第043話:溢れる愛に包まれて

 織斗おりと優季奈ゆきな沙織さおりの待つ玄関まで歩いていく。その背中を見ながら、利孝としたか鞍崎慶憲くらさきよしのりに言葉をかける。



「慶憲君、よく来てくれたね。およそ三年ぶりか。嬉しいよ。それにしても、凪柚なゆさんに対しては随分と過保護じゃないか」



 言われるまでもなく自覚している。


 そして、その根底にはまだ織斗にさえ明かしていない大きな秘密がある。近いうちに知ることになるだろう。今はその時ではない。



「これでいいんだ。あの子には、凪柚には、今を精一杯謳歌おうかしてほしい。それ以外は何も望まない」



 もう踏み込むなと言っているに等しい。利孝は察すると話題を変えた。



「凪柚さん、素敵な娘さんだね。ところで、凪柚というのは偽名だね。慶憲君、私の特技を覚えているかい」



 しまった、という表情をありありと浮かべた鞍崎慶憲を見て、利孝はほくそ笑んでいる。



「相変わらずだな。性格が悪いぞ。ああ、そうだったな。迂闊うかつだったよ。君は、ほんのわずかでも一度見た顔は決して忘れない。そうだったな」



 鞍崎慶憲の言葉に利孝はうなづきつつ、独り言のようにつぶやく。



「まさしく、事実は小説より奇なり、だよ。織斗は一目見た時に気づかなかったんだね。固定観念にとらわれすぎて、こんな簡単で大事なことを見抜けないとは、父としてちょっとがっかりだな。想像力を働かせれば、すぐに気づけただろうに。ましてや、あれほど好きになって、今なお忘れられない人のことをね」



 思わずため息が出てしまう。鞍崎慶憲は利孝の横顔をにらみつけた。



「これだから、君と話をするのがいやなんだ」





 織斗が凪柚の背に手を添えて、少しだけ押し出す。



「お母さん、こちらが鞍崎凪柚さんだよ」



 沙織にも予感があったのだ。


 だからこそ、向かってくる最中、沙織は凪柚の一挙手一投足に至るまでを凝視していた。右手が左上の髪に触れたこともだ。触れる前にはなかったものが、触れた直後からそこにある。沙織がよく知っているものだった。



 近づいてくる凪柚を、それを間近で見た瞬間、たまらず沙織の瞳から涙がこぼれ落ちていた。



「お母さん、どうしたの」



 驚き、心配そうに声をかけてくる織斗の声も聞こえない。沙織は凪柚に自ら近寄ると、その小さな身体を抱きしめた。



「お帰りなさい、優季奈さん」



 何の躊躇ためらいもなく、優季奈と呼んだ。


 たったひと言、そこにあらゆるものが凝縮されている。沙織の心から欠けていた部分がようやく埋まった瞬間でもあった。



 優季奈は優季奈で、いきなり名前を呼ばれるとは想像もしていなかった。一瞬の驚愕と戸惑いから身体が硬直する。それは沙織の温かい抱擁によって、すぐさま消え去る。



「ただいま、ただいま、お母さん」



 しがみついて嗚咽おえつらす優季奈を、沙織はさらに強く抱きしめる。耳元でささやく。



「今、お母さんって呼んでくれたわね。とても嬉しいわ、優季奈さん」



 沙織の胸に顔をうずめたまま、涙声で優季奈が尋ねてくる。



「私、これからも織斗君のお母さんのこと、お母さんって呼んでもいいですか」


「ええ、もちろんよ。優季奈さんのお母さん、美那子みなこさんと混同しないように、何だったら沙織でもいいわよ」



 優季奈は沙織の腕の中で大きな愛に包まれていることを実感している。それがたまらなく嬉しかった。




「優季奈さん」



 沙織が呼びかけてくる。涙で声を詰まらせた優季奈は少しだけ顔を上げた。



「は、はい」



(あの時と一緒、すごく優しい目)



