第三章

第045話:綾乃、汐音、織斗の関係性

 土曜の昼下がり、鞍崎慶憲くらさきよしのりの自宅に優季奈ゆきな織斗おりと綾乃あやの汐音しおんの四人が集っていた。


 広々としたほこり一つないリビングルームでは、一人暮らしだと言う鞍崎慶憲に代わって、優季奈と綾乃がお茶の準備をしている。



 キッチン上部の棚を開けた瞬間、綾乃は思わず感嘆の声をらしていた。ずらりと並んだ紅茶の茶葉を前に、綾乃はこれ以上ないというほどに目を輝かせている。


 綾乃はとにかく紅茶に目がない。趣味が高じるあまり、紅茶アドバイザーの資格まで取得するほどなのだ。許されるものなら、端から順番に全ての茶葉を飲みたいぐらいに気分が高揚している。



「すごい。三大銘茶もそろっているなんて。素敵、いいなあ」



 綾乃のあまりの食いつきっぷりは、優季奈がひいてしまうほどだった。まじまじと横顔を見つめてしまう。



(きれいで可愛い。やっぱり織斗君には鷹科さんの方が)



 そんなことを想ってしまう自分がつくづくいやになってくる。優季奈は何度も首を横に振りながら、まるで子供のようにいやいやをしている。


 視線に気づいた綾乃が、優季奈の反応をいかにも不審げに眺めている。



「驚かせてごめんなさい。それよりもどうかしたの。そんなに強く首を振って大丈夫なの」



 慌てて問題ないとばかりに言葉を返す優季奈だった。



「どの茶葉にするかは私に任せてもらっていいかな。みんなの希望は聞いてみるけど」



 綾乃が力仕事にいそしんでいる男たちに声をかける。



「鞍崎さん、お好きな茶葉はありますか」



 キッチンに立つ二人の様子を確かめていた鞍崎慶憲がすぐに応じた。



「鷹科君は随分と紅茶に詳しそうだ。君が飲みたい茶葉を自由に選んでくれて構わない」



 鞍崎から視線を向けられた織斗も汐音も、ただうなづくだけだ。どうやら男たちには、紅茶の茶葉を選ぶといった趣味はなさそうだった。



風向かざむかい君と真泉まいずみ君は聞くまでもないわね。予想していたけどね。あなたはどう」



 問われた優季奈も、紅茶の茶葉にまでは興味がないようで、ゆるりと首を横に振った。



「私も紅茶は好きだけど、茶葉には詳しくないから。鷹科さんにお任せした方が美味しい紅茶が飲めそう」



 これで決まりだ。早速とばかりに綾乃が紅茶の支度にかかる。



「やっぱり、これ、これよね。旬にはまだ早いから、あの香りはないけど。それでもこんなに高級な茶葉があるんだもの」



 鞍崎慶憲は何度か視線を傾け、二人の様子をうかがっている。優季奈と綾乃、最初は心配したものの、どうやら表面的には和気藹々わきあいあい支度したくに勤しんでいるようだ。



「二人で分担すると効率がいいわね。いつもは私一人でやっているから」



 優季奈が綾乃の前に温めておいたティーポットを置く。綾乃はすかさず人数分きっちりの茶葉を入れると、沸騰したお湯を適量注ぎ入れた。



「蒸らす時間は、この時季だと三分が適切かな」



 キッチンには必要なものが何でもそろっている。感心しきりの綾乃は、お湯を注ぎ終えると同時、タイマーを三分にセットして作動させた。



「鷹科さんってすごいね。きれいで可愛くて、賢くて、こういったことまでてきぱきとこなせる」



 人生の大半をベッドの上で過ごし、三年間の空白まである優季奈とは雲泥の差だ。それを羨ましいとは感じていない。


 確かに優季奈と綾乃、二人を比較すれば大きな差異はあるだろう。そこに何の意味があるのだろうか。


 人は自分以外の人生を歩むことはできない。羨んだところでどうしようもない。優季奈には優季奈の、綾乃には綾乃の、それぞれの人生がある。ただそれだけだ。



「でも、あなたは羨ましいとは考えていないでしょ。ほら、はっきりと顔に書いてあるもの」



 綾乃が指差す。優季奈が慌てて、両方の手で頬にぺたぺた触れている。それを見た綾乃が、お腹をよじらせるほどに大爆笑している。



 男三人、キッチンからの笑い声に呆気あっけに取られながら、心からほっとしていた。まさに昨日の今日なのだ。険悪な雰囲気がなおも残っているなら、二人を近づけた状態になどしてはおけない。どうやら杞憂きゆうに終わりそうだった。



