第042話:優季奈の宝物
しばらく
(すぐに気づいてあげられなくてごめんね。優季奈ちゃんの左手が髪に触れたところは見ていたんだ。それが俺への合図だったんだね)
優季奈の何げない仕草は、
暗い車内の中、時折入りこんでくる対向車のヘッドライトの光が反射し、今なお桜の花びらを
「鞍崎さん、質問してもいいですか」
鞍崎慶憲は前を向いたまま、小さく首を縦に振った。
「優季奈ちゃんが髪に留めているヘアクリップ、これは鞍崎さんが掘り起こして、優季奈ちゃんに渡したのですか」
優季奈が亡くなった直後のことだった。
織斗自ら優季奈の髪に
「優季奈の誕生日プレゼントとして織斗少年が手作りしたものだな。いや、私はそのようなことはしていない。そもそも、神月代櫻の根元に埋められていたことさえ知らなかった」
鞍崎慶憲でなければいったい誰なのだろう。考えたところで答えは出てこない。
「優季奈が生き返って最初に訪れたのが両親ではなく私のところだった。その時には既に髪に
まるで独り言のように
いつから目を覚ましていたのだろう。織斗の手を優季奈がそっと握った。
「優季奈ちゃん、目が覚めた」
「うん。叔父さんの言ったことは本当だよ。このヘアクリップ、織斗君が私のために作ってくれたんだね」
ぎゅっと握ってくる優季奈の手は、あの時と違って冷たくない。血が通っている。優季奈が生きている
「下手でごめんね。お母さんがこっそり細工してくれていたようだけど、俺、手先が器用じゃないから」
優季奈は織斗の肩から頭を起こすと、髪に挿しているヘアクリップを自ら外した。その拍子に優季奈の髪がはらりと落ちる。それだけで織斗は胸が弾んだ。
「そんなこと関係ないよ。それに全然下手じゃないし。織斗君の気持ちがこめられている。それだけで十分なの。この桜のヘアクリップは私の宝物だから。織斗君、十五歳の誕生日プレゼント、ありがとう。ずっと、ずっと大切にするね」
優季奈は右手に乗せたヘアクリップを
「織斗少年、まもなく君の自宅だ。
今の言葉で織斗は確信した。やはり鞍崎慶憲と父は知り合いだ。病室での一件から、そうではないかと感じていた。
「この時間なら、間違いなく在宅しているはずです。確かめてみましょうか」
「いや、その必要はない。不在ならそれでいいんだ」
挨拶は必要最低限というところか。あの時に感じたように、二人の関係性は良好とは言い
「鞍崎さん、やはり父とはお知り合いでしたか。あまりいい関係ではなさそうですが」
鞍崎慶憲は感心しながら、ルームミラーをわずかにのぞいた。織斗は真っすぐに前を向いている。
「ほう、なかなかの観察眼だな。いつ気づいた、と言ってもあの時しかないか」
織斗のいる前で利孝と会ったのは後にも先にもあの病室でのみだ。
「優季奈はどうする。
幾分不安そうな顔で優季奈が尋ねてくる。
「叔父さん、私が突然顔を出したりしたら、織斗君のお母さんにご迷惑をかけてしまわないかな。それに私が誰かなんて、きっとわからないし」
両親には鞍崎
「織斗少年、君の判断に
織斗が即答で応じる。
「俺が決めていいのなら、会っていってほしいです。両親には鞍崎凪柚さんとしての話は済ませています」
織斗はなおも不安そうにしている優季奈に問いかける。
「もちろん、優季奈ちゃんさえよければだよ。いやだったら、無理しなくていいから」
優季奈はふるふると首を横に振って答えた。
「いやじゃないよ。私も織斗君にお母さんに会いたいもの。でも、ちょっと怖いの。だから、織斗君が一緒にいてくれるなら」
織斗は胸がいっぱいに詰まって、それでいて苦しさは全くなかった。
(ああ、本当に俺の天使は、帰ってきてくれたんだ)
両親が玄関前に出てきて、そわそわしながら待っている。
「鞍崎さんも、優季奈ちゃんも、少しだけ待っていてください」
