第046話:織斗と優季奈、過去に遡って

 高級ウバをたしなみながら何げない談笑が続く。それぞれが二杯目を飲み終えた頃、鞍崎慶憲くらさきよしのりが切り出した。



「喉もうるおったことだ。本題に入ろう。鷹科たかしな君、真泉まいずみ君、今日は時間を割いてもらって感謝している。二人は既に目の前の少女が鞍崎凪柚なゆではなく、優季奈ゆきなという名前だと知っている。詳細を話すには四年ほど前までさかのぼらなければならない」



 綾乃あやの汐音しおんうなづきつつ、二人の視線が優季奈に向けられる。優季奈もまた頷き、横に座る織斗おりとを見つめた。



「鞍崎さん、まずは俺の話から鷹科さんと汐音に、そして優季奈ちゃんにしたいのですが。よろしいですか」



 優季奈の視線を受けて織斗が答える。



「もちろんだ。織斗少年、ここからは君に任せる。優季奈とともに進めてくれ」



 織斗が真剣な眼差しで綾乃と汐音を見つめた。一呼吸置いてから織斗が言葉をつむぎ出していく。



「この話は一生涯、誰にも話さないと決めていたんだ。まさか、こんな日を迎えられるなんて夢にも想わなかったよ」



 織斗はしばらく視線を宙に彷徨さまよわせてから、優季奈と初めて出逢ったあの四年前、中学一年生が終わった春休みのことを脳裏に描き出していた。




「昨日聞いていたから、鷹科さんも汐音も知っているね。今、鞍崎さんが言ったとおり、彼女は鞍崎凪柚さんじゃない。佐倉さくら優季奈さん、それが本当の名前だよ」



 綾乃も汐音も、織斗を通じて間接的とはいえ、鞍崎凪柚の本当の名前が佐倉優季奈だと知ることになる。これによって優季奈に対する四人の認識がこの時点で一致したのだ。



 織斗はゆったりとした語り口で、あの日の初めての出逢いから話し始めた。




 そこから小一時間、織斗は休むことなく話し続けた。


 優季奈が亡くなったあの夜のところだけは何度も声を詰まらせ、涙も混じったためか、なかなか進まなかった。



 綾乃も汐音も内容が内容なだけに、当然ながら計り知れない衝撃を受けていた。驚愕するあまり、優季奈を何度も凝視せざるを得ず、また優季奈が亡くなり、織斗が声と色を失ったくだりでは綾乃は号泣しきり、汐音でさえ声を殺して涙するほどだった。



「優季奈ちゃんが亡くなって、幼稚で馬鹿な考えしか持てなかった俺は本気で後を追いたいと考えたよ。声と色を失ったのは、そんな俺への天罰だったのかもしれない」



 誰にともなく織斗は呟いた。反応がほしかったわけではない。



「それって失声症だよな。やっぱりPTSD(Post-Traumatic Stress Disorder、心的外傷後ストレス障害)によるものだったんだな。そして、鞍崎凪柚さんが転入してきたあの日、織斗に声が戻った。なるほど、そういうことだったのか」



 一人納得している汐音に誰も問いかけようとはしない。


 鞍崎慶憲は当然事情を知っているし、綾乃も汐音に負けず劣らず聡明だ。汐音が理解しているなら、きっと綾乃も同じだろう。



 テーブルの下で優季奈が左手を握ってくる。最大限の力をこめたと言わんばかりの強さだった。優季奈は正面を向いたまま、必死に何かをこらえているように見える。


 優季奈の心境は複雑すぎた。織斗が後を追おうとまで思い詰めていた事実に打ちのめされつつ、一方で嬉しさもこみ上げている。



(ごめんね、ごめんね。声を失うほどに辛くて悲しい思いをさせてしまって。そんなにまで私のことを想ってくれて)



 言葉にできない。口から発するだけの勇気は、今の優季奈になかった。



 気まずい雰囲気は蔓延まんえんする。敏感に察知した鞍崎慶憲が話の流れを変えた。



「私が織斗少年と初めて出逢ったのは優季奈の最後の日だった。私にとって、優季奈は可愛いめいでもあり娘でもあってね。だからこそ、優季奈に群がる有象無象うぞうむぞうは全て叩き潰す。私の使命とさえ考えていたほどだ。織斗少年が現れるまでは」



 鞍崎慶憲が優季奈に目をやった。頷いた優季奈が後を引き取って話を再開する。



「私ね、大半をベッドの上で過ごしてきたから友達が一人もいなかったの。あの時、偶然にも織斗君が通りがかってくれたからこそ出逢えた。ほんとに幸運だったの」



 優季奈と織斗が出逢ってから亡くなるまでの経緯は織斗が既に語っている。優季奈は自身の心情を少しだけ付け足しながら、肝心の話に入っていく。



「織斗君と出逢うまで、私は強く生に執着していなかったの。どうせ長く生きられない、なんて考えてもいたから。でも、出逢ってからは違った。ずっと一緒に、これまで見られなかったものを見ていきたい。そう想えるようになっていったの」



