は土曜日、早朝から出かけていたものの、既に昼下がりの時間だ。


 織斗おりとの姿は鞍崎慶憲くらさきよしのりの運転する車内にあった。助手席に汐音しおん、後部座席に奥から河原崎達哉かわらざきたつや医師、織斗、綾乃あやのの順で収まっている。優季奈ゆきなはいない。


 運転しながら鞍崎慶憲が話しかけてくる。



「織斗少年、それに鷹科たかしな君も真泉まいずみ君もわかっているだろうが、今日の話は口外禁止だ。河原崎さんは無論のこと、加賀かがさんにも長谷部はせべさんにも守秘義務を徹底していただく」


 織斗には、この不可思議極まる事象の秘密が守られるなら異論など一切ない。



「秘密を知る人間は少なければ少ないほどいい。そうですね、河原崎さん」



 問われた河原崎は柔和な笑みを浮かべながら素直にうなづいた。


 笑みの奥に幾つかの感情が見え隠れしている。最も大きなものは何だろうか。織斗でもそこまでは読みきれない。経験値が全く違う。しかも河原崎は現役医師で百戦錬磨だ。すぐにあきらめて話題を変える。



「鞍崎さん、このことは優季奈ちゃんは」



 鞍崎が首を横に振る。



美那子みなこ光彰みつあき君から了承を得ている。必要と判断すれば私が優季奈に伝える。それでよいか」



 優季奈の両親が了承しているのだ。織斗がどうこう言う筋合いではない。ただ一つだけだ。どうしても確かめておかなければならない。



「鞍崎さんはもちろん、河原崎先生、加賀先生、長谷部先生は俺が信頼を寄せる医師の方々です。秘密がれるとはつゆほども考えていません。そのうえで一つだけです。万が一にでも医療行為と称して、優季奈ちゃんをモルモットの」



 わずかに怒声混じりの鞍崎の声と、驚く汐音の声が重なる。



「織斗少年」


「おい、織斗」



 その先を制する形で河原崎が即座に口を挟む。



「その心配は無用です。この場で約束します。それに加賀さんも長谷部さんも、そのような人物ではありません。風向さんがよくご存じのはずだ」



 ルームミラー越しに鞍崎が、振り返った汐音が、ともに心配そうな目を織斗に向けてきている。


 織斗は心が落ち着かない。秘密を共有する綾乃と汐音は当然として、大人四人も織斗は信頼している。その意味では河原崎の言ったとおりだ。ただし世の中に絶対はない。そのことはまさしく優季奈が証明している。



「織斗少年、君が優季奈を想ってくれていることは十分に理解している。美那子も光彰君も同じ気持ちだ。三年前に比べ、織斗少年は確かに強くなった。それでも今の君にできることは限られている」



 織斗は鞍崎の言葉を心の中で反芻はんすうする。



(もっと大人を信じて任せろ、ということか。今の俺が優季奈ちゃんを守ると言ったところで、実力行使に出られたらいったい何ができるのか。何もできない)



「風向さん、私たち大人が全面的に信頼できないと想うなら、それでもよいのです。大人には打算的な部分もありますからね。かなり飛躍しますが、たとえばですよ」



 河原崎の口から発せられた内容に織斗は頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けていた。河原崎は何を言ったのか。


 もしも優季奈の秘密を解き明かせばノーベル賞確実と言われたら、ノーベル賞と言わずともその者にとって権威付けできるものなら、心が動いても何ら不思議ではない。


 あまりに飛躍的すぎる比喩だ。それでも可能性は皆無ではない。何よりも秘密が外部に漏れないように徹底することこそが肝要、そう言ったのだ。



「佐倉優季奈さんを話題にするに際しては、細心の注意を払う必要があります。ところで鞍崎さん、両家のご両親はともかく、私たち以外にこの秘密を知る者は」



 河原崎の問いかけに鞍崎が即答で返す。



「他には福永ふくなが校長と担任の磯神いそがみ君です。二人はあの場にいましたからね。黙っておくわけにもいきません。それに優季奈の今後の学校生活を考えれば、知っておいてもらった方が何かと好都合です」