「優季奈さんが、いつ私の娘になってくれるのか。楽しみに待っているわね」




 優季奈の心臓が早鐘はやがねを打っている。流れ落ちる涙は美しく、さらに瞳にもこぼれんばかりの大粒の水たまりができている。



「私、娘になっても、いいのですか」


「もちろんよ。だからね、織斗のお嫁さんになってくれると嬉しいわ」



 優季奈がたまらず沙織に抱きつく。それは恥ずかしさからか、それとも喜びからか。



「ちょ、ちょっとお母さん、いきなり何を言っているんだよ。そんな突拍子とっぴょうしもないこと、優季奈ちゃんに失礼だよ。それに迷惑じゃないか」



 すかさず抗議の声をあげたものの、沙織と優季奈、二人からいっせいに視線を向けられ織斗はあたふたしている。




「織斗にとっては突拍子もないことなのね。そうなのね。お母さん、こんなにも可愛い娘ができると思って喜んでいたのに残念だわ。ね、優季奈さん」



 沙織に次いで優季奈の番だ。まるで本当の母娘、あるいは姉妹のように、息ぴったりのところを見せつけてくる。



「織斗君、私じゃ、だめ」



 上目遣いのうえ、涙をいっぱいにためた瞳だ。この天使の破壊力を前にしては、織斗にできることなど何もない。



「そんなことないに決まってるよ。優季奈ちゃんじゃないとだめなんだ。でもね、優季奈ちゃん、こういうことは、ほら、ちゃんと順番どおりに、優季奈ちゃんの意思を確かめてから、というか」



 しどろもどろの織斗の肩を利孝が二度叩いて、あきらめろと言わんばかりの顔を向けてくる。



「お母さん、もうそれぐらいにしてあげたら。優季奈さんもつき合わせてしまってごめんね」


「い、いえ、私こそ、すみませんでした。織斗君のお父さんですよね。あの、はじめまして」



 ようやく沙織から離れた優季奈が利孝に頭を下げる。



「こちらこそ、はじめまして。織斗の父の風向かざむかい利孝です。優季奈さんとは実はこれが二度目になります。一度目はあの日でした」



 それだけで優季奈は察した。



「私、あの時は」


「いいんですよ。優季奈さんは何も言わなくても」



 優季奈は、沙織とはまた違う優しさ、温かさを利孝から感じ取っていた。



「私もね、慶憲君と同じです。奇跡という言葉は好きじゃないんです。でもね、科学や医学では考えられない出来事がこの世界には満ちあふれています。だから、ここに優季奈さんがいても何ら不思議ではないんですよ」




 鞍崎凪柚ではない。佐倉優季奈として受け入れてくれている。それがどれほどの喜びか。両親や叔父以外にはいないと信じていた。唯一の例外、織斗でさえ認識してくれるまでに随分と時間を費やした。



「優季奈さん、私たちは織斗と違って、より柔軟な思考力の持ち主なんだよ。一目で優季奈さんだと見抜けなかった織斗はまだまだだね」



 そうそう、と大きく頷いている沙織は全く悪びれる様子もなく、最後の一言を優季奈に告げた。


「優季奈さん、男はね、こうやって手のひらの上で転がしておくのよ。それが円満の秘訣だから。忘れないでね」



 沙織は見事なまでに実践してみせたわけだ。やられた織斗はたまったものではない。



「お母さん、変なことを優季奈ちゃんに吹きこむなよ」



 ここは笑っていいのだろうか。優季奈は真剣に考えつつも、自然と笑みがこぼれてくる。




「凪柚、いや、風向家の皆さんは正しく認識してくれた。もう優季奈でいいな。そろそろおいとましなければ。皆さんに迷惑がかかる」



 鞍崎慶憲の言葉に優季奈は名残惜なごりおしさを感じつつも素直に頷く。ひと足先に風向家の三人に挨拶を済ませた慶憲が背を向ける。



「車に戻っている。優季奈も挨拶を済ませてから来なさい」



 見送る利孝が独り言のように呟く。



「相変わらず不器用だね、慶憲君は。それが彼の魅力でもあるんだけどね」



 思いがけない父の言葉に、織斗も去っていく鞍崎慶憲の背に視線を投げかけた。


 二人の関係を全く知らない織斗にとって、父の言う魅力がどういったものかはわからない。唯一わかるとすれば、優季奈を実の娘のごとく心から愛しているということだ。



(鞍崎さん、本当に不思議な人なんだよなあ)




「沙織お母さん、お別れの前にお願いがあります。もう一度、抱きしめてくれませんか」



 どこに断る理由があるだろうか。沙織の中では、優季奈は既に可愛い娘になっているのだ。



「いらっしゃい、優季奈さん」



 両手を広げたところに優季奈が迷いなく飛び込んでくる。



「沙織お母さん、とてもいい響きね。優季奈さん、あの時の約束の続きよ。今度こそ我が家に遊びに来てね」



 沙織は痛いぐらいの強さで優季奈を抱きしめている。その痛さこそが生きている証拠でもある。



 優季奈は心の中が愛で満たされていることを強く実感していた。

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