第041話:新たな一歩の始まり

 午後七時を回って、校庭は飛び降り騒動が嘘だったかのように静まり返っている。福永ふくなが校長の判断によって緊急要請は解除され、パトカー一台と数人の警察官を残すのみとなっている。



 凪柚なゆこと優季奈ゆきな綾乃あやの汐音しおん織斗おりとの四人は、つい先ほどまで警察官たちの個別事情聴取を受けていた。


 四人は解放されたものの、高校生だからという理由で一時的に免除されたにすぎない。警察が出動した以上、徹底した原因調査が行われる。現に副理事長の鞍崎慶憲くらさきよしのり響凛きょうりん学園高等学校の教師たちへの代わる代わるの事情聴取は未だに継続中だ。



 教室には汐音、綾乃、二人にとっての凪柚が織斗の戻りを待っていた。綾乃と凪柚に言葉はない。それを嫌ってか、二人の間を取り持つように汐音が言葉を発した。



「鞍崎さん、聞きたいことがあるんだ。いいかな」



 織斗が親友だと言った汐音と綾乃だ。二人には嘘をついたままでいたくない。凪柚は静かに首を縦に振った。



「これまでのことは織斗が全て話すと約束してくれたから、それは置いておく。鷹科さんもそうだね」



 汐音の視線が綾乃に向けられる。綾乃も言葉ではなく、うなづくことで答えとした。



「この先、俺たちは鞍崎さんをどう呼べばいいんだ。織斗が叫んだ名前は」



 全て言う必要はない。綾乃もあの場にいて聞いている。


 優季奈は自ら名乗れない。悩むまでもなく答えられることは限られている。



「それは俺から答えるよ」



 扉を開けて織斗が入ってきた。汐音があからさまにほっとしている。気持ちが十分すぎるほどにわかる織斗は汐音をねぎらった。



「ありがとう、汐音。いろいろと悪かったよ」


「お、おう」



 何とも言えない笑みを浮かべた綾乃が汐音をじっと見つめている。



「な、なんだよ、鷹科さん」



 口調がぶっきらぼうになっている時の汐音は、確実に照れ隠しだ。織斗も綾乃も伊達に長くつき合っていない。そんな三人の様子を凪柚はうらやましく見ているしかできない。



「真泉君と風向君、本当に仲がいいわね。男同士、珍しいぐらい。最初の出逢いからは想像もつかないほど」


「まあ、それこそいろいろあるし、実際あったんだよ。女にはわからないことが」



 驚いた織斗が素早く汐音に視線を向けた。早く謝れ、と目で告げたものの、既に遅しだ。



「今の発言、看過できないわね。真泉君、それって女性蔑視と受け取ってもいいわけね」



 綾乃の顔からは笑みが消え去っている。能面のごとく、感情がうかがえないほどの冷たい目がとにかく怖い。



「い、いや、決してそんなつもりはないというか。な、織斗、そうだよな」


「ちょっと待て、汐音。どうして、そこで俺に振るんだ」



 綾乃がため息をつきつつ、半ばあきれ気味に言葉をつむぎ出す。



「男子って、こうしてみると本当に幼いよね。鞍崎さん、そうは思わない」



 しみじみと、それいでいて容赦なしの綾乃は、ここに来て初めて凪柚に声をかけた。このまま無言でいてはだめだと綾乃も自覚していたのだろう。咄嗟とっさの振りに驚きはしたものの、凪柚は嬉しかった。



「そ、そう、だよね」



 わずかに笑みを見せ、すぐに表情を変える。



「羨ましいな」



 ふとれた言葉に凪柚の想いが凝縮している。束の間の静寂、破ったのは織斗だ。



「話を戻すよ。学校にいる間は鞍崎さんのままで。鷹科さん、汐音、校長先生からのお達しだよ」



 二人が同時にいぶかしげな顔を向けてくる。



「どうしてなのかわからないけど、事情聴取は簡易であっさり終わってしまったんだ。その後、すぐに校長先生から呼び出されて。だから戻りが遅くなったんだ」



 織斗の言葉に納得したのだろう。




 再び教室の扉が開く。


 視線の集中砲火を浴びて、鞍崎慶憲は一瞬たじろぐも、冷静に四人を見回した。



「よかった。四人ともここにいてくれたか。もうこんな時間になってしまった。車で送っていこう。帰宅の準備をしてくれないか。話しておきたいこともある。特に鷹科たかしな君、真泉まいずみ君にだ」



