第050話:汐音の秘密

 鞍崎凪柚くらさきなゆこと優季奈ゆきなの自殺未遂騒動で一時は響凛きょうりん学園高等学校全体が騒然としたものの、既に落ち着きを取り戻していた。生徒たちはいつもと変わらない日々を送っている。



 今週末からは大型連休突入だ。若干、浮足立った雰囲気が蔓延しているのは仕方がないだろう。



 鞍崎凪柚は大事を取って、という鞍崎慶憲よしのりの副理事長権限発動で四月いっぱい学校を休むことが決まっていた。


 織斗おりと綾乃あやの汐音しおんの三人は大学受験という究極の目標がある。何日も学校を休んでいるわけにもいかない。一日休んだだけですぐさま復帰、今では何事もなかったのごとく振る舞っている。



 そんな彼らのもとに、興味本位でいろいろと聞きにくる生徒たちも結構いたりした。それも数日経てば話題にする者もいなくなる。もっぱら汐音が強気で追い返したことが大きな要因だろう。



 放課後の教室に織斗、綾乃、汐音の三人が顔をそろえていた。



「織斗、連休中はどうするつもりなんだ」



 学校にいる間は佐倉さくら優季奈ではなく、常に鞍崎凪柚で通す。その約束は守りながら、今は状況が状況なだけに具体的に鞍崎凪柚の名前を出さないよう配慮している。



「もちろん、彼女のために時間を使うよ。心配は無用だよ。受験のことは常に頭の片隅に置いているから」



 まだ安心できない。汐音に続いて綾乃が問いかけてくる。



「風向君、私たちにできることはないかな。助けが必要なら遠慮なく言ってね」



 織斗は、綾乃と優季奈の間でどんな話があったのか知らない。二人だけの秘密だし、知ったところで織斗にはどうすることもできないだろう。綾乃の気持ちを知っているだけになおさらだ。



「連休中に相談しておきたい人がいるんだ。手筈てはずは副理事長と河原崎かわらざき先生がつけてくれるそうだから日程が決まったら鷹科たかしなさんも汐音もつき合ってくれるとありがたいよ」



 二人に異論はない。即座に了承の返事をもって応える。



「決まったら連絡してくれよな。必ず行くから。鷹科さんもだよな」



 うなづいてから綾乃は言葉を継ぎ足す。



「連休中も塾があるけど、絶対に時間を作るから。連絡待ってるね。あっ、私、もう行かないと。さようなら、風向かざむかい君、真泉まいずみ君」



 慌ただしくかばんを持った綾乃が手を振ってから教室を出ていく。織斗と汐音は呆気あっけに取られたままだ。



「鷹科さん、どうしたんだろ。珍しく随分と時間を気にしていたようだけど」



 汐音の疑問に織斗は答えを持ち合わせていない。ただ首を横に振るしかなかった。



「織斗、このあと少し時間はあるか。ちょっと俺につき合えよ」



 周囲に聞き耳を立てている者はいない。それでも用心してくれたのか、汐音は織斗の耳元に顔を近づけた。



「佐倉さんとのデート指南しなんをしてやるよ。一途いちずなお前のことだ。これまでデートなんてしたことないだろ」



 図星だった。不敵な笑みを浮かべている汐音が、織斗には何だかまぶしく感じられた。





 響凛学園高等学校の最寄り駅から徒歩五分ほどの場所に、界隈一のお洒落カフェとして有名な"Conte de Féesコント・ドゥ・フェ"が建っている。



 織斗と汐音の姿はその店内にあった。


 男二人、場違いな客層でありながら、賑わう店内のほぼ大半を占める若い女性陣からの視線を釘づけにしている。さすがに二人が高校生だと知ったら、誰もが驚くに違いない。



「織斗、視線は気にするな。いつものことだから」



 大らかな汐音に思わず苦笑してしまう。その笑みでさえ、周囲の女性陣をときめかせている。騒がしさが増しつつある中、二人のテーブルに二十代後半とも思える女性が一人近づいてきた。