一人だけ下車した織斗が両親のもとへ
車内に残った優季奈は、織斗の後ろ姿を追っている。隣に織斗がいない事実を前に、途端に寂しさを感じてしまった。
織斗が沙織と話をしている。優季奈の視線も自然と沙織に向けられる。
「織斗君のお母さん、全然変わってない。きれいなままだ。いいなあ」
初めて逢った時から、優季奈は沙織に
「そうなのか。利孝君には、もったいないぐらいの奥方だな」
鞍崎慶憲のやや
「叔父さん、織斗君のお父さんとはいつから知り合いだったの。それに織斗君が言ったとおり、仲がよくなさそうだけど」
優季奈にどう説明すべきか、実に悩ましい。下手をすると、利孝だけでなく、織斗までけなしかねない。そうなると確実に優季奈が悲しむ。
(それは避けないといけないな。今の優季奈は織斗少年しか目に入っていない。致し方がないが)
「大学の同期だった。妙な縁があって知り合いになり、すぐに意気投合した。実に優秀な男だった。だが」
優季奈は続きを待った。そこで止まったまま、鞍崎慶憲は固く口を閉ざしている。これ以上は
「両親に伝えました。優季奈ちゃんのことは鞍崎凪柚さんとして」
それでよかったか、と目で鞍崎慶憲に確認する。
「私が先に行って、織斗少年のご両親に挨拶しよう。終わったら合図を出す。織斗少年は優季奈を、いや、凪柚を連れてきてほしい」
問題はない。織斗は
「叔父さん、織斗君のお父さんと何を話しているのかな。あっ、叔父さんと織斗君のお父さん、大学時代の同期だったって」
意外だった。織斗は二人がごく最近の知り合いだと勝手に信じこんでいた。
「じゃあ、京都で一緒だったんだ。俺、お父さんの若い頃って何も知らないんだよなあ」
「それは私も同じだよ」
優季奈と織斗では事情があまりに違いすぎる。比較にさえならない。織斗はかけるべき言葉が見つからなかった。
「何よりも、織斗君がこの三年の間、何をしてきたのか。何を想っていたのか。全然知らないの。それがすごく辛くて、胸が痛いの」
織斗は
「俺だって、優季奈ちゃんのこと、まだ何も知らないから。だからね、二人で一緒に知っていけばいいじゃないか。知らない部分を埋めていけばいいじゃないか」
織斗の熱い言葉に優季奈は今にも泣き出しそうだ。
「うん、うん、そうだね。本当にそうだね。一緒に埋めていこうね、織斗君」
二人の視線が静かに、穏やかに結ばれる。二人の瞳にはお互いが映し出されている。
自然と二人の顔がゆっくりと近づいていく。
あと少し、もう少し。
「おい、利孝君、早く止めないか」
「慶憲君、もう少し待とうよ。せっかくいいところなんだから」
「待てるはずがなかろう。私は断じて許さんぞ」
近づきつつあったお互いの顔が一瞬にして離れる。
優季奈も織斗も、これ以上ないというほどに顔を赤く染めている。
(あ、危なかったあ、俺、何しようとしてたんだ。優季奈ちゃんの意思も確かめず、勢いで唇を。いやいやいや、許されないだろ。うわあ、やってしまったあ)
恥ずかしさのあまり、
(私、どうしちゃったの。あんな恥ずかしいことを。はしたない女って見られてしまったかも。そんなことになったら、私、死んじゃうよ。でも)
二人から声がかからなかったら、あのまま唇と唇が触れていた、かもしれない。
想像するだけで顔から火が出そうだ。
「織斗、凪柚さんを連れて早く家まで戻りなさい。お母さん、かなりおかんむりだぞ。覚悟しておけよ」
笑顔を向けてくる父が恨めしい。織斗はため息しか出ない。恥ずかしさのあまり、まともに優季奈の顔も見られない。
「織斗少年、後ほどじっくり話をするとしようか」
そこに鞍崎慶憲が追い打ちをかけてくる。
「あ、は、はい」
織斗はがっくりと肩を落とすだけだった。
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