 河原崎が頷いている。同感ということだろう。響凛きょうりん学園高等学校の副理事長と嘱託医しょくたくい、立場は違えど、今や秘密を共有する同志でもある。



「今のところ全部で九人ですか。これ以上は増やさない方がよいかもしれませんね」



 河原崎が視線を織斗に向けてくる。何か質問はないかと問うてきている。織斗は一呼吸置くと、河原崎と視線を合わせゆっくりと言葉を発した。



「河原崎先生は優季奈ちゃんの話を聞かされた際、どのように受け止められたのでしょう。人生経験が豊富な先生の意見をぜひ教えていただきたいです」



 河原崎が頷いてから視線を前に戻す。わずかに上方向、思案しているようにも見える。



「医師としてではなく、あくまで一個人としての意見です」



 前置きの後、河原崎は静かに言葉をつむぎ出していく。穏やかで優しい口調でありながら、威厳さえ感じてしまう。河原崎が醸し出している貫禄がそのように想わせるのだろう。



「世の常識に照らし合わせるなら、ありない話です。死んだ人間が生き返る。話を聞く限り、過去の記憶さえ有している。まさしく常軌を逸しています。しかしながら、佐倉優季奈さんとおぼしき女性が現れたのもまた事実です」



 織斗は思わず苛立ちのあまり突っ込んでしまっていた。



「思しき、ですか」



 すぐ横で聞いている綾乃が緊張している。織斗の感情の波を感じ取っているのだろう。


 河原崎が再び織斗に視線を傾けてくる。その目が再び問いかけてきている。彼女は本当に佐倉優季奈なのか。彼女は三年前に亡くなっているのだ、と。



「ええ、そうですね。佐倉優季奈さんの十五歳から十八歳になるまでの姿は誰も知らないのです。そこで鞍崎さん、風向さんに問います。どうしてこの女性を間違いなく佐倉優季奈さんだと断定できたのでしょう」



 いきなりの鋭い質問に二人とも黙りこんでしまう。突き詰めて言うなら、鞍崎も織斗もただの直感でしかない。言い換えるなら主観的判断で優季奈だと認めているにすぎない。論理的かつ客観的証拠はどこにもないのだ。



「ところで、私もその女性は佐倉優季奈さんだと考えています」



 織斗は驚きのあまり、正面を向いたままの河原崎の横顔を思わず凝視してしまう。運転中の鞍崎は振り返りはしないものの、織斗と同様の反応だ。



「一個人としては断定など不要ですよ。佐倉優季奈さんと信じるに足る何かがお二人にはあった。それでよいではありませんか。非現実的な話とはいえ、私も信じてみたいのですよ」



 河原崎の願望だった。織斗も鞍崎も言葉はない。むしろ出てこない、と言った方が正しいのかもしれない。それは次の言葉を聞いてさらに強くなった。



「私は若くして妻を亡くしていましてね。医師として昼夜問わず働いてきました。その激務のあまり、彼女の病に気づいてあげられなかった。気づいた時には手遅れで、最後もそばにいてあげることができませんでした。医師としても、人としても失格です。逢えるものなら逢いたい。そして、あの時のことを心から詫びたい。いや、つまらない話をしてしまいました」



 多くは語らないものの、河原崎が浮かべる笑みの奥の感情、それが織斗にもようやく見えた瞬間だった。深い哀しみと後悔、そして幾ばくかの喜びだ。織斗は涙がこぼれそうになった。綾乃も汐音も同様だ。



