第053話:夕焼け色に染まるひと時

 優季奈ゆきなに続いて、今度は織斗おりとの番だった。汐音しおんと優季奈の間を視線がせわしく行ったり来たりしている。見るたびに優季奈の表情が次々と変わっていく。



「ねえ、織斗君、食べさせてくれるの。それとも食べさせてくれないの」



 優季奈の上目遣いを前にしては、織斗は完全に無力になってしまう。もはやこれは習慣の一つに違いない。



(優季奈ちゃん、この感情は、ちょっと怒ってる。えっ、これって食べさせてくれってことなのか。そんなまさか、本当に)



 汐音からの圧をひしひしと感じながら、思考が乱れに乱れている織斗に優季奈が止めとばかりに迫ってくる。



「織斗君」


「は、はい」



 上擦うわずった声の織斗に優季奈がわずかに近づいた。そこはもはや織斗が軽く手を伸ばすだけで優季奈に触れられる距離だ。少しずつにじり寄っていく優季奈に対し、織斗は同じだけ後退あとずさっていく。


 織斗はあくまで優季奈との距離を大切にするつもりなのか、常に一定を保ち続ける。そのために二人の差は詰まらない。


 それも限界がある。織斗が座っているのは横長の大型ソファなのだ。端まで下がってしまえば、もはやそこで終わり、必然的に窓側の壁に背をぶつける形になる。



「織斗君」



 上目遣いの優季奈がもう一度名前を呼んだ。そこからの優季奈の行動に織斗はもちろん、汐音も驚くしかなかった。



「鞍崎さん、いつの間に」



 声には出さない。さすがにこれを告げるのは優季奈も恥ずかしいのだろう。だからこその手段がある。失声症だった織斗のために汐音が学んだものと同様だ。優季奈は両手を動かして、口から発する言葉の代わりに手話で気持ちを伝えた。



【いやなら、無理しなくていいよ。我慢、するから】



 手話で語る優季奈の気持ちは、織斗はもちろんのこと、汐音にもはっきり浸透した。汐音が今日何度目かになる大きなため息をつき、言葉をかけようとしたその時だ。織斗が素早く手話で優季奈に言葉を返した。



【怖いんだ。近づくのが】



 不思議そうな顔をした優季奈が即座に手話で応答してくる。



【どうしてなの】


【近づけば触れたくなる。触れたら】



 織斗の手話がそこで止まる。触れたらどうなるというのか。優季奈に代わって、今度は汐音が言葉で尋ねてくる。



「触れたら、まさか消えてしまうとでも言いたいのか」



 まさに核心を突いた汐音の言葉だった。優季奈の事情は、もちろん汐音も知っている。織斗が納得していないことも、そしてどうにかしようとしていることもだ。



 思わず視線を向けてくる織斗の表情を見て、汐音は気づいてしまった。織斗に直接聞くべきか。汐音には優季奈の手話がどの程度のものかわからない。汐音も手話の技量は高いとまでは言い難い。


 誤解なく伝えるには言葉が一番だ。言葉にするとその全てが優季奈に伝わってしまう。悩ましいところだった。



(仕方がない。ぼかしながら伝えるしかないか)



【人なら触れても消えたりしない】



 織斗にはこれで十分に通じるだろう。優季奈もこう見えて意外に勘が鋭い。気づかれたら気づかれたで、その時には臨機応変にいくしかない。汐音は再度手話を送った。



【どうするんだ、織斗】



 織斗が手話を返そうとするより早く、優季奈は行動に出ていた。優季奈は両手を伸ばして織斗の右手を掴む。これで織斗は手話が使えなくなった。気持ちを表すには言葉を使うしかない。



「優季奈ちゃん」



 織斗の口から無意識のうちに優季奈の名前がこぼれていた。汐音は気づいていながら、ここは黙したまま見過ごす。



 優季奈は織斗の右手を包み込んで、自分の方へと引っ張っていく。目の前にまで近寄ったところで深呼吸を一つ、それから意を決して左の頬に織斗の右手を触れさせた。織斗が逃げないように左手を上から重ねる。



「私、消えたりしないから。約束の時まで絶対に、絶対に消えないから」



 織斗は極度に緊張しているせいか、優季奈に握られたまま頬に触れている右手が硬直している。それも次の瞬間、嘘のように解けていった。



 優季奈の瞳がうるんでいる。今にも涙があふれ出しそうになっている。



(俺、何をやっているんだ。優季奈ちゃんにこんな顔をさせてしまって。汐音の言うとおりだ。優季奈ちゃんが消えるわけがないんだ)



「優季奈ちゃん、ごめんね。もう大丈夫だから」



 織斗は触れた頬を通じて右手の熱を優季奈に伝える。織斗の温もりを感じた優季奈の左手が自然と落ちる。自由になった右手がわずかに動き、頬を優しくでる。



「織斗君」



 織斗はただうなづき、そのまま指先を伸ばして優季奈の黒髪に触れる。その場所には織斗が贈った桜のヘアクリップがされている。



「優季奈ちゃん、すごく、きれいだ」



 織斗の口からこの言葉を聞くのは二度目だ。


 優季奈ははっきりと想い出していた。初めて二人で病院の窓越しに満開の神月代櫻じんげつだいざくらを見た時のことだった。織斗は神月代櫻のあまりの美しさに見惚みとれ、今と同じ言葉を発した。


 決して優季奈に向けてのものではない。まだ幼かった優季奈は、その言葉を聞いて、幾ばくかの寂しさを感じてしまった。それが自分に向けられたものなら、どれほど嬉しかっただろうか。初めて抱える複雑な感情が戸惑いをもたらしていた。



