第055話:綾乃の手ほどきの成果

 リビングルームに通された織斗おりとたち三人は、美那子みなこたちと初対面ではないものの、佐倉さくら家に足を運ぶのは毎月訪れている織斗を除けば、沙織さおりは数回足らず、利孝としたかに至っては初訪問となる。


 優季奈ゆきなの死は、足を遠ざける理由としてあまりにも十分すぎだ。


 本来なら、連休中に風向かざむかい家に遊びにきてもらうはずだった。優季奈が楽しみにしていたからだ。その予定を変更してまで、先に佐倉家にお邪魔することになった。ひとえに今日が優季奈の月命日だったからだ。



「美那子さん、どうぞ召し上がってください」



 早速とばかりに、沙織が持参したスイーツを美那子に手渡す。目敏く見つけた優季奈が思わず声を上げた。



「あっ、このお店」


「優季奈ちゃん、覚えていてくれたんだ」



 忘れるなんてできるはずがない。優季奈にとって、最も幸せな一日の最高の想い出なのだ。


 優季奈の喜んでいる表情を見て、沙織も織斗も胸を撫で下ろすと同時、こみ上げてくる嬉しさを感じている。どうやら美那子も気づいたようだ。



「沙織さん、わざわざ買いに行ってくださったんですね。優季奈のために。覚えてくれていたんですね」



 涙ぐむ美那子に優季奈が応える。



「お母さん、泣かないでよ。私まで泣きそうになるじゃない」




 こういう時に役立ってこそ男だろう。我々の出番だとばかりに、まずは利孝がスイーツの入った箱を手に取った。



光彰みつあきさん、キッチンをお借りしてもよろしいでしょうか」


「ええ、もちろんです。私もご一緒しますよ」



 父親二人が連れ立ってキッチンへと向かう。織斗も悩んだ末、父の後を追うことにした。



 美那子と沙織が話しこむ一方で、キッチンに立っている男たちを不思議そうに眺めながら優季奈が声をかける。



「お父さん、いつもどおり私が紅茶を入れるね」



 光彰が右手を挙げて、了解の合図を送った。連休に入ってからというもの、毎日優季奈が紅茶を入れてくれている。友人から美味しい入れ方を教えてもらったらしい。


 光彰は父として、優季奈の望むことなら、たとえどんなことでも叶えてやりたい。それぐらいの想いで娘と向き合っている。



(本当なら、もっと時間をかけて育んでいってくれたらよかったんだが。優季奈にはその時間もない。織斗君も受験という大切な一年だ。そんな君に娘を託すことを許してほしい。どうか優季奈を頼んだよ)



 父としては複雑な心境だろう。優季奈の一番の願いが何かを知っているからなおさらだ。



「光彰さん、どうかされましたか」



 もの寂しげな表情で優季奈を見つめている光彰がどのような想いでいるのか。利孝は感じ取っている。


 利孝も沙織も優季奈の代償、とりわけ三番目の内容について織斗から説明を受けている。だからこそ、父親として気持ちがわかってしまうのだ。利孝が光彰の立場なら、間違いなく同じ想いを抱く。



「優季奈さん、本当に素敵なお嬢さんですね。それだけに辛いですね」


「既にご存じでしたか。こればかりは人知を超えた力と言うしかありません。私の心は感謝と怨嗟えんさ、この二つがない交ぜになった状態ですよ」



 利孝に返す言葉はない。背後で聞いている織斗も同じ想いだ。


 感情に敏感な織斗は、光彰の心の想いが皮膚を通して浸透してくるようで、たとえようもなく苦しかった。



(怨嗟か。それは俺も同じだし、優季奈ちゃんのお父さんもお母さんもこんなにまで。今の俺に何ができるんだろ)



 いつの間にやってきたのだろうか。キッチンでぎこちなく固まっている男三人を優季奈がいぶかしげに見つめている。気配を察したのか、最初に振り返った織斗が慌てて笑みを浮かべてみせた。



「織斗君、私のために無理はしないでね」



 織斗以上に感情を読み取るのが巧みな優季奈には通用しない。あっさり見破られていた。



「利孝お父さんも、お父さんもだよ。お願いだから、ね」



 全てお見通しの優季奈に迫られ、さらにたじたじになる男たち、なかなかに情けない姿をさらしている。そんな様子を美那子も沙織も呆れまなこで眺めている。何とも印象的な光景だった。



