第044話:優季奈の長い一日の終わり

 鞍崎凪柚くらさきなゆの自殺騒動から一夜明けようとしている。



 織斗おりとはおよそ三年ぶりになるだろう熟睡を堪能していた。


 カーテンのない部屋には、薄明かりが差し込んできている。目覚めの直前だ。いつもの悪夢ではない。一風変わった夢を見ていた。



 神月代櫻じんげつだいざくらのすぐそば優季奈ゆきなが立っている。その姿は神々こうごうしくもあり、またはかなくも見えた。今にも消えてしまいそうだ。



 美しい月明かりに照らし出された優季奈の全身は濡れている。空には雲一つなく、雨も降っていない。なぜだろう。織斗が疑問に感じたのも束の間、優季奈の表情が細かく変わっていく。



 戸惑い、躊躇ためらいから喜びへ、さらには哀しみへと目まぐるしい。



 織斗は何度も優季奈の名前を叫ぶ。彼女には全く聞こえていないのか、一切の反応がない。



(ああ、これは俺の夢の中なんだ。ここにいる優季奈ちゃんは俺の夢が描き出す幻想、いや本当にそうなのか)



 織斗は浅くなってきた眠りの中で、これが夢だと気づいている。


 夢の中でも優季奈に触れられるだろうか。ふと手を伸ばしかけた刹那、優季奈の姿はき消えてしまった。



 はらはらと降り注ぐ神月代櫻の花びらが覆い隠してしまったかのような一瞬の出来事だった。


 織斗は必死に探すものの、どこにも優季奈を姿を見出すことはできなかった。



 再び名前を叫んだところで目が覚める。



「優季奈ちゃん、お願いだ。もう二度と俺の前から、消えないでくれ」



◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



 優季奈は織斗と違って、ほとんど熟睡できなかった。


 何しろ、鞍崎慶憲くらさきよしのりの車で自宅に帰ってきてからの方がはるかに大変だった。到着するなり、修羅場と化してしまったからだ。



 優季奈を見るなり、怒り狂った美那子みなこによる強烈な平手打ちにたんを発し、優季奈をかばわんとする鞍崎慶憲と美那子が無言のままにらみ合う。


 十数年ぶりとなる兄妹空手対決へと発展、慌てて二人の間に無謀にも割って入ろうとした光彰みつあきが、双方向からの正拳突きでサンドバッグ状態になるなど、筆舌しがたい惨状になってしまった。


 どうにかこうにか、父親としての威厳を保った光彰の一言で、事態は辛うじて沈静化を見るものの、四人を包む雰囲気は最悪そのものだった。



 落ち着きを取り戻したのは日が変わってからだ。


 風向家に立ち寄って、織斗の両親の話に至り、美那子の怒りもようやくにして鎮まった。



「優季奈、次に同じようなことをしたら本気で怒るわよ。どうなっても責任は取らないから、覚悟しておきなさい」



 横に座っている光彰が、いったい何を言い出すんだという顔で美那子を凝視している。



「美那子、お前、さっきも本気で優季奈に平手打ちしただろう」



 鞍崎慶憲の突っ込みもあっさりと受け流す。



「兄さん、何を言っているの。あんなのが本気なわけないでしょ。ねえ、あなた」



 美那子は真っ向切って否定した後、顔を横に向けた。突然答えを求められた光彰があたふたしている。



「お母さん、お父さんが、困っているから」



 躊躇いがちに言葉を発した優季奈が、狼狽状態の父親を申し訳なさそうに見つめている。



「いったい誰のせいだと思っているの」



 鋭い叱責がすかさず飛ぶ。矛先が優季奈に向いたことで、光彰はほっと一息、優季奈に甘いところをみせる。



「まあまあ、もういいじゃないか、お母さん。優季奈も十分に反省していることだし、ここらで許してあげても。そうだな、優季奈」



 お母さんに謝れ、と目で告げてくる。


 これがだいたいの佐倉家の日常だったりする。母が娘を叱り、父が宥めに入る。そして母の怒りは娘から父に、という構図だ。理不尽ではあるものの、どことなく風向家に似ていたりもする。



「お母さん、ごめんなさい。もう二度とこんなことはしないから」



 美那子の鋭い目が優季奈を真っすぐに見つめてくる。優季奈も負けじと視線を反らさずに、しっかり合わせる。


 母と娘の関係は複雑でありながら、やはり心の奥底では強い繋がりを持っている。それは母娘の絆、愛情と表現してもいいだろう。



 美那子は盛大なため息をついて、言葉をつむぐ。



「いいわ。優季奈、今回限りよ。沙織さんにも、織斗君にも、随分と迷惑をかけてしまったわね。明朝すぐにでも私から謝罪するけど、あなたもちゃんとしなさいよ」



 うなづく優季奈の体力も精神力も限界に達していた。美那子の言葉を聞きながらも、半ば舟をぎつつある。



「仕方のない子ね。優季奈、そのまま眠るつもりなの。さっさとシャワーを浴びてきなさい」


「う、うん、お母さん、ごめんね。私、先に休むね。叔父さん、今日はありがとう。お父さんも」



 立ち上がった優季奈がいきなりふらついている。慌てて駆け寄った美那子が支えて、一緒にリビングルームから出ていく。



「兄さん、優季奈のことで何から何まで迷惑をかけてしまって本当にすみません。優季奈は兄さんを信頼しているのですね。だからこそ、兄さんがいてくれて助かりました。ありがとうございます」



