第049話:三つ目の代償

 皆が皆、息を詰めている。


 呼吸音さえ遠のいてしまったかのように静寂が支配する中、イタリア製アンティークの壁掛け振り子時計が奏でる音だけがリビングルームに響いている。



「そんな、あんまりよ」



 既に枯れてしまったのか、涙も出ない綾乃あやのは悲痛な想いを何とか声にして絞り出した。



「有期限じゃないかとは予想していたけど。一年、たった一年なのかよ」



 いささか乱暴な口調になっている汐音しおんも、やるせない気持ちがにじみ出ている。




 二人の視線が必然的に織斗おりとに注がれた。織斗は真正面から受け止めながら、無言を貫いている。誰もが黙したまま、織斗の言葉を待っている。


 鞍崎慶憲くらさきよしのりだけはある種の感情をもって、織斗を見ていた。何しろ、この中ではあの時の織斗の醜態を知る唯一の人物だ。


 この三年余りで精神的にたくましくなっているとはいえ、優季奈ゆきなの言葉から受ける衝撃は精神力を木っ端微塵にするだけの威力を誇っている。あの時と同程度と言っても誤りではない。



「織斗少年、気持ちの整理がつくまでゆっくり考えるといい。葛藤もあるだろう」



 鞍崎慶憲は残っていた紅茶を飲み干し、ティーカップを戻すと同時、綾乃に視線を向けた。以心伝心か。綾乃がすぐに立ち上がる。



「入れ直してきますね。優季奈、手伝ってくれる」



 優季奈は一瞬織斗に目をやり、悲しそうな表情を浮かべ、それから首を縦に振って綾乃に応えた。



 優季奈が五人分のティーカップをお盆に乗せて、綾乃とともにキッチンに向かう。残された男三人は、思い思いに自分自身の考えにふけっていた。





「優季奈、大丈夫なの」



 綾乃の気持ちが、じわりと伝わってくる。綾乃には嫌われている。そう想っていた。そもそも好かれる要素が優季奈には全くない。


 他者の感情に敏感なところは幼い頃から変わっていない。だからこそ、綾乃が心から心配してくれていることがわかって、優季奈はたまらなく嬉しかった。



「ごめんね、綾乃ちゃん」



 その先を言い淀んでしまう。心情的には言いたくない。それでも綾乃にだけは伝えておかなければならない。



「一年後、私がいなくなったらね、その時は綾乃ちゃんは織斗君と」



 綾乃は手にしていたミルクポットを投げ捨てるようにしてキッチンに置くなり、両手で優季奈の頬を強く挟み込んだ。



「優季奈、それ以上言ったら本気で怒るよ。二度とそんなこと口にしないで。今、この場で約束して」



 優季奈が声にならない声を上げた。



「い、痛いよ、綾乃ちゃん」


「約束できるなら離してあげる」



 綾乃は微笑びしょうを浮かべながら、さらに両手に力を入れて優季奈の頬を押さえつける。優季奈からしてみれば、それは悪魔の微笑みに違いない。



「わ、わかったよ。約束するよ、綾乃ちゃん」



 綾乃は大きなため息をつくと、やれやれこの子は、といった表情をありありと浮かべて優季奈に詰め寄った。



「優季奈の話を聞いた直後だけど、これだけは断言しておくね。私、風向君をあきらめたりしないから。風向君にとって、優季奈が唯一の天使だとしても、私は絶対に」



 綾乃の覚悟だった。真正面からぶつかってくる。優季奈は、この時ばかりは綾乃がたまらなく羨ましいと感じてしまった。



 綾乃が生きてきた時間はわずかに十七年と少しばかりだ。これからの人生の方がはるかに長い。だからこそ、優季奈は自分がいなくなったら、綾乃に託そうと、その想いを言葉にしようとした。


 それは本心からだっただろうか。本当はそんな気持ちなど少しもなかったのではないか。自分をよい子に見せようとしているのではないか。考えれば考えるほど、底なし沼にはまりこんでいく。



 綾乃の両手がそっと離れる。優季奈は綾乃の決意に返す言葉がない。だから言葉の代わりに綾乃の胸を借りた。



「綾乃ちゃん、私、どうしたらいいのかな。わからなくなっちゃったよ。私、また織斗君を苦しめちゃうのかな」



 優季奈は綾乃の胸に頭ごとうずめてしまっている。心なしか肩が震えている。



(もう仕方がないなあ。世話の焼ける妹ができたみたい。それにしても、肉体は十八歳相応なのに、精神年齢は亡くなった当時で止まっている。そんなことが起こりうるなんて。話を聞いても信じられなかったけど、今の優季奈を目の前にしてしまうと)



 綾乃は困惑が混じった苦笑を浮かべつつ、両手を今度は優季奈の肩に回して優しく抱きしめる。時間にしてわずか数秒といったところか。それだけで肩の震えは止まっていた。



「優季奈がしたいことをすればいいよ。できなかったことがたくさんあるのでしょ。風向君と一緒に一つずつしていけばいいよ。悔しいけど、それを止める権利は私にはないもの。それに風向君なら全てを受け止めてくれるはずだよ」



