第054話:優季奈の月命日

 大型連休も後半に入っていた。


 今日は五月四日、十五歳を前に亡くなった優季奈ゆきなの月命日だ。これまで織斗おりとは月命日には欠かさず佐倉さくら家に伺い、優季奈のために祈りを捧げてきた。



 優季奈が新たな命を得て、鞍崎慶憲くらさきよしのりの前に現れたのが四月五日だ。従って、優季奈がいながらにして迎える初の月命日でもある。不思議な感覚が湧いてくる。



 今日は特別な一日でもあった。


 普段、優季奈の月命日には織斗一人が佐倉家に出向いている。それをいつの間に話をつけてしまったのか、両親も一緒なのだ。沙織さおり美那子みなことやり取りをして決めてしまったらしい。



(お母さん、勝手に決めてしまうんだからなあ。ここまで車で連れてきてくれたことには感謝だけど)



 乗ってきた車は少し離れた駐車場に停めている。


 風向家の三人は佐倉家の玄関前に到着していた。織斗は玄関のインターフォンを鳴らし、美那子の応答を待つ。これが優季奈のいない三年間の変わらない、いつもの流れだった。



「織斗君、いらっしゃい。今から開けるね」



 溌溂はつらつとした声が響き渡る。美那子ではない。応答してくれたのは優季奈だ。優季奈の声を聞き間違えるわけがない。



 玄関の扉を開けて、優季奈が飛びつかんばかりの勢いで駆け寄ってくる。門の前で立ち止まった優季奈が天使の微笑みを浮かべている。よほど嬉しいのだろう。


 織斗は優季奈の姿に見惚みとれてしまい、言葉が出てこない。何か声をかけなければ。そんな織斗をよそに、すぐ後ろに立つ母の沙織がいち早く口を開く。



「優季奈さん、こんにちは。とても可愛いワンピースね。よく似合っているわ。素敵よ」



 満面の笑みの優季奈が門を開け放つ。突っ立ったままの織斗を素通りして、迷わず沙織の胸に飛び込んでいく。



「沙織お母さん、こんにちは。またお会いできて嬉しいです。今日はお気に入りのワンピースを着てみました。ちょっと子供っぽくないですか。本当に似合ってますか」



 爽やかなレモンイエローのワンピースは前身頃まえみごろの中央部に同色のボタンが五つ、脇前身頃はウエストに向かって細く絞られ、切り替えし部分の前中央に大きめの蝶リボンが縫いつけられている。


 ウエストからひざにかけてはフレアスカート状でふんわりと広がり、すそ部分はフリルになっている。沙織から離れた優季奈はフリルの裾を軽くつまんで、くるっと一回転してみせた。



 いつも以上の破壊力に加え、いちだんと可愛らしさが増した優季奈を前に、織斗は言葉を発する時機を完全に失ってしまっている。すかさず母親に持っていかれ、これではまずいと脳裏をよぎったのも束の間、次いで父親にまで先を越される始末だ。



「優季奈さん、こんにちは。今日はお招きいただきありがとう。本当に可愛らしいね。うん、よく似合っているよ」



 父の利孝としたかもまた愛しい娘を見るような笑みを浮かべ、織斗をすっ飛ばして優季奈と言葉を交わしている。



「利孝お父さん、と呼んでもいいですか」



 断れる男がいたら知りたい、とばかりに利孝がさらに相好を崩して喜んでいる。



「もちろんですよ。いやあ、これはお母さんの気持ちがわかるというものだね。何とも心地のよい響きだよ。なあ、織斗」



 半ばほうけ気味の織斗が気の毒に見えたのかもしれない。利孝が目でも合図を送ってくる。矛先が織斗に向いたことで、利孝と沙織、そして優季奈が織斗に注目している。



(俺、めちゃくちゃ居心地が悪いんだけど。お母さんもお父さんもいい加減にしてくれよな。俺が最初に優季奈ちゃんに声をかけるはずだったのに)