 今は違う。


 織斗の瞳には優季奈が映っている。神月代櫻ではない。優季奈だけが映っている。



(織斗君の右手は桜のヘアクリップに触れているもの。だから)



 織斗からの確実な言葉がほしくてたまらない。だから優季奈は勇気をもって口にした。



「きれいなのは、織斗君がくれたヘアクリップ、それとも」



 最後まで言わせない。織斗は指先をヘアクリップから離し、再び優季奈の左頬にそっと触れた。



「優季奈ちゃんに決まっているよ。優季奈ちゃん以外の女性に、きれいだなんて言わないから」



 汐音と優季奈、二人ともが、双葉さんのことを美しいって言ったよ、という言葉はぐっと呑みこむ。ここは大目に見ておこう。



 織斗の言葉は優季奈がずっとひそかに待ち望んでいたものだ。あっという間に涙腺が崩壊する。瞳にたまっていた大粒の涙が静かに零れ落ちていく。



「嬉しい、ほんとに嬉しい。あの時からずっと言ってほしかったんだ」



 それがいつのことかわからない織斗ではない。優季奈の前で、きれいと言ったことなど一度しかないのだから。そして、織斗にとっての一番は、あの時からずっと優季奈なのだ。


 当時の織斗にとって、優季奈にきれいと口にするのはなぜかはばかられた。無意識のうちに、きれいは大人に使う言葉だと想っていたことも大きいだろう。



「俺、あの時はまだ言葉をよく知らなかったんだ。神月代櫻には使えるけど、優季奈ちゃんにはそうはいかない。俺にとって、あの時の優季奈ちゃんは可愛い、だったから」



 流れ落ちる涙を指先でそっとぬぐう。涙が織斗の指を伝って右手をらしていく。



「使えよ。大丈夫、きれいなやつだから」



 汐音が気を利かせてハンカチを差し出してくる。織斗は汐音の配慮が嬉しかった。左手で受け取ると、優季奈の瞳にたまった涙を慎重に拭っていく。優季奈は織斗のなすがままだ。



 ようやく涙が収まった優季奈の左頬から織斗の右手が離れていく。名残惜しそうにわずかに優季奈は自分の手を重ね、すぐにまた離す。潤んだ瞳が見つめてくる。



「織斗君、ありがとう。私、我がままばかり言ってるね」



 織斗は首を横に振って否定する。



「鞍崎さんも言っていたよね。いくらでも言ってくれていいんだ。優季奈ちゃんの我がままなら迷惑じゃないから」



 汐音は二人の様子を見つめながら、心の中で想っていた。



(本当に不器用な二人だよな。だからこそ、そばで見ていて手助けしたくなるんだけど。織斗も佐倉さんも、限られた時間の中で逢えなかった三年間の隙間が埋められるといいんだけどな)



「織斗、今ならもう大丈夫だろ」



 汐音はまだあきらめていない。何としてでも優季奈にプリンアラモードを食べさせるべく、再び織斗をけしかける。



「汐音、本当にお前という奴は」



 そうは言いながらも、織斗は汐音に感謝している。高校に入学してからの二年間、綾乃と汐音がいなければ今の織斗は間違いなく存在していないだろう。それだけ大きな力になって支え続けてくれた。


 だからこそ、時間はかかったとはいえ、優季奈のことも二人にだけは打ち明けたのだ。




 織斗はスプーンを手にすると、二つ並んだプリンの右側、すなわち優季奈に近い方からひと口分をすくい取った。



「優季奈ちゃん、食べてくれるかな」



 手がいささか震えるのは仕方がない。何しろ織斗にとって初めての経験なのだ。優季奈が大好きなプリンアラモードを自分の手で食べさせてあげられるなど、抱きしめる以上に今でも夢ではないのかと想ってしまう。



「うん、織斗君、食べさせて」



 笑顔がまぶしすぎる。


 優季奈は口を小さく開いた。途端に織斗の手が止まってしまう。さすがにこれでは無理だ。もう少し大きく口を開いてもらうよう優季奈にお願いするべきか。いや、そんなことは口にできない。



(うう、これ、すごく恥ずかしいよ。織斗君の前でこれ以上、口を開くなんて無理だよ)



 二人して困り果てている。こういう時こそ汐音の出番だ。



「鞍崎さん、それだと織斗が食べさせられないからさ。鞍崎さんから食べにいくといいよ。織斗はそのままスプーンを動かすなよ」



 適切なアドバイスだろう。二人して同時に感謝の視線を汐音に注ぐ。



「織斗君、すごく恥ずかしいから。あまり見ないでね」



 そう言われても、たまらなくずっと見続けていたい。織斗の偽らざる本音だ。



「う、うん、できるだけ見ないように頑張ってみる」



 既に優季奈の頬は真っ赤だ。スプーンに向かって、ゆっくりと顔を近づけていく。



「食べるところは、絶対に見ないでね」



 優季奈を凝視していたのだろう。織斗は念押しされてしまった。


 織斗がわずかに視線を下げた瞬間、優季奈はすかさずスプーンを口の中に入れた。



 きっとこれでは味もしないだろう。織斗が想ったところで、優季奈の言葉が返ってくる。



「今まで食べた、どんなプリンアラモードよりも、美味しい」



 味よりも織斗が食べさせてくれた。それが優季奈にとっての一番のご馳走だったのかもしれない。



 織斗は織斗でその言葉が聞けただけで十分に満足だった。幸せいっぱいの気分で満たされていく。




 優季奈と織斗、二人の頬が夕焼け色に染まっている様を楽しげに眺めながら、汐音のにやにや笑いはいつまでも収まらなかった。

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