 優季奈が神月代櫻の下で生き返った後、真っ先に訪れたのが両親ではなく鞍崎慶憲だった。その理由はわからない。知るには優季奈に聞くしかないだろう。


 首を横に振って鞍崎慶憲が答える。



「光彰君、気にしないでくれ。それに礼など不要だよ。私が好きでやっていることだからね。優季奈には、私の娘の分まで幸せになってほしい。心から願っているだけだよ」



 鞍崎慶憲の顔には暗い影が落ちている。義弟とはいえ、踏み込んではいけない。その程度の節度は持ち合わせている。しばしの沈黙はやむを得ないだろう。



「どうしたの。男二人、しんみりして」



 美那子が早々に戻ってきてくれて助かった。二人の共通見解だった。



「いや、何、光彰君と一緒に優季奈のこれからのことを考えていたんだ」



 美那子が怪訝けげんな表情を浮かべながらも、疑問を口にした。



「優季奈のこれからって、えっ、まさか、兄さん、あのことを伝えていないの」



 鞍崎慶憲にしては珍しく、項垂うなだれ気味に頷く。



「何をしているのよ。一番重要なことじゃないの。織斗君も、沙織さんも」



 感情がたかぶりかけている美那子に対して、鞍崎慶憲は至って冷静に言葉を返す。



「あのような騒ぎの直後だぞ。言えるはずがなかろう。あれほどまでに喜んでいる織斗少年の顔を見たらなおさらだ。それは利孝君の奥方も同じ」



 兄の口調に美那子は何も反論できなくなってしまった。



「心配するな。織斗少年は三年前とは違う。見違えるほどに強くなった。実感したよ。優季奈の秘密を知ったとしても、あの時のような醜態をさらしはしないだろう」



 鞍崎慶憲は確信をもって断言した。



「兄さんがそこまで言うのならそうなのでしょうね。織斗君、優季奈が亡くなって、そのうえ声も色も失って、どれほど辛かったことか。それなのに、月命日にはいつも手を合わせに来てくれたわ。この三年、一度も欠かさずにね」



 光彰が横で何度も頷いている。鞍崎慶憲は初耳だった。



「そうか。再び巡り逢えたというのに。残酷だな」



 三者三様の想いはあれど、表情は一致して、沈痛そのものだ。



「兄さん、できるだけ早い方が」



 皆まで言う必要はないとばかりに鞍崎慶憲は右手をもって美那子に制止をかけた。



「明日、もう日付が変わったな。今日の午後だ。優季奈が直接話す。内容や順番は優季奈に任せている。私はお膳立てをするだけだ」



 今日はここまでとばかりに鞍崎慶憲が静かに立ち上がる。



「優季奈には伝えているが、正午に迎えに来るよ」



 腕時計に視線を走らせる。既に午前一時を過ぎていた。



「私がついていながら、美那子にも光彰君にも迷惑をかけてしまった。本当に済まない。許してほしい」



 美那子も光彰も、そろって首を横に振っている。



「兄さん、もうこんな時間だし、泊まっていったら」


「いや、気持ちだけもらっておくよ。私はこれで失礼する」



 呼び止めるのは無理だと悟った光彰が別れの挨拶を送った。



「兄さん、お気をつけて。おやすみなさい」



 右手を軽く挙げて応じる。



「ああ。光彰君も、おやすみ」



 リビングルームから出ていく鞍崎慶憲の後ろ姿を見送りながら、光彰が美那子に、このままでいいのか、と目で訴えている。



「見送ってくるわ。あなたは優季奈をお願いね」



 美那子はそれだけ告げると、兄の後を追って玄関に向かった。




 靴を履き終え、出て行こうとしていた鞍崎慶憲に背後から声をかける。



「兄さん、優季奈のこと、本当にありがとう。兄さんがいてくれなかったら、今頃あの子はどうなっていたことか。それを想像するだけで身体の震えが止まらない」



 振り返った鞍崎慶憲が何とも言い難い表情を浮かべている。



「そんな顔しないでよ。もう子供じゃないんだから」



 昔から泣きそうになっている妹を宥めるのは、いつも兄の役目だった。



「お前が幾つになろうとも私の妹であることに変わりはない。美那子、お前も大変な一日だったんだ。今日はゆっくり休めよ。おやすみ」


「おやすみ、兄さん」



 扉を開けて一人離れていく兄の背中が闇の中に消え去るまで、美那子はずっと見守り続けていた。

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