 駐車場で、との言葉を残し、こちらの返答を待たずして鞍崎慶憲は早々に去って行ってしまった。



「慌ただしい人よね。ここの副理事長さんなのでしょ。ご厚意に甘えてもいいのかな」



 綾乃の疑問に答えたのは凪柚だ。



「ぜひそうしてください。あっ、あの人、鞍崎慶憲は私の叔父です」





 鞍崎慶憲は綾乃、汐音の順で自宅まで送り届けた。玄関に迎えに出てきた親への説明も、学校の副理事長と名乗るだけで、疑いの余地なく、至って簡単に済んだ。



 車内では綾乃と汐音に対して、今後も学校内では鞍崎凪柚という名前で通すこと、凪柚を転入させた経緯とその目的だけを告げた。



「二人とも納得できないという顔だな。当然だろうな。この短時間で語れるものではないんだ。そこでだ。唐突で申し訳ないが、二人は明日の午後、時間を作れるだろうか。改めて詳細を話したい」



 幸い明日は土曜日だ。学校も休みのうえ、たまたま綾乃も汐音も予定が入っていなかった。



「俺は大丈夫です。だめだったとしても、無理矢理作りますよ」



 汐音に次いで、綾乃も答える。



「受験勉強の時間が削られるのは難点ですが、それ以上にこの話に興味があります。だから、私もイエスです」




 綾乃と汐音がいなくなった後部座席には、助手席から移った優季奈、織斗の二人が座っている。


 さすがに優季奈は疲れ切っていたのだろう。二人になるなり、織斗の肩にもたれかかるようにして眠ってしまった。優季奈の顔は安らぎに満ちている。



 あの時は幼かった。優季奈との距離感を最優先して、織斗は決して手が届く範囲に近づかなかった。織斗は三年間という長い時間をしみじみと感じていた。



「織斗少年、優季奈は深い眠りに落ちているようだな」



「はい。精神的にもかなりこたえたのでしょう。私も詳しく聞けていませんが、鷹科さんといろいろあったみたいです。優季奈ちゃんは全て吞みこんだようですが」



 優季奈の様子をルームミラーで確認しながら、鞍崎慶憲が続ける。



「そうか。優季奈の中で完結しているなら、もはや済んだことだ。とやかく言う必要もない」



 織斗も全く同感だった。今さら蒸し返したところで意味などない。



「織斗少年、優季奈を救ってくれて本当にありがとう。心から感謝している」



 ハンドルを握っている手前、深々とはいかないものの、鞍崎慶憲が頭を下げている。



「いえ、礼を言われるようなことはしていません。私は無我夢中で優季奈ちゃんを追いかけて、飛び降りただけです。それに校庭にはセーフティエアクッションが用意されていましたから」



 鞍崎慶憲を即座に首を横に振る。



「そうではない。確かに準備は整っていた。織斗少年が間に合わずとも、優季奈は助かっていたかもしれない。だが、それらは些事さじにすぎない」



 優季奈が飛び降り自殺を図ったことが些事とは、いったいどういうことか。織斗はとてもではないが納得できなかった。



「殴り書きのメモを読んだな。何と書いてあった」



 忘れるはずもない。



「察したな。君にかっている、と」


「そうだ。それこそが全てだ。織斗少年は正しく察した。鞍崎凪柚を、一度死んだにもかかわらず佐倉さくら優季奈だと認識し、正しく名前を叫んだ。だからこそ奇跡は起こったのだ。私としては奇跡などという陳腐ちんぷな言葉はきらいだがな」



 鞍崎凪柚を初めて見た時、半信半疑だったとはいえ、はかない希望をいだいたことは間違いない。



 優季奈はあの時、人知れず、合図を送ってくれていた。それでも確証は持てなかった。心理状態も大きく影響していた。優季奈は三年前に亡くなっている。この事実は否定しようがなく、どうしても頭から離れなかった。



「凪柚さんを初めて見た時、優季奈ちゃんであってほしい。どれほど強く願ったことか。でも、あり得ない。優季奈ちゃんはあの日、息を引き取った。いくら何でも、そんな都合のいい奇跡は起こらない」



 右肩に頭を乗せたまま眠る優季奈の重みを心地よく感じながら、織斗は続ける。



「まさに今日、鞍崎さんに呼ばれる直前です。凪柚さんに、ある姿を見ました。私が初めて優季奈ちゃんと出逢った時と全く同じでした」


「ああ、天使の姿を見たか」



 どうして、と問う前に鞍崎慶憲が言葉を発していた。



「優季奈は天使そのものだ。無論、天使など実在しない。だが、心の中で描くのは自由だ。私にとって、それぐらい優季奈は大切な存在だった。織斗少年、君もそうではないのか」



 答えるまでもない。鞍崎慶憲と同じだ。異論などどこにもない。




「優季奈ちゃんは誰よりも大切です。それに天使は天使でも、いえ、何でもありません」


「そうか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る