 織斗と出逢ってからの一年で優季奈の考えが大きく変わっていたのは間違いない。



「でもね、こんなことを言ったら怒られるけど、十四年間、私の身体に蓄積した苦痛は想像を絶するものだったの。どうやっても取り除けない。お医者様の力でもどうにもならない。解放されるには死しかない。そうなると、もう織斗君とも逢えなくなる。さらに苦しくなっちゃった」



 辛そうな表情を浮かべて優季奈が織斗を見つめてくる。織斗は最後に見た優季奈の安らかな死に顔を脳裏に浮かべていた。握ったままになっている優季奈の手を、今度は織斗が強く握り返す。



「結局、私は最後の最後で病気に勝てなかったの。大切な約束を果たす前に、苦痛から逃れたいあまり、死に安らぎを求めてしまったのかもしれない。それが私の最大の心残り」



 ぎこちない笑みを見せる優季奈に、たまらず綾乃が声を荒げた。



「お願いよ、お願いだから、そんなこと言わないでよ。優季奈だって病気になりたくてなったわけじゃないでしょ。死にたくて死んだわけじゃないでしょ。そんなの、あんまりだよ」



 声を詰まらせて泣きじゃくる綾乃を汐音が懸命になだめている。優季奈は優季奈で綾乃の剣幕に驚きつつ、優季奈と名前で呼ばれたことで、少しだけ距離が縮まったような気がしていた。



 適切ななぐさめ方がわからない汐音は、震える綾乃の背中を優しくさすりながら、鞍崎慶憲と織斗の間でしきりに視線を往復させている。


 目を覆っている綾乃のハンカチは既にずぶ濡れ状態だ。鞍崎慶憲がテーブルを滑らせて寄越してくる。これを使え、ということだ。汐音はこれ幸いとばかりに受け取ると、綾乃の手に握らせた。



「あ、ありがとう」



 新しいハンカチもすぐに涙で濡れ、重くなっていく。



「綾乃ちゃん、ごめんね。叱ってくれてありがとう。嬉しいよ」



 優季奈ももらい泣き状態だ。


 汐音と織斗が驚きの表情で綾乃を見つめている。視線を感じたのだろう。綾乃が汐音に向かって、ややぶっきらぼうに応じる。



「な、何よ」


「い、いや、何でもないよ」



 そんな二人をよそに、織斗は優季奈の手に自身のハンカチを握らせた。躊躇ためらいなくも受け取った優季奈は瞳にたまった涙をぬぐうと、再び話を続ける。



「私ね、死ぬ間際まで本気で生きたいと願ったの。それもまた間違いのない事実、あの時ほど強く想ったのは初めてだった。叶えられるものなら絶対に叶えたい。そんな想いを最後まで抱いていたからこそ、神月代櫻じんげつだいざくらは応えてくれたのかも」



 優季奈に幼少の記憶はほとんど残っていない。初めて神月代櫻を見に行ったのは三歳の誕生日前日だったと両親から教えられた。ちょうどその時も満開だったらしい。


 神月代櫻のかたわら、舞い踊る花びらの下でたわむれていた。その程度しか覚えていない。



「これはね、まだ誰にも言ったことがない不思議なことなの。神月代櫻はずっと私に話しかけていたような気がするの。声にならない声が心の中に響いてくるとでも言うのかな。だから私以外には聞こえない」


 織斗に、黙っていていてごめんね、と目で告げる。織斗は優季奈の言葉に頷けるところが多々あった。なぜなら、織斗もまた病室で不思議な体験をしてきている。優季奈への深い想い故なのか。それはわからない。



「神月代櫻は病室のベッドで一人いる私に、初めて色と匂いを与えてくれた大切な存在だったから」



 何げなくこぼした汐音の言葉に優季奈は笑みを浮かべた。



「佐倉さんは神月代櫻に好かれていたんだね。今の話を聞く限り、幼少の頃の記憶に何か関係があるのかもしれないな」



 汐音の言葉を復唱する。



「桜に、好かれていた」



 優季奈は最後の誕生日祝いを想い出していた。



「織斗君のお母さんが言ってくれた言葉と同じ」



 ようやく涙が止まった綾乃が尋ねかけてくる。



「ねえ優季奈、神月代櫻に話しかけられていたのよね。断片でもいいから、覚えていることはないの」



 優季奈は悲しげに首を横に振るだけだ。


 優季奈が死という眠りに就いているおよそ三年間、神月代櫻は何かと話しかけてきた。優季奈自身はそのように感じている。それが確かなことかどうかはわからない。


 具体的にどんな内容だったのかと問われると答えようもない。なぜかそこだけが霧に包まれてしまったかのようにおぼろなのだ。



「ごめんね。ほとんどの記憶が定かではないの。まるで神月代櫻が触れさせないようにしているみたい。私がはっきり覚えているのは、目覚めてからのことだけなの」

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