第056話:織斗と優季奈と神月代櫻

 佐倉さくら家と風向かざむかい家の団欒だんらんが続く中、優季奈ゆきな織斗おりとを自室へ招いていた。


 誤解のないように言っておく。当然、両家公認、了承のもとでだ。もちろん、双方の母親からはしっかり釘も刺されている。



 二階にある八畳ほどの洋室は驚くほどに殺風景だった。かえってそれが功を奏したのか。優季奈の、どうぞ入って、という声にも大きな抵抗は感じなかった。



(とはいえ、女の子の部屋だぞ。いいのか、こんなに簡単に踏み込んでしまって)



「ここが私の部屋なの。どう見ても殺風景でしょ。十五歳直前で時間が止まったままなんだ。お母さんがね、全て処分しようとして、どうしてもできなかったって」



 優季奈の言葉に胸が詰まる。


 この三年間、毎月一度とはいえ美那子みなこと顔を合わせてきた。織斗自身は打ち解けてこられたと信じている。それもあってのことだろう。美那子の気持ちがわかるのだ。



「美那子さんも光彰みつあきさんも本当に苦しかったんだ。愛しい娘を、優季奈ちゃんを失うことがどれほど辛く悲しいか。捨てようと考えたとしても、そんなこと絶対にできないよ。俺だって」



 小首をかしげながら優季奈が続きを待っている。



「優季奈ちゃんからの最初で最後の手紙、大切に仕舞っているから。捨てられるわけないよ」



 何度も読み返し、そのたびに涙がこぼれ落ちて手紙はぼろぼろになってしまっている。それでも織斗にとって、優季奈からの唯一の贈り物なのだ。捨てられるはずがない。



 優季奈の感情は嬉しさと恥ずかしさがせめぎ合っている。



「あの手紙、すごく恥ずかしいよ。私の想いを一方的に書き連ねてしまったから。かえって織斗君の重荷になっちゃったよね。ごめんね。やっぱり私っていやな子だ」



 織斗は首を大きく横に振って即座に否定する。



「いやな子でも、我がままな子でも、それが優季奈ちゃんなら俺がきらいになるわけがないんだ。優季奈ちゃんは俺にとって唯一の」



 織斗は常に相手の目を見て話をする。今も優季奈の目を見つめている。さすがにこの続きを口に乗せる際、わずかに視線を反らしてしまった。


 優季奈は黙ったまま言葉を待っている。織斗は一度の深呼吸、再び優季奈と目を合わせる。



「心の中にいる人だから」



 優季奈は肩を小さく震わせながら、うるんだ瞳で織斗をひたむきに見つめている。一瞬たりとも視線を外さない。織斗もまた同じだ。しっかり優季奈の瞳を見つめ、意を決する。



 言いたくても言えなかった、今なお胸の奥に深く突き刺さったままの言葉をようやく抜き去る時が来たのだ。告げるべき言葉を噛み締めながら口を開く。



「優季奈ちゃん、好きだよ」



 言葉と同時、優季奈が胸に飛びこんでくる。優季奈の涙が尾を引いて後方へと流れていく。織斗にはその様子がまるで静止画のように映っていた。



「嬉しいよ、織斗君。同じ想いだと信じてたの。でも、お互いに言葉にできなかったから。私も織斗君が好き。心の底から織斗君が好きなの」



 三年越しにようやく二人の想いが結ばれ、繋がった。




 時を同じくして、神月代櫻じんげつだいいざくらの幹から伸びる一本の太い枝が震えた。この場にいなければわからないほどの香気が静かに散る。


 来春に向けて、新しい命を芽吹かせる。そのための儀式のようでもあった。




 織斗は両手を優季奈の背中に回し、力をこめて抱きしめる。少しばかり強すぎたか。優季奈がわずかに苦悶くもんの声を上げた。



「ごめん、優季奈ちゃん。俺、力加減がわからなくて。痛かったよね」



 すぐに両手の力を緩め、離れようとする織斗を、今度は優季奈が両腕を回して抱き止める。



「だめ、私を離さないで」



 切実にも聞こえる優季奈の想いに応えないわけにはいかない。織斗は離しかけた両手を戻すと、再び優季奈を抱きしめた。腕の中で優季奈が動ける程度に力を緩める。



「俺だって優季奈ちゃんを離したくない。二度と優季奈ちゃんを失いたくないんだ」



 無理な話だと二人とも知っている。理解している。それでも言葉にすることで想いは確実に伝えられる。



「織斗君、私も一緒だよ。織斗君と離れたくない。ずっと一緒にいたい。この気持ちはあの手紙を書いた時から変わらないの。今ではもっと強くなっているよ」



 織斗の腕の中で優季奈は今この瞬間の幸せを味わいながら、胸に預けていた頭をわずかにもたげる。



「織斗君、背が高くなったね。あの時は私とほとんど変わらなかったのになあ」



 天使の上目遣いは健在だ。しかも、この至近距離からの攻撃力は織斗を腑抜ふぬけにするに十分すぎた。



(だめだ。この破壊力、格段に威力が増している。こんな近くで優季奈ちゃんの瞳を見つめてしまったら)