「すみません。俺が尋ねたばかりに」



 織斗の発する声が震えている。



「いえ、構いませんよ。大切な人を亡くしてこそわかることもあるのです。そういった意味では、ここにいる鞍崎さん、風向かざむかいさん、私はまさしく同志でもありますね」



 鞍崎は思わず舌打ちしそうになったところで、織斗の言葉が挟まる。



「鞍崎さんと俺は優季奈ちゃんを、河原崎さんは奥様を亡くしている。言葉は変かもしれませんが、確かに同志なのでしょうね」



 ルームミラー越しに今度は鞍崎と河原崎の視線が交錯する。河原崎は申し訳なかったとばかりにわずかに頭を下げてみせた。



「ここからは医師としての意見です。この女性が佐倉優季奈さんだと断定する論理的かつ客観的な方法があります」



 すかさず綾乃が口を開く。



「DNA(Deoxyribonucleic Acid、デオキシリボ核酸)型鑑定あるいは血液型鑑定ですか」



 織斗もその程度の知識は持っている。すぐさま疑問が浮かび上がってくる。



「いずれの鑑定をするにしても、優季奈ちゃんが亡くなる前のサンプルが必要になるのではありませんか」



 織斗の疑問はもっともだ。同一人物か否かは比較すべき同一のサンプルが必要だ。たとえば血液や毛髪といったものが該当する。三年も前に亡くなっている優季奈のそれらが今さら入手できるとは考えられない。



「ええ、あの時の佐倉優季奈さんは病死です。事件性もありません。何も残っていないと考えるのが妥当でしょう。しかしながら、佐倉優季奈さんの病状は確定できないままでしたね。未診断疾患みしんだんしっかんの場合、血液などが残されている可能性もあります」



 真っ先に反応したのは綾乃だ。たまらず言葉を発する。



「ま、まさか、病理解剖びょうりかいぼうしたのですか」



 わずかに非難の気持ちがこめられているのは仕方がないだろう。



「いえ、病理解剖にはご両親が同意されなかったと聞いています」



 ただ一人、答えを持っている鞍崎が応じる。



「そのとおりです。優季奈の両親、そして私も反対しました。当然でしょう。将来の医療のためだとわかっていても、優季奈を解剖するなど同意できるはずもない」



 鞍崎の憤怒ふんぬがひしひしと伝わってくる。他人の織斗でさえ全く同意見だった。病理解剖など死者への冒涜ぼうとくではないか。



(未熟な考えなんだろうか。もし俺が医師になったら、この考えも次第に変わっていくんだろうか)



 その想いをもって河原崎に視線を転じる。



「病理解剖には二面性があります。一つは鞍崎さんがおっしゃったとおり、今後の医療に生かすためです。同じような患者さんを救うには、どうしても必要ですから」



 もちろん理解はできる。万が一、優季奈のような症状で苦しむ子供を目の前にしたら、織斗でも心を動かされるだろう。



「もう一つは風向さん、あなたが考えているとおりです。敬意の問題です。死者の身体にメスを入れる。仕事だと割り切っても、割り切れない部分もありますよ。私たちは医師である前に一人の人間ですからね」



 織斗は素直に感じていた。やはり経験を積んできた人間の言葉は重い。人の生死に直接関わってきた医師の、河原崎の言葉は抵抗なく織斗の心の中に強く、深く浸透していった。



(医師である前に一人の人間、その域に達するにはどれほどの歳月が必要なんだろう)



 今日は考えさせられることばかりだ。織斗は深く息をつき、今後のかてになるに違いない幾つもの言葉を噛み締めていた。



「風向さん、三年前と今の佐倉優季奈さん、同一性が必要ですか。どうしても必要だと言うなら、私から」



 織斗の答えははなから決まっている。



「いえ、必要はありません。俺にとって、三年前であろうと今であろうと、優季奈ちゃんは優季奈ちゃんです。何も変わりはありません」



 柔和な笑みをたたえたままの河原崎が何度も首を縦に振っている。鞍崎もまた運転に集中しながらしきりに頷いていた。



「優季奈ちゃんの同一性は問題視していません。俺が知りたいことは他にあります。優季奈ちゃんがどうして生き返ったのか。しかも一年という期限付きです。この謎を何としてでも解き明かしたいのです。そうすれば優季奈ちゃんの病の謎にも迫れると確信しています」



 鞍崎慶憲が問いかけてくる。



「織斗少年、手がかりになるようなものはつかめているのか」



 織斗が頷く。



「今の俺が考えている鍵は二つです。神月代櫻、そして優季奈ちゃんです」

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