「汐音君、いらっしゃい。久しぶりね。こちらの方はお友達、よね」



 お友達と口にしてから、しばしの間が空く。



「ちょっと待って。その間は何だよ。まさか変なことを考えてないよな」



 不機嫌そうな口調で答える汐音に対して、女性は微笑びしょうを絶やさない。



「あら、変なことって何なの」


「もういいから、さっさと注文を取って、あっち行ってくれよ。姉さんがいたら話が進まないじゃないか」



 やれやれ、仕方ないなといった表情で汐音を見つめ、次いで織斗に視線を移す。



「驚いたでしょ。私、真泉双葉ふたばよ。よろしくね。汐音君は私の義弟なの。仲よくしてあげてね」



 織斗が立ち上がろうとしたところで、双葉が手で軽く制した。



「では、このままで失礼します。はじめまして、双葉さん。風向織斗です。汐音は親友ですから」



 これだけで十分に通じるだろう。双葉は織斗を見つめながら、嬉しそうに頷いている。



「織斗君、素敵な名前ね。お邪魔なようだから私は消えるけど、汐音君はいつものでいいのね」


「それでいいよ。織斗も同じでいいよな」



 よほど早く双葉にいなくなってほしいのか、汐音が半ば強引に注文を切り上げようとしている。



「こら、そんな乱暴はだめでしょ。織斗君は何がいいかな」



 先に聞いておきたい。汐音のいつものが何なのかを。


 大の甘党の汐音だ。糖度の高いミックスジュースだろうか。織斗はその辺に当たりをつけ、双葉に尋ねてみた。



「残念、はずれよ。正解はね、運んできてからのお楽しみということで」



 双葉が、注文はどうするのと今度は目で問うてきている。



「あの、プリンアラモードはありますか」



 満面の笑みで双葉が答える。



「もちろんよ。腕によりをかけて作ってあげる。もちろん、作るのはうちのパティシエールだけどね」


「女性の方なのですか」



 よく知っているわね、とウィンク一つ寄越してくる。大人の魅力とでもいうのか、高校生には刺激が強すぎる。



「姉さん、もういいから早くいけよ」


「はいはい、わかりましたよ」



 双葉は颯爽さっそうと身をひるがえし、足取りも軽やかに店内奥へと戻っていった。



 突然の嵐がようやく去ったとばかりに、汐音はソファに背中を預けてぐったりしている。



「面白いお姉さんだね。汐音は言いたくなさそうだから、あえては聞かないけど」



 苦虫にがむしを嚙み潰したような顔で汐音が応じる。



「織斗、悪かった。姉さん、悪い人じゃないんだけど、やたらと俺に構ってくるからなあ」



 何だかんだ言いながら、汐音も嬉しそうにしている。汐音の家庭事情に首を突っ込むつもりはないものの、織斗はこれだけは聞いておきたかった。



「俺と初めて出逢った時、汐音はこう言ったな。『俺の家庭環境はな、お前のところのようなぬるま湯じゃないんだ』って。それは今も」



 汐音は顔色一つ変えずに即答した。



「変わらないよ。ある意味、俺のところは崩壊しているも同然だ。だから俺は決めている。高校を卒業したら、すぐにここを離れる」



 織斗は一瞬怪訝けげんな表情を浮かべてみせた。



「大学は東京になるんだから離れるのは当然だろ。ここから通うわけじゃないんだし」



 織斗の言葉を汐音は首を横に振って否定する。



「そうじゃないんだ。織斗、まずは黙って聞いてくれるか」



 汐音のこれ以上ないというほどの真剣な表情を前に、織斗は小さく首を縦に振った。



「俺は日本を離れ、アメリカの大学へ進学する。一年生の時から決めていたことなんだ。これを伝えるのは織斗が初めてだ。まだ親にも言ってないからな。ああ、双葉姉さんにだけは相談しているけどな。織斗、今まで黙っていて悪かった。まあ、これでおあいこだろ」



 最後の言葉は気まずい雰囲気を緩和させるための汐音なりの配慮だ。



 汐音によれば、年明けの一月から出願が始まり、無事合格すれば九月入学になるという。日本の大学は四月始まりだから、およそ半年遅れとなる。



「織斗と鷹科さんの大学入学を見届けたら、すぐに渡米するつもりだ。二人が現役合格する前提の話だけどな。まあ、それは俺も同じだ」



 織斗にしてみれば、とんでもない衝撃だった。汐音、綾乃とはきっと同じ大学に進学するのだろう。漠然と考えていた。


 大袈裟に言うなら、まるで片翼かたよくがもがれたかのような気分だ。



「汐音がそこまで決意しているなら、俺には何も言えないよ。いろいろと突っ込みたいところ満載だけどな。残念だし、寂しくなるな」



 汐音は、済まないと口にして頭を下げてくる。



「俺にそんなことをするなよ。あの時にも言ったとおり、俺は汐音を掛け替えのない親友だと想っている。汐音がアメリカに行ったとしても、この気持ちはずっと変わらないよ」

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