第047話:核心へと迫る

 優季奈ゆきなの語りが続く。


「満月が雲一つない空に輝いていて、とてもきれいな夜だった。なぜか私は月の光を浴びながら、全身が濡れた状態で目覚めていたの。寒さを感じることさえなかった。そんな状態で、神月代櫻じんげつだいざくらの下に一人で立っていたなんて、まるでホラーだよね」



 まさにそのとおりだ。そして、それをそのまま返す馬鹿はここにはいない。反応がないことで、優季奈は恥ずかしそうに小声で謝罪の言葉を口にした。



 人は死ねば、肉体は火葬されて骨と灰だけになる。誰もが知る常識だ。



 では、精神はどうだろうか。魂と置き替えてもいいだろう。優季奈の話を聞きながら、皆が同じことを考えている。



"健全な精神が健全な身体の中にありますように、と願われるべきである。"


 古代ローマの詩人デキムス・ユニウス・ユウェナリスが著書『風刺詩集』の中で書いた一文で、強固なまでの精神力の重要性を説いている。


 もしも何らかの形で精神が健全かつ強固な状態で守られていたなら、肉体もまたその状態でありうるのではないだろうか。



 常識を取っ払って考えないと、優季奈が生き返ったという事象は理解できるものではない。



「どうしてなんて考える余裕さえなかったの。死んでしまった私に、なぜ命と身体が授けられたのか。神月代櫻は具体的には何も教えてくれなかったから」



 優季奈は言葉を切ると、紅茶をひと口含んで喉を潤す。



「具体的には。じゃあ何か抽象的なことは」



 綾乃あやのの反応に首を縦に振って応える。



「神月代櫻は生命の大樹、それが本当の姿だって。願いの強さと深さ、その二つが神月代櫻に伝わった時、二つの世界を一つとするべく架け橋ができる」



 優季奈は再び言葉を切ると、ずっと視線を据えてくれている綾乃を見つめ、それから汐音しおん鞍崎慶憲くらさきよしのり織斗おりとと順番に視線を巡らせていく。


 誰もが初めて知らされる、聞かされる話に困惑しきりだ。ましてや、神月代櫻にそのようないわれがあるなど初耳だ。



「私は神話や民話といったたぐいに明るいわけではないし、優季奈が言ったような話は聞いたこともない。皆はどうだ」



 三人がそろって首を横に振っている。



「俺も聞いたことがありません。この手の話なら図書館で郷土資料を調べたり、あるいは直接、郷土史研究家などに聞けばわかるかもしれませんね」



 汐音の言葉に綾乃がしきりにうなづいている。



「私も真泉君の意見に同感です。神月代櫻ほどの桜なら専門家がいても不思議ではありません。植物学の観点からも何かわかるかもしれませんし」



 織斗だけは口を開かず、何かを考えこんでいるように見える。優季奈が横顔をのぞきこむようにして尋ねる。



「織斗君、どうかしたの」



 おぼげに浮かびかけていた、とある記憶が優季奈の言葉で失せていく。織斗はわずかにかぶりを振ると、優季奈に視線を向ける。



「いつなのかはっきり覚えていないけど、幼かった頃の記憶がふと頭に浮かんだんだ。朧げにわかるのは、満開の桜の下にいて、近くに小さな神社のようなものがあった、というぐらいなんだけど」



 三人の意見を取りまとめるようにして鞍崎慶憲が言葉を発する。



「貴重な意見が出たことだし、この連休に私なりに調べてみよう。鷹科たかしな君、真泉まいずみ君、織斗少年にもできる範囲でと言いたいところだが、優先すべきは受験勉強だ。そこはおろそかにしないでもらいたい」



 あえて念押ししておく。響凛きょうりん学園高等学校の副理事長として決して譲れない部分だ。三人にはやや厳しめの目を、打って変わって優季奈にはおだやかな目を向ける。それをもって優季奈が再び口を開く。



「私には神月代櫻が何を言っているのかよくわからなかった。伝わってくる想いを受け止めるしかできなかったから。私、心の中で必死に問いかけたの。どうして二度目の命を与えてくれたのかって」



 四人が四人とも優季奈の言葉に聞き入っている。ようやく核心に近づきつつある。誰もが最も知りたいところにこれから触れようというのだ。



「私の想い、私を忘れずにいてくれている多くの人たちの想い、それらが積もり積もったからだ。神月代櫻が告げてくれたのはそれだけ。それ以上は何も教えてくれなかった。でもね、私には十分だったの。正直、理由などどうでもよかった。逢いたかった人たちにもう一度逢える。ただそれだけで」