「ひ、ひどいよ、鷹科さん」



 優季奈は頬を膨らませて綾乃を恨めしそうに見つめている。


 なぜだろう。綾乃には目の前にいる鞍崎凪柚なゆがどうしても幼く見えてしまう。間違いなく同い年のはずだ。不思議に感じられてならなかった。



 三分間の蒸らしが終わると、綾乃はすかさずティーポットから五客のティーカップに紅茶を注いでいく。あまりの手際のよさに優季奈は感動のため息をついている。



「これでいいわ。じゃあ、鞍崎さんはお運びをお願いね。私はミルクとお砂糖を用意するから」



 優季奈がお盆を手にしてから尋ねかける。



「鷹科さん、ミルクやお砂糖は入れた方が美味しくなるの」



 優季奈の質問に綾乃はとんでもないとばかりに否定の言葉を口にした。



「この紅茶を一番美味しく飲むならストレートに限るわ。でも、どうしても苦手だという人もいるから、そうなったら仕方ないわね。真泉君なんて大の甘党だし。紅茶にもコーヒーにも、お砂糖たっぷりなのよ。ほんと、お子ちゃまよね」


「えっ、私もお砂糖、要るかも。そうすると真泉君と同じ、私もお子ちゃまなのかなあ」



 さりげなく微笑む綾乃の可憐かれんさを見て、優季奈は同性ながらにどきっとしてしまった。学校一とまで言われる美少女の看板に嘘偽りなしだ。




 優季奈はティーカップを乗せたお盆を両手で慎重に持ったまま、ダイニングテーブルまで運んでいった。



「手伝うよ」



 立ち上がった織斗がすかさず優季奈からお盆を受け取る。



「ありがとう、織斗君」



 優季奈が一客ずつティーカップをそれぞれの前に置いていく。心なしか、優季奈の手が震えている。そのせいだろう、お皿の上のカップがかたかたと小さな音を立てている。



「優季奈ちゃん、大丈夫だよ。零れたところで誰も気にしないから」


「う、うん」



 二人して見つめ合う様子を、テーブルから汐音がじっくり観察している。



「織斗の中では、もはや鞍崎凪柚さんではなくて、昨日聞いた名前、優季奈さんなんだな。それにしても仲睦まじいことで」



 恥ずかしそうにしている優季奈とは対照的に、織斗は汐音を柔らかくたしなめた。



「汐音、頼むから止めてくれよ。それに今は」



 織斗が何を言わんとしているか、察せない汐音ではない。その本人が遅れてこちらにやって来る。目で詫びてくる汐音が即座に話題を変えてきた。



「鷹科さん、ちゃんと聞こえていたよ。誰がお子ちゃまだって」


「だって聞こえるように言ったんだもの。それに嘘は言っていないでしょ。真泉君がお砂糖なしで飲んでいるところ、一度も見たことないよ。はい、どうぞ」



 綾乃はこれ見よがしに汐音の前にシュガーポットを置くと、自らも席に着いた。


 優季奈と織斗、綾乃と汐音が横並びで向き合う格好だ。鞍崎慶憲は主人の席、あるいは俗に言う、お誕生日席に腰を下ろしている。



「鷹科君、紅茶をありがとう。色といい、香りといい、いつもと全く違う。一目瞭然だ。鷹科君はすごいな。選んだ茶葉はスリランカのウバかね」



 自分の得意領域で褒められた。これ以上に嬉しいことはない。綾乃はここぞとばかりに趣味全開で機関銃のごとく滔々とうとうと語り始める。鞍崎慶憲はそのいちいちに相槌あいづちを打ちながら、いやな顔一つ見せずに適切な言葉を返していく。