 優季奈は素直に感動していた。綾乃との精神年齢差はあるといえども、同じ女として綾乃の気持ちは痛いほどにわかる。本心ではこんなことを言いたくないに決まっている。


 自分を殺してまで他人のために尽くす。美しい言葉に違いない。実際のところ、それを実践できる者は限りなく少ない。



「この一年だけよ。優季奈に風向君を譲ってあげる。それが私にできる最大限の譲歩だからね」



 綾乃が両手を優季奈の肩にかけ、わずかに力をこめて後ろに押した。二人の間に距離ができる。優季奈と私の距離感はこれぐらいだよ、と語っているようでもあった。



「綾乃ちゃん、まるで私のお姉さんみたい」


「そうかもね。優季奈の精神年齢は私より下だもの。それに風向君とは三歳違い、男女の釣り合いとしてはちょうどいいかもしれないわね」



 二人はお互いを見つめ、同時に小さな笑い声をあげた。




 優季奈と綾乃が戻ってくる。織斗に代わって汐音がお盆を受け取り、優季奈が手際よくティーカップをそれぞれの前に置いていく。織斗はその間も無言を貫いている。ティーカップが置かれた際、わずかに短く礼を述べたのみだ。



 二人が着席すると同時、鞍崎慶憲が言葉を発する。



「さて、織斗少年、ここまで十分に時間は稼げたな。君の言葉を聞こうか」



 全員の視線が織斗に集中している。深呼吸を二度、それから織斗はゆっくりと口を開いた。



「優季奈ちゃんに再び逢いたい。それ以上の望みはないはずでした。でも今はさらに強い望みが俺の心の中に生まれています」



 織斗は横に座る優季奈の瞳を直視した。



「優季奈ちゃん、まだ言ってなかったね」



 優季奈は柔らかな笑みを浮かべ、織斗を見つめ返す。



「お帰り。今でも信じられないよ。本当にありがとう。この想いは決して言葉にできない。奇跡なんて少しも信じていなかったし、願いは二度と叶わないと想っていたんだ。優季奈ちゃんが鞍崎凪柚さんとして」



 ふいに織斗の言葉が止まった。織斗の視線が優季奈から鞍崎慶憲に移る。



「鞍崎さんですね。俺にヒントを与えてくれていたんですね」



 鞍崎慶憲は黙したままだ。優季奈は忙しく視線を動かしつつ、綾乃と目が合ったところで静止している。綾乃も訳がわからないとばかりにお手上げ状態だ。ただ一人、汐音だけが腕を組んだ姿勢で頭をやや上に向け、何やらぶつぶつと呟いている。



「ああ、なるほどなあ。今さらながらに、そういうことだったんだな」


「真泉君、いったい何のことよ」



 綾乃の問いかけに、汐音は言葉ではなく、鞄からノートを取り出すと、一枚破って素早くペンを走らせた。


 そこにはひらがなで【さくらゆきな】【くらさきなゆ】と書かれている。早速、綾乃がのぞきこんでくる。



「えっ、これって、もしかして」



 ひらがなで書かれた二つの名前を見て、綾乃も一瞬で謎解きができたようだ。



「さすが、鷹科さん。すぐにわかったようだね」



 汐音はペン書きした紙を、あとは任せたとばかりに織斗の正面に滑らせた。織斗はわずかに視線を走らせ、自身もペンを取り出す。



 優季奈がどういうことなのといった表情で三人を順番に見回している。



「優季奈ちゃん、よく見てて」



 織斗がペンを手に、【さくらゆきな】の【さ】から、【くらさきなゆ】の【さ】へと矢印を引いていく。同様に次は【く】だ。


 そうやって一文字ずつ、双方に共通の文字へと矢印が引かれていった。最後の【な】の矢印を引き終えた織斗が優季奈を見つめる。



「アナグラムになっていたんだよ。【さくらゆきな】の文字を使って、別の名前を作り上げたんだ。それが【くらさきなゆ】なんだ。そうですね、鞍崎さん」



 織斗の視線を受け止めた鞍崎慶憲がうなづいてみせる。やれやれ、ようやく気づいたかといった表情だ。



「私からの精一杯のヒントだったんだがな。偶然にも優季奈の名前に【くらさき】が含まれていた。アナグラムはもちろんのこと、私の娘とするのは至って簡単だった。念のために言っておくが、法は破っていない」



 強引に響凛きょうりん学園高等学校に転入させたのはどうなのか、とは決して口にしない。織斗たちはそこまで愚かではない。



 綾乃と汐音の無言の問いかけに、優季奈は全然気づかなかったとばかりに首を横に振っている。



「ごめんね、優季奈ちゃん。俺がもっと早くに気づいていたら、こんなに優季奈ちゃんを苦しめることはなかったんだ。鷹科さんにも迷惑をかけてしまったし」



 優季奈と綾乃、二人がそろって声をあげた。



「そんなことはないよ」



 二人が顔を見合わせて何とも言えない笑みを見せている。



「俺は優季奈ちゃんを送り返してくれた神月代櫻じんげつだいざくらに感謝し、また一方で再び俺から優季奈ちゃんを奪う神月代櫻を恨みます。だから、俺は決めました」



 織斗は大きく息を吸い込み、吐き出すと同時、決意をこめて言葉をつむぎ出した。

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