 もはや止まらなくなる。それが高校三年生の男の素直な心情だろう。抑制するには気持ちを一転させるだけの要素が必要だ。そして優季奈にはそれがあった。



(これで何度目だろう。やっぱり優季奈ちゃんは)



「優季奈ちゃん、気分を害したらごめんね。ちゃんと言葉にして伝えておきたいんだ。もう二度と後悔はしたくないから」



 織斗の言わんとしていることが優季奈には即座に理解できた。



「私も同じだよ。心で想っていても言葉にしないとわからないから。それに織斗君の言葉なら、私が気分を害することなんてないよ。あっ、でも一つだけ、あるかな」



 織斗はわずかの思考の後、優季奈に尋ねる。



「天使って言ったら、絶交の約束はまだ生きているかな」



 優季奈が怪訝けげんな表情を浮かべている。織斗の想いをよそに、優季奈ははたと想い出す。正直なところ、今の今まですっかり忘れていた。確かにそのような約束はした。



(えっ、私、織斗君に絶交するなんて言ったのかな。怒るよと言ったんじゃなかったかな)



「初めて逢った時のことだよね。うん、もう忘れてね。だって、初めて逢ったのに、いきなりあんなこと言われてすごく恥ずかしかったから」



 頬を赤く染める優季奈に心を奪われながらも、織斗はほっと胸をで下ろしている。既に何度か約束を破ってしまっているからだ。



「よかったよ」



 織斗は頷くと、続けて言葉をつむぎ出す。



「俺にとって、今の優季奈ちゃんは神月代櫻がつかわしてくれた桜の天使そのものなんだ」



 優季奈は反応を返さず、黙って織斗の言葉に耳を傾けている。



 あの時、病室で織斗だけが感じ取れた花の匂い、それこそが優季奈の優季奈たる所以ゆえんだった。


 全てを包みこむような優しさに包まれた香気は、織斗の幼かった頃の懐かしい記憶の中にある。そのことを想い出したのは、優季奈が亡くなってから一年後、ちょうど満開の神月代櫻がそびえる小高い丘に一人で出向いた時だ。



「あの場所に何年かぶりに立ってみて、ようやく想い出したんだ。俺だけが感じ取れる匂いの正体がいったい何だったのかを」



 一般的に桜そのものは、ごくかすかな匂いしか持たない。最も馴染なじみ深いであろうソメイヨシノも花の中心部に鼻を接するほどに近づけないと感じられない程度だ。


 そんな桜の中にあって、花のみならず樹々にさえほのかな香りを有する神月代櫻は実に稀有けうな存在だった。



「なぜ、優季奈ちゃんから神月代櫻の香気が感じられるのかはわからない。しかも、俺だけが感じ取れるようなんだ。まだどのような影響を及ぼすのかもわからない。ただ一つだけ確信していることがあるんだ」


 織斗は言葉を切ると、優季奈を見つめる。優季奈がゆっくりと頷く。



「神月代櫻はその不思議な力をもって、亡くなった人を想い人のもとへ遣わせてくれる。神月代櫻そのものが二つの世界の架け橋となっている」



 既に優季奈は織斗たちの前で三つの代償を明かしている。あくまでもその三つは生き返ってからのものだった。織斗はもう一歩踏み込んで考えている。



「生き返るための真の代償は別にあるんじゃないか」



 単なる自分勝手な推測にすぎない、ともつけ加える。



「二つの世界」



 優季奈が織斗の言葉を反芻はんすうする。



「そう、生者と死者の世界、まるで"Conte de Féesコント・ドゥ・フェ"だよ。優季奈ちゃんも俺も、幼い時に神月代櫻との接点を持っている。そこで何をしていたのか、何があったのかは記憶にないんだけど。まだまだ調べないといけないことがたくさんあるよ」



 高校生になってからのこの二年間、織斗は無為に過ごしてきたわけではない。医師になるべく医学部に向けての勉強に励む一方で、どうにかして優季奈の病の原因を調べられないか精力的に動いてきたのだ。



 多忙を極める加賀かが長谷部はせべにも医学知識を借りながら、ひたすら図書館やインターネットなどで類似した情報を検索、あふれんばかりの知識を蓄えていった。


 それらを組み合わせて何度も推論を立てては捨て、の繰り返しだった。知識としてはまだまだ圧倒的に不足しているのが現状だ。



 月命日に佐倉家に伺う際には、時間さえあれば神月代櫻のそびえ立つ地にも足を運び、優季奈への想いをせ続けた。



「神月代櫻にこそ秘密があるんだ」

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