「なあ織斗、これができる大人の対応というものかな。しかし、あんなにはしゃぐ鷹科さんも初めて見るよな」



 汐音の指摘どおりだった。綾乃が見せる新たな一面に、織斗も驚きを隠せない。普段から控えめで、勝気なところはあるものの温厚な綾乃だ。たとえ趣味の世界とはいえ、ここまで熱く、饒舌じょうぜつだとは意外だった。



「鞍崎さんも本当に謎の多い人なんだよなあ」



 織斗の言葉に汐音は納得だとばかりに頷いている。綾乃の機関銃が止まったところで、鞍崎慶憲が言葉を発した。



「鷹科君が美味しい紅茶を入れてくれたんだ。冷めてしまったら申し訳ない。早速頂戴しよう」



 鞍崎慶憲、綾乃、織斗の三人は迷いなくカップを手にストレートで味わう。優季奈は味見も何のそのだ。いきなりスプーン一杯分の砂糖を入れ、静かにかき混ぜてから口に含んだ。


 異口同音に、美味しいという声が聞こえてくる。ただ一人、どうしたものかと悩む汐音のティーカップに向けて、綾乃がさらにシュガーポットを近づけた。



「意地を張ってないで入れたら。お砂糖がいやなら、ミルクを入れるだけでも変わるよ」



 綾乃に言われたら、よりいっそう意地になるというものだ。優季奈が小声で織斗に尋ねている。



「織斗君、どうして真泉君はお砂糖を入れて飲まないの。鷹科さんも勧めてくれているのに」



 織斗だって知りたいぐらいだ。


 汐音は普段こそ真っすぐで純粋でありながら、ある一面においては複雑な感情をさらけ出す。親友の織斗でさえ、およそ家庭内の事情だと知りつつ、そこには踏み込めないでいる。


 織斗は視線を優季奈に向けて、わからないと首を横に振った。



「俺が大人であるところを見せようじゃないか」



 汐音はカップを手に取ると、思い切って半分ほどを一気に飲み干した。見る見るうちに顔つきが変わっていく。



 あきれた綾乃が、もう不要ね、とばかりにシュガーポットを片づけようとした。汐音が速攻で呼び止める。



「綾乃姫、そんなご無体な。どうか砂糖を恵んでくだされ」



 冗談まがいの汐音の言葉に、動きを止めた綾乃が盛大にため息をついている。織斗も優季奈も同じだった。



「もう何なのよ。それに、せっかく入れた紅茶が冷めてしまったじゃない。何杯なの」



 汐音が二本の指でサインを出している。


 綾乃はたまらず再度のため息を吐き出すと、仕方なさそうに汐音のティーカップを取り上げる。保温していた紅茶の残りを注いでカップを満たし、そこにスプーンすり切れ二杯分の砂糖を加え、さらにミルクを少量入れてかき混ぜる。



「綾乃姫、甲斐甲斐かいがいしく子供のお世話をしている」



 優季奈のつぶやいた独り言に綾乃はわずかに反応を見せ、それから汐音の前にティーカップを差し出した。



「これで美味しく飲めるはずだから。飲んでみて。ああ、真泉君、それからね。次に綾乃姫とか、ふざけたことを言ったら」



 言葉をあえて切った綾乃が満面の笑みを浮かべて、汐音を見下ろしている。



「言ったら」


「殺すわよ」



 四人の、主に綾乃と汐音の二人だが、漫談を前にしては、さすがの鞍崎慶憲も笑いをこらえられない。



「凪柚、いやもう取りつくろっても仕方がないな。優季奈を除く君たち三人の関係は、何とも言いがたいほどに味があるな。およそのところは察したが、実に面白いし興味深い」



 綾乃、織斗、汐音がお互いに顔を見合わせている。鞍崎慶憲の言葉を噛み締めているのか、三人ともがぎこちない表情を浮かべている。


 その輪の中に入れそうもない優季奈だけが一人、寂しそうにしていた。

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