「お父さん、お湯が沸騰しているよ」



 光彰が慌ててガスコンロの炎を消して、二つのケトルをコルクボードの上に乗せた。これもいつもの手順だ。



「織斗君、一緒にしよ」



 名指しされた織斗が戸惑っている。そんな織斗を楽しそうに見つめながら、優季奈が手際よく準備にかかる。



綾乃あやのちゃんに美味しい紅茶の入れ方を教えてもらったの。ほら、あの時、"Conte de Féesコント・ドゥ・フェ"で織斗君たちに逢う前だよ」



 理由は尋ねなかった。どうして学校を休んでいるはずの優季奈と、急いで帰っていった綾乃が一緒にいたのか。織斗はなるほどと納得していた。



「優季奈ちゃん、いつの間に鷹科さんとそこまで仲よくなったの。あの一件以来、ずっと気にはなっていたんだけど」


「内緒だよ。女の子同士の秘密だもの」



 いささかショックを受ける織斗に父の利孝がおよそ慰めにもならない言葉をかける。



「織斗、残念だったな。優季奈さんはお前より綾乃さんの方がいいらしいぞ」



 冗談にしてもたちが悪い。言い返そうとした織斗よりも早く優季奈が口を開く。



「大丈夫だよ。織斗君と綾乃ちゃんを比べるなんてできないから。だって、私にとっての一番はね」



 声がしりすぼみになっていく優季奈に利孝はもちろんのこと、光彰までもが声援を送っている。もちろん言葉ではなく、温かい眼差しをもってして。


 二人の父親に勇気づけられたのか、優季奈は小さな、小さな声でささやいた。



「織斗君だから」




 光彰と利孝、どちらの瞳も慈愛に満ち溢れている。女親と男親、それぞれの立場は違えど、これまでの想像を絶する苦痛や悲哀を考えれば、想いは一つに収束する。




「さて、私たちはお邪魔なようですね。頂戴したケーキの用意だけしてテーブルに運ぶから、優季奈と織斗君は紅茶を頼むよ」



 優季奈が小さくうなづく。



「ところで光彰さん、今日は慶憲よしのり君は来られないのでしょうか」


「兄さんは大切な用事があるとかで手が離せないそうです。ですが、遅れてでも必ず行くからと」



 美那子の兄の話をしながら、二人の父親が手際よくお皿にケーキを並べていく。買ってきたケーキは全部で七種、鞍崎くらさき慶憲の分だけ箱に残しておく。


 用意ができたところで二人はリビングルームへと戻っていった。去り際、利孝は固まったままの織斗の肩を軽く叩いて、しっかりしろよ、と微笑んでみせた。



「さ、さあ、早く紅茶を入れないとね。せっかくのお湯も冷めちゃうよ」



 努めて陽気に振る舞う優季奈の頬は茜色だ。恥ずかしそうに織斗の横を通り抜け、こちらも手際よくポットのお湯をティーポットに注いで温めていく。



「今日はダージリンだよ。綾乃ちゃんのお薦めなんだ」



 ティーポットがしっかり温まったところで、一度お湯を捨て、さらに適切な量の茶葉を入れ、沸騰したお湯を再度注ぎこむ。綾乃ほどではないものの、優季奈のてきぱきとした動きに織斗はまたも見惚みとれてしまっている。



「優季奈ちゃん、すごいね。誕生日の時に美那子さんが言っていたけど、紅茶が本当に好きなんだね。これで優季奈ちゃんのこと、一つ知れたよ」



 言葉はなくとも優季奈が喜んでいることぐらい織斗にもわかる。その証拠に優季奈は天使の微笑みを見せてくれている。



 既にタイマーが動き出している。セット時間はどうやら五分のようだ。



「織斗君、タイマーが切れたらティーカップに静かに紅茶を注いでくれるかな。大丈夫、だよね」


「優季奈ちゃん、ちょっと待って。今のその間は何かな。確かに俺は不器用だけど。それぐらいならできるよ。うん、たぶんだけど」



 突然だった。


 優季奈が織斗の左手を両手で握りしめてくる。織斗は全く反応できず、優季奈の手もすぐに解けていく。



「私、お砂糖とミルクを用意してくるね」



 素早く背を向けてしまった優季奈からの答えはない。手を握ってくれたのが信頼の証だ。織斗は勝手ながらそう考えることにした。



 タイマーが切れるまで残り二分ほどになっている。

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