 立ち尽くす優季奈ははたと困ってしまった。


 どうやら生き返ったらしい。その事実だけはなぜかすんなり消化できたものの、ここがどこなのかということ以外、何もわからない。


 そもそも、死んでからどれぐらい経っているのか。今、自分はどういった姿なのか。どうやら服だけは着ているようだ。その全てが濡れてしまっている。


 優季奈は混乱するあまり、まともに思考ができずにいた。ただただ花びらが風に揺られて舞い踊る神月代櫻の下で呆然ぼうぜんとするばかりだった。



「立ち尽くす私に神月代櫻の言葉が響いてきたの。はっきりと覚えている。私の中に刻みこまれていると言った方が正しいのかも。それは私が生き返るための代償だったから」



 織斗の身体が跳ねた。感情はすんでのところで抑えこんだ。あの時の二の舞だけはしてはならない。何とか自制した織斗は手を握ったまま優季奈を見つめた。


 織斗の視線を真正面から受け止めた優季奈はすぐに気づく。



(織斗君、怖いの。怖いよね。私だってすごく怖い。今から私、もっとひどいことを言わなきゃいけないから)



 織斗の目の奥で感情が揺れ動いている。優季奈が見抜いたとおり、一番大きいのはおびえだ。優季奈は確かに言ったのだ。生き返るための代償と。



(どうして、優季奈ちゃんがまた代償を払わないといけないんだ。死よりも大きな代償があるはずなんてないだろ。なぜ優季奈ちゃんばかり苦しめるんだ)



「代償は三つあったの。一つ目は、自分から佐倉優季奈と名乗れないこと。二つ目は、私を佐倉優季奈と認識してくれない限り、愛する人たちに決して触れられないこと。相手の人たちもまた同じ。そして、最後の三つ目が」



 一息で最後の代償まで言葉にしようとしたところで綾乃が咄嗟とっさに制止をかけた。



「待って、ちょっと待って、優季奈」


「綾乃ちゃん」



 いつしか二人の呼び名はこれで決まったようだ。綾乃がすがるような目を向けてきている。



(よくない兆候だな。勢いのままに言い切っていた方が優季奈は楽だっただろう。間を置いたことで、言葉にするのがさらに辛くなる。私でさえ、聞いた時は絶望しかなかったからな)



「正直に言うね。私は聞きたくないの。三つ目の代償は最初の二つ以上に厳しいものでしょ。およそ推測できるもの。もしそれが当たっていたら、優季奈と同じぐらいに私も耐えられない」



 ハンカチで目元を押さえる綾乃の後を引き取って、今度は汐音が言葉を発する。



「なるほどなあ。だから沙希さきはあんなことを言っていたのか」



 沙希とは、汐音の幼馴染でレスキュー部副部長の路川みちかわのことだ。怪訝けげんな表情の織斗が問いかけてくる。



「汐音、路川さんは何と」



 路川と優季奈の接触はあの時しかない。セーフティエアクッションから助け出された後、優季奈を保健室に連れていく際、確かに路川は優季奈の腰に手を添えていた。



「あの時、俺たちにはしっかり触れているとしか見えなかった。だが、沙希は『触れられなかった』と。こうも言った。『目の前にいるのに、はるか遠くにいるかのようだった。不思議なこともあるものね』って。いかにも沙希らしい言葉なんだけどな」



 汐音と織斗の視線が優季奈に向けられる。優季奈は小さく頷くと口を開いた。



「助かった安堵感と織斗君に出逢えた嬉しさから気が散ってしまっていたの。もっと慎重でなくちゃいけなかったのに」



 路川への対処は別途考えなければならない。方法がわからない優季奈が鞍崎慶憲に不安げな目を向けた。鞍崎慶憲が口を開くよりも早く汐音が答える。



「沙希なら心配は要らないよ。沙希は打ち解けた人間以外に興味がないんだ。初めて逢った佐倉さんは興味の対象外だ。そもそも他人に無関心なんだよ。それでも心配なら、俺から言い含めておくから」



 それで問題ないかと鞍崎慶憲に目で確認を求める。



「真泉君と路川君は幼馴染だったな。真泉君がそこまで言うなら信じてよいだろう。言い含めるか否かは任せる。だが、事が露見したあかつきには相応の対応を取らせてもらう」



 最後の言葉は半ば脅しにも近いだろう。大人として、また響凛学園高等学校副理事長としての覚悟を示しておく必要がある。だからこそ鞍崎慶憲はあえて口にしたのだ。



「大丈夫です。沙希のことなら俺が一番よく知っていますから」



 汐音の明瞭な言葉に鞍崎慶憲が頷く。優季奈も同様だった。その優季奈に汐音が尋ねる。



「ところで佐倉さん、三つの代償について、織斗は知っていたの」



 首を横に振って応える。



「知っているのは両親と叔父さんだけ。これから知る人が増えるかもしれないけど、織斗君、綾乃ちゃん、真泉君には真っ先に知っておいてほしいの。うんうん、知らせなきゃいけないの」

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