 見事に横からかっさらわれた形だ。それもこれも織斗が優季奈に見惚れてしまったからだ。



「織斗、仕方がない。こんな可愛い優季奈さんを見たら、織斗でなくとも、だな」



 慰めにもならない父の言葉を聞きながら、織斗はようやく優季奈とまともに視線を合わせた。



「優季奈ちゃん、こんにちは」


「織斗君、こんにちは」



 お互いに挨拶を交わす。ここまではよい。挨拶は基本中の基本、風向家でも徹底されている。問題はここからだ。織斗の口は縫い止められてしまったかのように動かない。優季奈は天使の微笑みのまま、ずっと続きの言葉を待っている。



 後ろから小声で囃し立ててくる両親がうるさくて仕方がない。しかも優季奈にも聞こえる程度の小声なのだ。



「はあ、もう何してるのよ。じれったいわね」


「織斗、頑張れ。ここで一番ふさわしい言葉は何だ」



 たまらず振り返る織斗に、沙織も利孝もため息しか出てこない。なぜここで振り返るかなあと二人ともに肩を落とす。



「見るべきは私たちじゃないでしょ。いつまで優季奈さんを待たせるの」



 気の利いた言葉一つも言えないのか。沙織がけしかけているのは当然でもあった。優季奈が今日という日をどれほど楽しみにしていたか、考えるまでもなくわかる。だからこそのお気に入りのワンピースであり、天使の微笑みなのだ。



 ようやく視線を戻した織斗の見つめる先、優季奈が期待をこめて待っている。



「優季奈ちゃん、ごめんね。両親に先を越されてしまったけど。ワンピース、とても似合ってるよ。すごく可愛い。うん、本当に可愛い。言葉を失うほどに見惚れてしまったから」



 恥ずかしそうにしている織斗を見つめながら、優季奈はうんうんと嬉しそうに何度もうなづいている。そんな優季奈を見ているだけで幸せな気分になれる。織斗もまた優季奈に向かって微笑んでみせた。



「とっても嬉しい。このワンピースを着ている姿、織斗君に見せたかったんだ。でも、織斗君、何も言ってくれないから」



 ごめんねともう一度謝る織斗に、優季奈は天使の笑みを向けてくれている。




「優季奈、何をしているの。いつまでもそこにいないで、早く沙織さんたちに入っていただきなさい」



 なかなか戻ってこない優季奈を心配したのか、美那子が玄関先まで出てきた。優季奈に向かって頭を下げている織斗の姿が目に入る。



「織斗君、どうかしたの。優季奈に何か言われたんじゃないの」



 美那子からすれば、どうやら優季奈の方が悪者のように見えるらしい。



「もう、お母さん、変なこと言わないでよ。お母さんはいつも織斗君の味方なんだから」



 ちょっとねている優季奈の表情も可愛らしい。母と娘ならではの会話だ。沙織も利孝も母娘のやり取りを微笑ましく眺めている。



「沙織さん、本当にすみません。我がままな娘で。織斗君も頭を上げてね」



 この三年間、優季奈の命日に欠かさず佐倉家を訪れてくれた織斗は、美那子にとって息子同然なのだろう。優季奈という愛娘まなむすめを失ってからというもの、もしかしたら織斗の存在が美那子の心のり所になっていたのかもしれない。



「お待たせしてしまってすみません。どうぞお入りください。優季奈、ご案内して」



 優季奈が頷き、風向家三人のために場所を空けた。織斗は別の意味で心配になっていた。



(優季奈ちゃんって、戸籍上は亡くなっているんだよな。玄関前でこんなに大声で名前を呼んでも大丈夫なんだろうか。先ほどから何人かが家の前を通っているし)



 もっともな疑問だった。織斗はそれとなく両親に話しかけてみる。沙織も利孝も複雑な表情を浮かべつつ、織斗にだけ聞こえるように答えた。



「私かお父さんから美那子さんに聞いてみるわ。織斗は何も心配せず、優季奈さんのために精一杯のことをしてあげなさい」



 沙織の横で利孝はなぜかかすかに首を横に振っている。



(これはいったい。このような違和感は初めてだ。記憶の奥底に何かが語りかけてくるような)



「お父さん、どうかしたの」



 織斗の問いかけに怪訝な表情のままの利孝が我に返ったか、言葉を返す。



「いや、何でもないよ。お母さんの言うとおりだ。その辺のことは私たちに任せておきなさい」



 両親に任せておけるなら安心だ。織斗も素直に応じた。

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